俺が名前を呼ばない理由

 ザーフィアスの中心であり最も高い場所にある居城の佇まいは、それ相応の位より下を拒絶して来た所がある。
 貴族、議会、騎士、そのどれもが選ばれた人間達で、平民は遠いお伽噺の舞台であった場所だ。まるでちょっとした物語のように平民出身の騎士が登場したが、立派な世界と荘厳な気配が崩れる事は無い。白亜に射し込む光に白金に輝き、深紅の絨毯を行き交う光沢すらある美しい装束の間を、ギルドの少年は縫って行く。
 咎められる事はないものの、歓迎される気配はない。まるで異世界に迷い込んだかの様に、カロルはそそくさおっかなびっくり進む。
 カロルは世界を救った『凛々の明星』の首領であり、ギルドに属する仲間にも一目置かれるリーダーであるが洞窟よりも城が居辛いのは人並みだ。ユーリやジュディスは城に行くのに態々着替えて行く必要などないと豪語するし、リタに至っては馬鹿っぽいと一言で片付ける。カロルもそうは思うが、歴史が生み出した空気を前に堂々と言い放てる程の度胸は流石に無い。それをユーリは『協調性がある』と感心していたが、そうじゃないとカロルは思う。
 帝国だからって遠慮する事は無いと思うのよねーという言葉を言って退けたのは、ユニオン代表を担うレイヴンだった。頭が痛くなりそうだ。
 エステルが有りのままの皆で来て下さいという言葉だけが、蜘蛛の糸の様に垂れ下がって揺れている。
 そんな事を思いながらも、結局はダングレストとそう変わらぬ服装で歩いているカロルは早足で城内を進む。目指しているのは騎士の詰め所が集まる一角で、その方角に向かえば向かう程騎士の姿が多くなり居辛さが薄らいで来る。さらにオレンジの鮮やかな色彩が際立つ様になると、その視線や気配が歓迎されているような好意的な雰囲気に包まれて来る。
 騎士団団長代行のフレンも、隊長主席のシュヴァーンもギルドに理解がある騎士である為に、帝国はかつて無い程にギルドに好意的な状態にあるのだ。居城を私服で歩いても摘み出されたりしない。
 目的の扉の前でカロルは立ち止まった。シュヴァーン隊の詰め所の入り口を数回呼吸を整えてからノックする。一拍間を置いて開けると、真昼の日差しが扉から溢れて来た。
 詰め所は非常に多くの日差しが入り、部屋の中は温かいくらいだった。大きなテーブルの上にはザーフィアスを中心とした地図が広げられている事が多いが、毎回違う地方の地図が広げられている。どの地図も珈琲の染みや油染みがこびり付いていたが、それ以上に村の名前や地形の変化の書き込みが多くて誰も気にしない。壁のコルクボードには一面にピンとメモが張り巡らされていて、物品請求や補充状況、騎士団全体の申し送り事項等事務的な事から、飲み会の日程から美味い店の新メニュー、小隊を越えた恋人同士の囁きあいと野次に至るまで様々な物が留められている。棚には溢れんばかりに資料が収まっており、その横に申し訳ない程度の台に飲み物関係一式が収まっている。鮮やかな朱色に染め抜かれたシュヴァーン隊の旗が部屋の隅に立て掛けられているが、不思議な事に詰め所には武器が無い。騎士が携帯している物以外は存在しない部屋に、初めて訪れたときのカロルは驚きを隠せなかった。
 部屋に入ったカロルに、詰め所の人間は一瞬視線を向けた。流石に騎士達に一斉に見られるのは慣れずに体を硬直させるカロルだったが、心配を他所に騎士達は普段通りの動きに直ぐ戻る。
 大きなテーブルの端にスツールを寄せて書面に向かう男だけが、カロルに視線を留めて声を掛けた。
「カロル」
 落ち着いた低い声。カロルが視線を向けると、シュヴァーンの碧の瞳と視線が合った。
 シュヴァーンは少し考える様に間を置いた後、やはり考えつかなかったのか僅かに首を傾げた。
「何か用か?」
 入り口からそう離れていないシュヴァーンの元に歩み寄ると、詰め所内を見渡してから向き合う。
「ルブランさんに会いに来たんだけど…今は居ないの?」
 ルブラン…?シュヴァーンが少し考え込むと直ぐにカロルの用も理解したようだった。今ではギルドと騎士団が協力する機会は増えたが、貴族出身の騎士がギルドと衝突する事は多いためシュヴァーン隊が協力する事が比較的多い。『凛々の明星』と少し関わったと報告を受けたのは少し前の事。依頼を達成して依頼主に報告して少し休んで来るとしたら、今くらいになるだろうと彼等に合わせた速度を考えカロルの来訪に納得した。
 若く純粋なカロルの事だ、きっとお礼を言いに来たのだろう。そう思うとシュヴァーンはカロルの優しさに好感を持つ。
 シュヴァーンは立ち上がって数名の騎士を名指しで呼び止め、短く問答する。何故かルブランに関わる事とは見当違いな事も多く含まれている。それを何度か繰り返して、シュヴァーンは腰を下ろした。
「ルブラン小隊は帝都外に任務で出かけているのだが、帰還もまだまだ先のようだ。君が礼を言いに訪ねて来た事は、ヴィアに頼んで確実に伝わるようしておこう」
 悪びれた感情も無く、ただ事実を告げるような淡々とした口調である。
 その口調を聞きながら、カロルはおずおずと尋ねる。
「シュヴァーン…隊長は、皆を名前で呼ぶんだね」
「そうだな」
 名を冠した隊だけでもかなり大規模なギルドの人数に匹敵する。ましてや騎士団隊長主席であるシュヴァーンは、他隊の小隊長格の人間の名前まで記憶していた。名前で呼ばねば色々不便であろう。シュヴァーンはカロルの呟きに、内心首を傾げた。
「レイヴンの時は、なんで名前で呼ばないの?」
 あぁ、なるほど。親になった部下が子供が難しいと零した理由を、シュヴァーンは実感した。
 レイヴンが名前を呼ばないなんて事は、実は無い。『天を射る矢』やユニオン、各ギルドに関しては名前で呼ぶ事が多かった。
 少年青年嬢ちゃんリタっち、戯けた呼称は名前の知らない会ったばかりの人間ならまだしも、何故か付き合いの長い『凛々の明星』に限った事であったのだ。名前を呼ばない事にハリーが驚いたくらいだ。あの剽軽な性格のレイヴンがどのように呼んでも違和感はなかったし、『凛々の明星』の誰一人名前で呼んで欲しいと催促した事は無い。レイヴンも今更改めるつもりは無かった。
 項垂れるカロルは優しい子である。今の今まで気に病んでいたのだろうと思うと、少し意地悪が過ぎたかもしれんと年上の男は唸った。
「レイヴンがレイヴンである為だ」
 それでも、流石に謝罪する事は出来ない。
 レイヴンとシュヴァーンが同一人物であるのは、今や周知の事実だったが過去はそうではない。レイヴンはシュヴァーンがそれなりに演じて形作られた人物像であったが、気を抜けば基礎であるシュヴァーンの性格が出て来てしまう時があった。その確率が一番高いのが戦闘中だった。共に戦線を潜り抜けて来た『凛々の明星』の面々には、常に正体が明るみに出てしまう危険性というのが付きまとっていたのだ。エステリーゼ、フレンと、シュヴァーンを知る者まで居たのだから穏やかではない。長剣を抜いてしまえば誤摩化せない程である。
 レイヴンにとって『凛々の明星』の面々の呼称は、レイヴンであり続ける為の呪文のようなものだった。名前で呼ぶ事とは違い、口にするだけで自分がレイヴンである事を自覚する。戦闘時以外で顔を合わす者達とは、警戒の程度が違い過ぎた故の行為だった。
 今では正体も知られ隠す事は無いが、この十年で築かれた人物像との境界線が融解するのは想像もつかない。
 少年には悪いけど、まだまだ名前で呼べそうに無いわね。レイヴンが意地悪く笑っている。
 その笑みにつられてか、シュヴァーンもまた微笑みに意地の悪さを滲ませた。
「カロル、暇で仕方が無いのだろう?」
「え?」
 カロルの顔が引き攣る。図星を突かれたのだ。
 ユーリとラピードは下町へ知人と長々と話をしているし、ジュディスとエステルも少し話し込んでいるようだ。下町にも仲の良い子はいたが、流石に久々に戻って来たユーリよりカロルが優先される事は無い。今日は帝都に留まり下町の宿屋で落ち合う事になっているから、カロルは今日一日暇で暇で仕方が無かったのだ。ルブランに礼を言った後の予定は何一つ無く真っ白だ。もしかしたら話し終わったジュディスと合流できるかも…と、淡い期待がある程度だ。
 その様子にシュヴァーンが神妙な顔で告げた。
「女性の長話を侮ってはいけないな」
 シュヴァーンは苦笑して誰かの名前を呼んだ。
 直ぐに返事と共にカロルより少し年上らしい騎士の若者が走り寄って来る。まだオレンジの隊服を着ていない若者が敬礼するのを制すると、シュヴァーンは彼に調理に軽食作るよう依頼して来てくれと頼んだ。
 タイミング良くカロルの腹が鳴るのを、騎士の若者は笑って見遣る。笑ってから慌てて上官の前で礼を失した事に謝罪しようとして、姿勢を正した拍子に盛大にテーブルに腕をぶつける始末である。その様子に今度はカロルが笑う番だ。
「心を乱さず平常心を心がけろ」
 シュヴァーンが表情を崩さず落ち着き払った声で言う。
 カロルも若者もそれは無理だろうと、内心頷きあう。なにせ、目の前に居るのは帝国騎士団隊長主席で、騎士達の憧れの的であるシュヴァーン・オルトレインなのだ。光の具合で黄金色に見える装具に、オレンジの隊服と彼自身の威厳は騎士ではないカロルでさえハッとする。
 騎士の若者が『2人分で良いすか?』と問うと、シュヴァーンは『3人分だ、君も同席しなさい』と答えた。