桃源郷からの誘い

 ユウマンジュの湯の煙は独特の香りがする。それをレイヴンは硫黄の匂いだと言って、土産の見本が置かれた棚を指差す。
 『幸福の市場』とはまた違った手腕が発揮されたユウマンジュの土産の見本は、手で抱えられる程度の大きさの籠に収まっていた。繊維が美しく見える和紙という紙に書かれた説明書きが袋の紐に括り付けられている。湯の花は温泉の成分を濃縮して結晶化させた物で、適温のお湯に溶かすとユウマンジュの温泉がご自宅でも楽しめますという内容が記されている。他にも花の香りがする入浴剤、果実の成分を湯に溶かす物、様々な美容や健康やリラックス効果を発揮する物を土産置き場にて販売してありますとさりげない宣伝がされている。
 脱衣場に来るのは早い方でも入浴するまでゆっくりで、入浴して適当に浸かればさっさと出て行く。肩まで浸かるという事もあまりしない。体だけ洗って掛け湯したら出て行ってしまう時すらあった。女湯を覗こうとしている後ろ姿はよく見たが、他の人間のように長々と湯船に浸かって暖まっている印象が無い。寒がりだからゆっくり浸かれば良いのにと誰かが言った時、結構負担になるのよと笑ったのは最近の事である。そんなレイヴンは入浴の間隔が最も予測し難くて、本当はどう入りたいのかカロルは不思議に思った事がある。
「レイヴン、買ってみる?」
 買ったら皆使うかな? と訪ねるとレイヴンはカロルに背を向けたまま手を振った。
 タオルで髪の水気を拭き取っただけで、ぼさぼさと乱れた髪は彼のもう一つの姿であるシュヴァーンのように下ろされている。それでも奇麗に梳き解されていないから、旅の同行者であるレイヴン以外の面影に直結することはない。浴衣の上に紫の羽織を羽織ったまま、脱衣所の入り口を背にして肩口からカロルに振り返る。
「止めておきなさい。匂いがキツくて色んな物に移っちゃうわよ」
 硫黄の匂いのするアップルグミなんて、おっさん、食べたく無いわよ。そう独り言を呟けば、聞こえたカロルが笑う。
 風呂から上がったばかりでまだインナーを着ればすぐに汗ばんでしまうカロルは、備え付けの子供用の浴衣を着てレイヴンの隣に座る。直ぐ外に出られるように窓の直ぐ手前の平たい大きな石の上に、草履が並べて置かれている。飛び石の周囲は草原のような深い色合いの苔が生してしっとりと濡れており、庭園の木々は庭師が丁寧に整えられ人工的な美しさがあった。深夜の森でもなかなか聞く事の出来ない虫の鳴き声や、鳥の鳴き声、水の音、木の葉の擦れる音、全てが溶け込んだように心に染み込んで安らかな気持ちに変えていく。
 そんな風景の横で、音も無くレイヴンの手が動いているのがカロルから見える。
 ちらりと目をやれば、リタで見慣れている筈の魔導器を操作する操作板が淡い光を伴って展開している。忙しなく手を動かす彼の前には魔導器は何もなく、レイヴンが何に対して操作板を開いているのか端から見れば分からないだろう。しかし、今のカロルなら分かる。きっちりと合わせた浴衣の奥にはレイヴンの心臓、心臓魔導器が納められているのだ。
「レイヴンってそうやって毎日心臓魔導器を調整していたの?」
 長く共に旅をして来たつもりだったし、レイヴンの心臓魔導器を見せてもらった事もあったが、彼がその心臓魔導器の調整をしているのをカロルは初めて見た。それだけ信頼関係が築けて来ているのだと思えば嬉しい。
 彼の心臓魔導器が調子を狂わす事は、カロルが想像していた以上に多い。今ではリタが不満と不機嫌と真剣さを混ぜて近寄り難い雰囲気を醸しながら、レイヴンの心臓魔導器を診ているのが日常化しているくらいだ。そういえば、以前の彼はトイレが長いという印象が強い。今は改善しているのだから、やはり誰の目に触れない場所でやる必要があったんだろう。それこそ、毎日。
 カロルの問いにレイヴンは手を僅かに止めて見下ろした。男の顔は涼しげで世間話をするように答えた。
「そ。武器の手入れと同じ。欠かすと痛い目見るのよ」
 レイヴンであってもシュヴァーンであっても、心臓魔導器の制作者であるアレクセイと頻回に合う機会は無い。そうなれば心臓魔導器の調子が狂った時の調整は自力で行う必要があったし、アレクセイもそれを勧めていた。その為にアレクセイは心臓魔導器の構造を細かく説明していたし、どうにか安定するように編み出される改良点でレイヴンが調節できる幅は増えていった。レイヴンの己の心臓魔導器に関する知識は、リタを遥かに凌駕していたのだった。
 カロルには全く理解できない術式が目紛しい速度で展開し消えていく。目を回しそうになっている若者の様子に、レイヴンは笑った。
「リタっちの術式は本当に丁寧で良いけど、生命の維持に比重を置き過ぎておっさんは無理ができなくなっちゃうのよ」
 その発言にカロルはレイヴンがリタの施した術式を組み替えているのだと分かった。
 心臓は活動の全てを担っている。リタの術式は戦闘をするのに向いていないと、レイヴンは言っているのだ。
 『凛々の明星』の仲間もカロルもレイヴンの戦闘能力を頼っている。彼は戦いの場において戦場を広く見ていて、敵陣に接近戦を挑んでいる真っ最中であっても援護射撃を放つ器用な真似までする。どんなに窮地に陥っても、決して動揺せずに有利な展開に戦況を導いて救われた事なんて数知れない。レイヴンが参戦しない戦闘は不安だったし、レイヴンの動きが制限されてしまっては困るとは分かっている。
 それでも言う必要があった。カロルは『凛々の明星』の首領の前に、レイヴンの友人だからだ。
「でも、レイヴンが死んじゃったら意味が無いよ」
 シュヴァーンと対峙した時、レイヴンだと信じられなかった。冷酷な敵を見る眼差しは心を容赦なく抉ったし、振り下ろされる剣の重さに最重量を誇る武器を操るカロルの腕は違う意味で震えた。リタの泣き叫ぶような魔法詠唱は耳に残り、あの冷静なジュディスの目に浮かんだ躊躇いの想いと気持ちは痛いくらいに分かった。涙一つ流さないパティの問いに、言葉を話せないラピードの咆哮にレイヴンではない誰かの回答が辛かった。逃げる時、ユーリが歯を食いしばった音が瓦礫の崩れる音よりも大きく聞こえたのは今でも覚えている。崩れた神殿を最後に見たフレンの眼差しには尊敬していた人物の死を認めていたと思う。
 誰かが死ぬ事がこれほど辛いとは思った事が無い。
 だから、勝手に死んじゃ駄目だ。帰って来た彼に皆がそう言った。
 レイヴンはその想いを言葉から感じて、術式を操作する手を止めてカロルに向き直った。
「アレクセイの大将の調整はそれはもう絶妙だったの。毎日行っていた俺の調整傾向も考慮に入ってたけど、生かさず殺さずの絶妙な調節具合だったわ」
 レイヴンもシュヴァーンも結局は他人の為に生きている人間だ。レイヴンもそれを自覚している。
 他人を守れずに見殺しにするなんて耐えられない。心臓魔導器を戦闘向けではない生命の安定に務める調整をしたアレクセイに、シュヴァーンが懇願したのを昨日のように思い出す。アレクセイが絶妙な調整を行うようになって、シュヴァーンは彼の珍しい同情なのだと感じた事があった。死ぬのなら、何時でも死ねる。あの戦場を見て来た者が目に焼き付けた絶望を知るアレクセイの無言の同情に、結局シュヴァーンは死ねなかったのだった。
 少し昔の事を思い出して現実に焦点を合わすと、息を止めているかのような顔で己を見上げるカロルを見つける。やはり自分は説明が得意ではないと、レイヴンは内心嘆息した。
 にっこりとレイヴンはカロルの緊張を解すように笑いかける。それでも、カロルの表情は和らぐ事は無かった。
「大将は良い人よ。そこは誤解しちゃ駄目だからね、少年」
「レイヴン、無理は駄目だよ」
 間髪入れず返された。手強いわねぇ…なんて呟きながら、レイヴンは操作板に軽く触れて閉じた。
 リタの施した術式を改めるつもりは無い。若き首領の目にはそう映った。
「レイヴン」
 強い口調にレイヴンが微笑んだ。手を伸ばした手を一瞬躊躇うように止めて、ゆっくりと触れるようにカロルの頭に手を置く。
「大丈夫、皆を悲しませたりしないわよ」
 勝手に死ぬなという言葉は対決し悲しい目に遭わせた『凛々の明星』だけからかと想像していたレイヴンだったが、その目算は大きく外れた。自分が所属しているユニオン、ハリーを始めとした『天を射る矢』、ダングレストの顔なじみ達にはまるで依頼でも受ける時に言わされる誓いの言葉付きで約束させられた。命を救われて立場でも弱くなったのか、シュヴァーン隊の部下達に囲い込まれ懇願され結局剣に誓わされる始末である。己の命の価値観に理解があると思っていた長年の相方に至っては、帰還を願う言葉がどこか命令のように感じて来ている今日この頃だ。
 あれか。皆で言えば怖く無いというあれか。いや、自分は怖い印象なんか無いと思っているのだが…。
 少年の強い口調は苦手だ。青年なら見て見ぬ振りする所を突いて来る。純粋に心配しか無い言葉は、嘘つきレイヴンに残った僅かな良心を喚起させるのだ。
「リタの術式勝手に変えちゃ駄目だよ。相談しなきゃ」
 その言葉に、レイヴンの表情は凍り付いた。
 長い沈黙の後、ようやく彼は口を開いた。
「少年、おっさんに炭になれと言うの…?」
 その言葉を聞いていたかのように、入り口の扉の向こうから天才魔導少女の声が聞こえる。驚きを通り越して身を縮ませたレイヴンの様子に、カロルは笑って立ち上がった。生きていれば親と同じくらいの年齢の男に自然と向き合う。
「レイヴンも行く?」
 同じ目線のカロルの問いに、レイヴンは困ったように笑った。促しではなく、問いである少年の言葉は優しい。
 優しすぎる世界は、彼にとって広大な温泉なのだ。余興で、現実には必要ない娯楽の様。浸かり過ぎてはいけないし、やるべき事の多い立場では望んでも行く事の出来ない理想郷のような世界だった。それでも傍に確かにあった世界が、今押し寄せて取り巻いて飲み込もうとしているのだとレイヴンは思っている。荒涼とした優しく無い世界が、故郷のように懐かしく似つかわしくさえ思うのに周囲はそれを許さない。
 『そうね。行きましょうか』と立ち上がり、男は逆上せたかのようにふらついた。
 浅黒い大きな手を比べれば小さい手が取る。見上げて来る心配そうな表情に、ぎこちなくレイヴンは微笑み返した。
 浸かり過ぎても、誰かが彼の手を取ってくれるに違いない。