足踏み

 部下が血相変えてキャナリの元へやって来た。
 後方支援・狙撃を担う者が平静を保てず取り乱すとは何事かと言えば、部下の報告にキャナリもその顔を僅かに青ざめるに至った。他部隊にまで名が知れているトール・ド・ヴィア隊長直々に、キャナリを名指しに訪ねて来たというではないか。慌てて彼が待っている現隊長主席の部隊の詰め所に舞い戻れば、その報告内容は真実であったと同時に信じられない。
 紺色の隊長服に身を包み、細身の剣では無く火の灯っていない煙管を手にして相手は立っている。団長と変わりない在籍年数であるが、その風貌は評議会員と間違えられてもおかしくは無い。高い身長と細い体格口元に整えた髭に、隊長服を着ていなければ騎士に見えないくらいだった。事実、彼は武術よりも魔術専門の騎士で、騎士団随一の策士であった。
 見かけた事はあるが、自分の直属の上司ではなく話す事は初めてだ。毒舌で何人もの首を跳ね飛ばし、怒りに触れた貴族は彼の陰謀で尽く埋没したと聞く。泣く子も黙る冷血な騎士は、大人の背筋を凍らす程の恐怖を保って君臨していた。噂だけでも十分に恐ろしいというのに、細身長身の男の威圧感は凄まじい。目の前に立っている自分がとてつもない重罪人で、今にも裁きの言葉が告げられて死刑に処せられる気持ちにさせられる。
 詰め所は異様な空気に満ちている。自隊を含む複数の小隊がいた筈だが、その誰もが壁際に退けられ詰め所の中心が空けられている。
 真ん中で悠々と立っていたトールは、入って来たキャナリを認め形ばかりに持っていた煙管を納めた。自然と手が背中に組まれ、胸が堂々と張られる。
「君がキャナリ小隊長か」
 トールの言葉にキャナリは姿勢を正し敬礼する。緊張のあまり端から見てもぎこちない動作だったが、トールは全く気にも留めなかった。
「我が隊から君の元に一人、出向させたい。意向を聞こう」
 簡潔な言葉に、一体何を言っているのか詰め所内の誰もが理解できなかった。余計なざわめき一つ起きず、これほどの大人数が犇めきあっておきながら不気味な程の静寂に満ちる。
 姿勢一つ変えず返答を待つトールに、キャナリは大きく深呼吸してから尋ねる。声が震えているのが自分でも分かる。
「意向……でありますか?」
 トールの片方の眉が跳ね上がった。僅かに顔を歪めると彼は形だけ煙管を口に銜えた。煙管から煙は立たず火は入っていない。
「頭の悪い娘だね、君は。私が君に問うているのは、我が隊から君の元に出向く者を育てる気があるかどうかだ」
 勤務中は冷静で表情をあまり変える事の無いキャナリが表情に驚きを滲ませる。
 詰め所に居た騎士達は無言ながらに衝撃が走るのを感じた。表情を露骨に変え、驚きの表情に互いの顔を見合わせ、信じられぬ様子で鬼のような他隊の隊長の顔を見る者も現れる。
 それはそうだった。騎士の常識としては考えられる内容ではなかったからだ。
 騎士にとって上下関係は絶対で、それは騎士団の持っている貴族意識もあってさも当然の事柄だった。部下の意向を上司は求めたりしない。それも、冷血冷徹な策士で有名な貴族の名門ヴィア家の当主が、地位的にはそれほど高くも無い下級の貴族の女性に伺っているのだ。その構図だけでも十分におかしい。騎士にとって命令は絶対で服従するべき事で、隊長は部下へ命令を下すのが仕事であり従うのは当たり前という認識だった。しかし、彼は部下の意向を聞いて判断材料の一つとして取り上げるというのだ。
 本当に彼はあの悪評を総嘗めにしている、トール隊長なのだろうか? 口にせずとも疑いが布に火を付けるように広がり出した。
 そんな周囲の反応ではあったが、トールにしてみれば当たり前の質問であった。部下一人を任務から完全に切り離して修行させるには、その師となる人物の指導への意気込みは必要不可欠だった。出向する本人のやる気は考慮には言っていない。出向までさせて何も得て来ないような無能を送るつもりは更々ないからだ。
 目の前の若き女性は狙撃の腕前は帝国騎士団一とされ、その出身も弓道の名門の筆頭に立つ貴族である。騎士団でも取り扱い難しく人数少ない変形弓の使い手で、彼女の部隊は魔導器砲の取り扱いもしている程狙撃全般に強い。狙撃手は戦況を見極め一撃で優勢にも劣勢にも変える。戦の女神のエスコートを務めるのは、軍師もそうかもしれないが主に彼等である。トールにしてみれば、一種の敬意の対象だった。
 黄金色に染まった大麦の穂のような髪を結った彼女は、気が強そうな吊り上がった目元でトールを見上げる。空の青さを彷彿とさせる瞳が挑発的だと、トールは見上げる女性の気の強さに唇の端を僅かに持ち上げた。
 最近の騎士は、貴族に反抗的な人間が多くて結構な事ではないか。
 そこに自分の性格故にそう見られているかもしれないという仮説は無い。
「弓の素質の有無にもよります」
 トールはふむ、と顎髭に手をやった。
 当然は当然の回答ではあったが、それは素質があれば十分な戦力として一人前の狙撃手として育成しようと言う返答と受け取って良いのだろう。実際、帝国一の弓矢使いである彼女以上講師を得るのは難しい。さらに弓矢の中では高度な技術が必要とされ威力も最高峰とされる変形弓の使い手は、世界を探してもそう多く無い。
 それこそギルドを探せば、キャナリ以上の使い手も見つかるやも知れぬ。そこでトールは思考を強制的に止めた。
 顎髭から手を離す間に、トールの中では結論が付いたようだった。頷いてキャナリを見下ろす。
「私の隊の狙撃手も素質はあると認めている。…最終的には君の下で変形弓が使える程度にはしてもらおう」
「…最善を尽くします」
 変形弓の扱いの難しさは認識しているのか、返答が曖昧な事を咎めたりは無い。
 キャナリが敬礼して応えると、トールは素っ気無く彼女の横を通り過ぎた。詰め所の扉に向かいながら言葉を放つ。
「君の上官には、私から話を通しておく」
 まさか上官の与り知らぬ話を進めていたのか。騎士達がざわめいた。
 上官の許可も無しに話を進めるトールのやり方は、もはや一般常識も無い無礼千万な行為にしか見えない。なにせ、キャナリの属する隊の隊長は帝国騎士団隊長主席であり、トールの上官に当たる地位であるのだ。立場では上でも力関係ではトールの方が遥かに上であったが、騎士団という社会のルールにおいてはその行為は違反も甚だしかった。
 しかし、そんな事はトールの知った事ではない。
 なにせ彼にしてみれば帝国の騎士団の社会のルール、貴族社会のルール等どうでもいい。彼の敬愛する皇帝陛下の為になる行為に対して、阻害する形で横たわる貴族や騎士団の組織の体型は邪魔で仕方が無かったのだ。貴族の私利私欲に付き合っている暇など無い。トールにとって、唯一の主は皇帝陛下その人であり、立場が上であろうと下であろうと騎士団に属する者が互いに諂う必要も無い。只管に、陛下に尽くせば良いのだ。剣であり盾であれば良い。権力など必要ない。
 トールは無言で騎士達を見つめた。騎士達もトールが無言で彼等を眺めている異常なまでの威圧に圧され、まさに蛇に睨まれた蛙の様に尽く言葉を飲み込んだ。
「私のやり方に、文句があるなら聞こう。言うが良い」
 細長い体格にしては腹の底から発され空気を圧縮する程までに響かせる声が、騎士達の気持ちを薙ぎ倒した。
 まさにドレイク団長を彷彿とさせる威厳に、詰め所の誰もが萎縮する。その様子にトールが不機嫌そうに睥睨した。
「嘆かわしい。ふぬけ揃いと言っても差し支えないぞ」
 流石は隊長格は小隊長とは格が違う。キャナリはそう思いつつ、再び自分に視線を向けたトールを見た。視線が合えば年上の隊長は淡々と言う。
「出向は遅くなっても明後日には成される。出向中は任務に同行させても構わん。技量が上がるなら好きに使うと良い」
 最早、彼の中では彼女の上官に話が通っているのが前提であるようだ。それもそうだろうと、キャナリは尊大不遜な男を見て思った。
 キャナリは何を思ったか、彼に一つ質問をしてみようという気になった。確かに質問一つ問い難い事この上ない人物であるのは変わりはしないのだが、何故か、彼は問うた問いに答えを返してくれそうな人物だと思ったのだ。
「出向者の名前は何と言うのですか?」
 若き女性の問いを聞き、トールの瞳に初めて明るい色の光が灯ったように見えた。面白がっている。キャナリにはそう映った。
 一瞬だけ浮かんだ光は、直ぐに面倒くさそうな口元の歪みに印象を取って代わられる。トールは扉に手をかけて、さっさとノブを捻り廊下へ歩み出てしまった。
「平民の名くらい自分で聞くのだな」
 閉じられた扉の奥に具現化した悪夢が消えたと気が抜けた彼等は、一拍を置いて部屋を揺るがす程の驚きの声を上げるのだった。
 貴族が平民を贔屓するなんて、正気の沙汰ではない。しかも、贔屓なんて言葉から一番縁遠い人物が、なんで平民に目を掛けるのか?
 次から次に交わされる驚きと憶測の渦の中で、キャナリはふと思った。
 思った以上に、悪い人じゃなかったんだ、と。