胴造り

 トール隊長が去って翌日の正午には一人の若者がキャナリの元に訪れた。
 シュヴァーン・オルトレインです。そう名乗った若者はキャナリよりも年下で、片方に多く落ちた黒髪に奇麗な碧の瞳が一つ隠れて勿体ないと先ず思った。紺色の隊服に重量のある片手剣を添え、ベルトには短刀が括り付けられている。荷物は遠征用に用いる丈夫な鞄に余裕ある状態で傍らに置かれ、靴も履き慣れているのかやや草臥れている。キャナリは大柄な女性ではなかったが、シュヴァーンという若者は男としては小柄で引き締まった細身故に同じくらいの体格に見えた。
 彼が、あのトール隊長が贔屓する前途有望な平民騎士という訳だ。なるほど、と思わず納得させられる。
 キャナリは貴族としては低級に位置し、貴族という存在に誇りを持っている程ではなかったので周囲の貴族意識にやや抵抗がある。シュヴァーンは平民だから当然なのだが、貴族らしさや癖が無い。振る舞いは騎士団の作法が染み付いていても堅苦しさの無い自然な動作で、口調は低く落ち着いていて彼の朴訥な性格を引き立てた。純粋なまでの気質が、貴族がそれぞれに内に持つ野心が犇めきあう騎士団で宝石の様に尊い。
 しかし、トールがシュヴァーンを贔屓する理由を真に知ったのは、彼に弓を指導して数日が経った頃だった。
 青空に高く矢が鳴って響き、影が空気を引き裂く様に姿無く突き進む。的に突き刺さる音を境にぴたりと響かなくなった音の終点と、動かなくなった影が縫い付けられた場所を見てキャナリは頷いた。中心よりもやや外れているが、既に連続して数十本の矢を放っている状態でこの精密さは大した集中力を物語っている。トール隊の狙撃部隊とも合同練習をしたことがあるキャナリだったから、彼等がその素質を認めているのに外れが無いと思っていた。目を見張るような抜きん出たものは無いが、確かにそれなりの素質はある。
 弓矢に全く触った事のない人物ではないだろうから、基礎はあったが我流も同じ。しかし、ちょっとの指導で十分に様になる。こうした方が良い、ああした方が良い、指摘しているうちに姿勢が正されその切っ先のブレが少なくなり命中精度が上がっていく。飲み込みの早さは、特に指摘する事がない今で良く分かる。
 キャナリが横に視線を移せば、碧の瞳は迷い無く的に向けられているままだ。深い呼吸をゆっくりと等間隔で行い、冷静で落ち着いているのが分かる。
「シュヴァーン、今日はここまでだ」
 瞬きを幾度か繰り返し、シュヴァーンは弓を脇に納めてキャナリに敬礼する。
「キャナリ小隊長、ご指導ありがとうございます」
 シュヴァーンが自分の放った矢を回収して戻って来るまでの間に、彼に教える事柄について考える。
 変形弓は最も扱いの難しい弓であり、短剣よりも大きめの剣に変形する特徴を持っている。剣に変形するのだから木製の純粋な弓に比べて重く、弓使いでは持ち得ない盾の役割すら担う事の出来る弓とは比べ物にならない耐久性を持つ。しかし、それはしっかりと変形弓の構造を理解し、綿密で完璧な整備と、卓越した弓術と剣術の技量を必要とする。一つでも欠けた状態で扱おうものなら、直ぐに分解してしまうのだ。
 最初に理解させるべきは変形弓の構造で、シュヴァーンには出向して間もなく変形弓を一つ貸し与えた。一通り説明は行ったが、理解していなければ先に進む事は出来ない。
 キャナリは矢を纏めて戻って来たシュヴァーンに訊ねた。
「変形弓の構造は理解できて来たか?」
「分解して組み上げられる程度にはなりました」
 全く曖昧さのない返答。シュヴァーンがトール隊の騎士であるのを如実に表す口答に、キャナリは苦笑する。
 しかしその内容は驚きを隠せはしない。変形弓を貸し与えて数日で分解して組み上げる事が出来るなど、想像もつかない。変形弓はその構造の複雑さから、全てを分解すれば100以上の部品に分解できる。整備だけで日が暮れる事は、帝国一の変形弓の使い手であるキャナリにすらある時はある。
 事実、数日でそこまで出来る様になっているならと思い、キャナリはシュヴァーンの顔を覗き込んだ。
「あまり無理をしなくても良いんだぞ?」
 シュヴァーンはキャナリ小隊に出向して直ぐに小隊の騎士達と打ち解けた。当番制の物品整理に率先と手伝いに行き、その整理整頓の上手さに後から後へと彼の協力を求めるものが後を絶たない。整備をしている騎士がいれば、手伝うのを口述に嫌にならないくらいの雑談と質問を挟む姿はある。修練にも積極的に参加していて、騎士達と打ち合う紺色の隊服は見慣れないキャナリの目に鮮やかに映った。
 なによりシュヴァーンは貴族相手に怒る事も無いし、気が合えば屈託ない笑みを見せる。言葉数は多く無かったがその分行動で示された彼の性格は、誰の目から見ても好意的だった。
 キャナリの心配が滲んだ問いに、シュヴァーンは言葉を明らかに濁す。
「いえ…その……」
 組み立てたのは稽古でも使えませんし、無理なんてしてませんよ。ごにょごにょと真っ赤になりながらシュヴァーンは言い訳する。
 まさか心配されるとは思わなかった。それがシュヴァーンが真っ赤になる本音だった。
 確かにキャナリ小隊に出向して周囲の手伝いに精を出していたは本当の事だ。彼女の元で弓術を学ぶ事が任務でもあるのだが、変形弓ばかり触れていて折角の他隊の空気を満喫しないのは勿体ない。大変そうなのを見過ごせない自分のお人好しな性格が嫌になると思う一方、変形弓の構造は器用さもあってどうにか理解して来ていた。
「小隊長が心配する程の事ではありません」
 キャナリはその言葉に、掛ける言葉を失う。
 シュヴァーンは仕事を見つけるのが上手い。いや、細かい所へ目を向けられるというべきだろう。
 その素質は人間本来の気質によるものが多いが、そういう気質を持つ人間は騎士団には多く無い。大局ばかり見る者、自分の利益ばかり見る者は多くても、小事に気を止める者は多く無いのだ。彼の上官であるトールは神経質な程だったが、彼は小事を見逃したりしない。大事に至る前の小事で事を納める事を得意とする彼は、隊長主席の座に付く事を今でも拒んでいる。性格は似ていなくとも、将来は自分と似たような方法が得意になるだろう資質をトールはシュヴァーンの中に見出したのだろう。
 その資質が大いに役立つのが弓術に違いない。キャナリはそう結論付けた。
 当然そんな事を口に出す人物ではないのは、先日あって身に染みる程知らされた訳だが…。
「トール隊長は、シュヴァーンの今後をどう考えているのだ? 聞いてはいるのだろう?」
 出向先の評判は所属する部隊の評価に直結するため、シュヴァーンの行動次第では敵の多いトール隊長には降格の危険すらある。一戦力と数える人間を出向までさせて修行させるのだから、何かしらの期待があるのだろう。自分の部隊から一人でも人が減るというのは、思った以上に痛手なのだ。
 キャナリが問えば、シュヴァーンは随分と考え込んでから答えた。
「あまり詳しくは聞かせられていないのですが、狙撃部隊に編入される事は無いそうなんです。でも、新しく狙撃部隊を作る予定も動きも無いし…。だから貴方みたいな方に師事までさせて、俺に弓術を学ばせようとしてるんだろうって不思議でならないんです」
 俺、剣の腕は悪く無いんですけどね。そう言って困った様に笑えば自分の剣の柄に触れる。
 その様子をキャナリは目を細めて見た。
「シュヴァーン、明日の任務はお前も付いて来い」
 目の前の碧の瞳が驚いた様に僅かに目を開く。命じられれば任務に付いて行けと言われていたが、この小隊長も隊長と変わらぬ突拍子も無い事を言う人なのかとシュヴァーンは思う。
 その様子にキャナリの空色の瞳は笑った様に細められた。
「私の横で、私の見る世界を見ろ」
 キャナリの表情に、シュヴァーンは思わず見とれてしまった。熱に浮かされた様に己の顔を見る年下の男に、キャナリは『だらし無い男だな』と笑った。それで気が付いたのか、シュヴァーンも『すみません』と再び赤面を地面と平行に下げざる得なかった。
 日向は温かく、まさに燃えるような思いだった。