遠心求心

 移動要塞ヘラクレスが見下ろす世界の広さを、目を細めて見ているアレクセイの背後にシュヴァーンが立った。
 シュヴァーンはここ10年近い歳月に課せられた任務を殆ど単独でやってのけた騎士だった。その存在は騎士団の中では半ば伝説と化した存在であったが、今ではアレクセイよりも騎士達の中に存在しているかもしれぬ存在でもあった。参戦した戦では負け無し、平民出身ながら洗練された一挙一動、部下想いの一面は寡黙な性格との差があったが確かに部下達に慕われた。そのオレンジの隊服と黄金色に見える装甲の金属、彼が身に纏う武器の数々は今ではアレクセイ以上に目立つ。
 黒髪に碧の瞳の男はアレクセイの腹心の部下だ。周囲からは懐刀と呼ばれる信頼関係があると言われている。
 実際、そうであったのだろう。相手はどう思っているか知らないが、確かに様々な事を気兼ねなく命じられる存在だった。まるで道具の様に気遣いすらしなかったに違いない。アレクセイはそう思い、密かに笑った。
「私が共をするのはここまでです。アレクセイ」
 シュヴァーンがあまり感情の無い声で言った。
 アレクセイも予想はしていたもののまさか口にされるとは思えず、思わず振り返る。彼の見事な銀髪が背後に広がる世界の色に僅かに溶ける。アレクセイはシュヴァーンを認めると、無警戒な程に言葉を紡いだ。
「何故だ?」
「アスタルの神殿の作戦。誰が来るにしろ親衛隊の精鋭でも無駄に命を散らします。得策ではありません」
 冷静な状況分析から来る淡々とした回答に、アレクセイはふむと唸った。
 アレクセイはこの作戦で一石二鳥を狙っていた。いや、相手が追って来る以上、これを御さねば今後の敗北に繋がる為に正念場でもあった。
 アスタルの神殿で始祖の隷長を聖核化させるのは簡単で、アレクセイも成功を確信している。しかし、アレクセイの計画を快く思わず阻止する為に追って来るだろうデューク・バンタレン、そして彼の所持する『宙の戒典』が問題であった。デュークの強さはアレクセイもシュヴァーンも知っていて、並以上の騎士ですら太刀打ちも出来ない。そして『宙の戒典』はアレクセイの切り札であるエステリーゼを無効化してみせるだろう。
 アレクセイはシュヴァーンの言葉を思い返す。
「では、お前が残るというのか?」
 シュヴァーンは動かなかったが、決意を固めたような瞳でアレクセイを見た。
「デュークは躊躇い無く人を殺すでしょう」
 僅かにシュヴァーンが唇を噛んだ。昔を知る存在の変わり様を憂いていると、アレクセイは思った。
 彼は人魔戦争の最前線を体験した現在では唯一の騎士である。死地に人を送り出す事に誰よりも堪え難い思いと、抵抗をするに違いない。シュヴァーンが彼等の代わりにアスタルの神殿でデュークと対する事を希望するのは想像に容易かった。しかし、デュークはもう昔のデュークとは違う。だからこそ、アレクセイはシュヴァーンが死を覚悟して残る事を止める事も難しいと悟る。
 団体戦や独りと複数の戦いであれば無敗の強さを誇っていたが、目の前の男は一騎打ちを苦手としている。
 シュヴァーンは覚悟しているのだ。ここが己の死ぬ場所になる事。
 そして喜んでいる。己が誰かの命の肩代わりが出来る事。
 一瞬シュヴァーンの背後にテムザの見渡す限りに続く荒野が見えた。強風に乱れた黒髪の隙間に見えた碧の輝きを、アレクセイは希望にも絶望にも見えた事を思い出す。今でもそうなのだ。その碧は鮮やかで、アレクセイに希望も絶望も鮮明に見せる。
「念を入れて神殿を崩す算段まで整えているのに…か?」
 シュヴァーンが目を閉じて小さく首を横に振った。
「その時間まで保たないでしょう」
 その言葉にアレクセイも僅かに同意の意を示した。人魔戦争後から姿をくらまし再会を果たす事の出来なかった男だが、その強さは変わらぬのだろう。デュークの事もシュヴァーンから報告を受けて知るのだから、シュヴァーンの言葉は最も信頼できる内容だった。
 親衛隊の騎士達を生き埋めにするつもりなのか。シュヴァーンの微かな批判が聞こえてきそうだった。
 絶妙な間を置いて、シュヴァーンが言葉を続ける。
「『凛々の明星』が動いていると情報が入りました。追って来るのがデュークではなく『凛々の明星』である可能性もあります」
 アレクセイも彼等の事は知っている。エステリーゼ様を護衛してくれていた新興ギルドである。粒揃いの面々でなかなかの実力を有しているいるだろうし、シュヴァーンの報告でも遜色めいた内容は無い。それでもシュヴァーンが負けるだろう要因は無く、乱戦要素が増せば増す程彼の勝機は高まる。『凛々の明星』が相手であれば尚更、親衛隊で対処できるに違いない。
 ならばお前が行く必要は無い、そう言おうとしたアレクセイの言葉をシュヴァーンは遮った。
「だからこそ行かせて頂きたい」
 シュヴァーンが静かに告げた。
「彼等が俺にすら勝てず死ぬのなら、それは幸いなのです」
 アレクセイはその言葉に静かに頷いた。
 シュヴァーンはアレクセイの非道を全て知っている数少ない部下だからだ。『凛々の明星』の若者達は世界の汚れを知らぬ若者で、アレクセイにすら眩しく見えた。その若者達が今直面しているエステリーゼ誘拐とその力を酷使する事に因る苦痛は、アレクセイの行って来た非道のほんの一片でしかない。彼等は生き残れば、芋蔓式に何もかもを知って行くだろう。
 それは人魔戦争の真実であったり、帝国の圧政であったり、アレクセイの秘匿に行った研究であり、誰かの死である。ここでシュヴァーンの正体に動揺し傷つき敗北するのなら幸いなのだ。そう思う程に酷い。酷い世界だった。
 彼等が誰よりも強いのなら、ドン・ホワイトホースの様に強いのなら、これから先目にする物を見ても大丈夫だろう。シュヴァーンの心遣いが垣間見えた。それは切ない程の情であろう。
「もし…俺が生還しても貴方の下には戻りません」
 静かに重ねられた言葉に、アレクセイは『……そうか』と応じた。
 碧の瞳は相変わらず鮮やかだ。彼は己の何処まで見据えているのだろう? アレクセイは時々、心臓を掴まれるような息苦しさを感じさえした。
 引き返す事が許されなくなった己が、シュヴァーンに期待した僅かな感情を感じたのかもしれない。罪を独りで被ろうとする意思、最後まで共に居て欲しかった期待、誰かに己の真意を伝えて欲しい欲望、後世に己の行いが報われるかもしれない羨望。彼を道具として使った非道への批判、多くの命を奪った憤り、陰謀で苦しめられた者達の復讐。
 彼は一度もアレクセイを批判した事が無かった。その碧の瞳で静かに見つめる。そして、悲しそうに目を細めるのだ。
 今までも。そして、これからも。
 シュヴァーンは姿勢を更に正して頭を垂れた。
「命令を。アレクセイ」
 胸に、アレクセイが埋め込んだ心臓魔導器の上に丁寧なまでに美しく指が伸ばされた手を置く。シュヴァーンは微動だにせず、アレクセイの言葉を待つ。皇帝亡き今、只独り、彼の主である人物の言葉を只管に待った。
「行け」
 深紅の瞳を眇めアレクセイは短く言った。
「敵を発見し、打倒せよ」
 アレクセイは知らない。
 深紅の瞳には碧以上に深い悲しみが満ちていて、それを認める度にシュヴァーンは片目しか相手からは見えない瞳を細めてしまうのだ。豪華な鎧も、立派な剣も、宝の持ち腐れの様で体を重くつなぎ止めている。戦場へ向かい、敵を薙ぎ払い、任務を全うし、部下からもそれなりに慕われる我が身が恵まれていると感じていた。全てを内に抱えて吐く手段を知らない。その瞳の色だけが、彼の感情を傷一つないだろう肌の代わりに苦しみを伝えているようだった。
 今、命令しているアレクセイがどんな表情であるか。あまり感情を表に出さない彼なので、表情は変わらないだろう。だが、瞳に浮かんだ悲しみは何時もより強いだろう。
「御意」
 シュヴァーンが応じた。
 アレクセイは頭を上げたシュヴァーンと視線を合わし、今度こそ碧の瞳に悲しみが浮かび細められたのを見た。