影踏み のよう

 ダングレストにはいつの間にか黒い男が出入りする様になっていた。
 浅黒い肌に、黒髪で、碧の瞳。厚手の黒い外套をまとい、多彩な武器をその内側に隠していた。物騒なダングレストでは当たり前の路地裏の諍いでは不敗で、大きなギルドの幹部クラスでさえ退け、喧嘩の仲裁にも多々立ち入る事があった。人当たりは優しく控えめで、どちらかと言えば寡黙で、他人とは常に距離を保っている。
 顔を見れば顔は知っているが名前は知らない。呼び名が無い事を不便に思い名を尋ねても、男は苦笑するだけで名前を名乗らない。
 そんな頃、誰かが『レイヴン』と男を呼び始めた。
 レイヴンとは鴉の意味。上から下まで黒尽くめ、瞳は目映い日透かしたような新緑、確かに鴉のようで男の為に誂えたような名前だった。ダングレストで男を知る者は、その呼び名を採用した。自分から名乗りはしないものだから、人々から与えられた名前はそのまま男の名前となった。それを不満そうにした事は一度も無く、むしろ懐かし気に目を細めて応じて来た。
 ダングレストに黒い男が出入りする様になって、一年近く経っただろう。レイヴンの存在に慣れ始めた住人達は一様に首を傾げて顔を見合わせる様になった。最近会ったレイヴンは機嫌がいい。弾ける様に人懐っこく笑ってみせれば、砕けた調子の良い口調で語りかける。誰かが最初は別人かと思ったが、目の前に居るのは確かにレイヴンである。互いに気が知れて距離が近づいて来たのだろうと誰かが言えば、そうかも知れないと誰かが納得した。しかし、住人達はレイヴンの事を良く知らなかったのだと痛感したものだった。
 人々が一人の男の代わり様にそれほど感心を払わなかったのは、ダングレストの住人達が持っていた危機感知能力の高さからだった。ひっそりと水面下でざわついていた事件を、人々は無自覚に感じ意識を向けていたからだった。
 レイヴンは夜の帳の落ち始めたダングレストの街を歩きながら、人々の声に当たり障り無く応じながら歩いていた。酒でも入っているのか少々ご機嫌な様子で人々の流れを通り抜け、路地裏へ迷い無く進み入る。黒い旅装束に黒い外套。黒髪に碧の瞳。瞳以外の黒がくっきりと落とした漆黒の影と同化して、非常に大きな人影に見えた。
 建物の影を縫う様に歩き、犬も猫も真横に立っているのを驚いて逃げる程に気配無く進む。どれくらい建物の角を曲がり、どれくらい小さい坂と階段を上り下りし、入り組んだ路地を進んだか分からなくなるほど歩いて、ようやくレイヴンは足を止めた。そこはダングレストの何処にでもあるような家の扉が見える位置。寂れた風情の漂う煉瓦の作りも、古めかしい真鍮の把手も、年季の入った木製の窓枠と薄い生地のカーテンも、誰も気に留めない程普通だ。
 ただ、とても判り辛い場所にある家。変わっているのはその程度だった。
 漏れる光を見てレイヴンは笑う。くっきりと半月の形に白い歯が浮かび上がった。まるで友人の家を尋ねるように、レイヴンは軽快な足取りで扉へ向かおうとした。
「おっと、そこまでだ」
 横から響いた声にレイヴンは立ち止まった。身構える事無く自然に声が発した方を見遣れば、建物の影から白い巨体が現れた所だった。
「ギルド内を掻き回しているのはテメェだな?」
 ドン・ホワイトホースは顎を撫でながらレイヴンを見下ろした。猫背だからかとても小さく見える。
「掻き回す? 何の事かな?」
 レイヴンはすました顔でドンの言葉を流した。その内心ではようやく追いついて来たかと、ほくそ笑んだ。
 最近、良い仕事が手に入らないんですよ。
 それはレイヴンが小耳に挟んだ他愛無い愚痴だった。
 ギルドとして創立したて、つまりルーキーギルドとは大抵ユニオンに頼って仕事を斡旋してもらう。ある程度顔が知れてくれば大きなギルドの下請けをして経験を積み、そして自信がついた頃合いには己のギルド名の誇りを賭けて責任の下に仕事を遂行するのだ。勿論、今のは慎重派なギルド運営者の意見であって、ギルド運営が必ずしもそのような経緯を踏まなくても良い。『魔狩りの剣』に至っては、首領クリントの抜きん出た実力あって瞬く間に有力ギルドに発展したからだ。
 最初にその話を聞いたのも、一年そこらの新興ギルドだから実力において信頼が無いのだろうと聞き流しもしただろう。
 しかし他愛無い愚痴は耳を澄ませば様々な場所で聞けた。
 宴席で怒鳴り散らす酔っ払いの中で、財布の冷たさを嘆く輪の中で、道中で気が緩んだ時に漏れた呟きの中で、レイヴンはその愚痴の信憑性を掴んで行った。
 ユニオンの不正。賄賂を払って良い仕事を斡旋してもらうという、ありふれた不正であろう。今までどうしてもっと頻繁に行われなかったのか、疑問に思える程だ。しかし、それはダングレストを制圧した帝国から団結して取り戻した誇り高さと、ギルドの命綱たる信頼が出来た事だったのだろう。どちらにしろ帝国騎士団隊長主席に籍を置くシュヴァーンは、その不正を良しとは思わなかった。
 帝国の介入が出来ないとなれば、ギルド内でどうにか事を治めてもらわなくてはならない。
 その為には、事を露見させる必要があった。
 幸いレイヴンは要領が良く、機転が利いて、腕も立つ。素性は曖昧で、ギルドにも属さない風来坊だ。恩師からは憎々し気に賢しいと評価されたが、その評価に泥を塗る事無く結果は希望以上を常に出した。今回もそう。ギルドの人間に悟られる事無く不正を表沙汰にさせる事は、レイヴンにとっては少し頭を使って手の込んだ悪戯を仕掛けるようなものだった。ちょっと突けば不正を暴かれる事に慣れていないギルドの人間達はあっという間に動揺し、ぼろぼろと事を露呈させていった。追っ手はギルドの事を配慮して殺さない程度にぶちのめした。
 騎士団に入る前、自分が好き勝手に自由に過ごしていた頃を思い出す。愉快で、どこか居心地の悪い雰囲気で孤独だったのが尚そう思わせた。
 これで不正が隠し切れて、懐を肥やしていた人間が逃げ仰せたら、ギルドそのものが無能な集団と評価されるだろう。
 だが心配は無用だろう。ここにドン・ホワイトホースが居るという事は自体を直視した、対応せざる得ない状況にさせられたというのと同意義だからだ。ある意味、目的は達成できた。レイヴンは機嫌の良さそうな笑みを浮かべながらドンの横を通り過ぎようとした。
「お前は誰だ」
「俺様はレイヴンですよ」
 レイヴンは足を止めてドンを見上げた。白髪に白を基調とした装束の老人は暗闇に発光しているかの様で、その存在感を隠しもしない。黒い男は闇に溶けてしまいそうで他の闇よりも尚濃く、浮き上がる様にそこに居る。老齢の為に少し細くなった瞳を更に細め、ドンはレイヴンを見て鼻を鳴らした。
「偽物でも腕は立ちそうだな」
 レイヴンはにやりと笑った。
 それは『レイヴン』を知る者なら誰もが彼はレイヴンではないと思ってしまう程、『レイヴン』らしく無い表情。顔の上に一枚、偽物の作り笑いを貼付けてレイヴンは肯定する様に黙って笑っていた。
 レイヴンは少しだけ嬉しさが込み上げて来るのを感じた。誰もがそっくりな他人を見抜かないのを見て、その程度の付き合いで甲斐甲斐しく将来を案じてやるのが気の毒なくらいだった。だが、こうして見破る者も居るのだ。『彼』の心遣いが少しは浮かばれる事だろう。
 しかし、ドンはレイヴンの考えている以上にレイヴンの事を知っている訳ではなかった。
 僅か数度刃を交え会話を重ねた程度で、特徴を事細かに覚えている訳ではない。元々黒っぽい印象に瞳の碧が際立って映えたので、擦れ違っても気が付けたか自信も無い。それでも、ドンは目の前の男がレイヴンと呼ばれている男だとは思わなかった。第一、黒い男は今まで名乗る事はなかった。むしろ名乗らなかったからこそ、ドンはレーヴァンと呼ぶに相応しいと思ったし、そう呼んだ。
 笑みを張り付かせレイヴンは大袈裟に貴族の様に優雅に頭を下げた。茶目っ気たっぷり含ませて、芝居掛かった声で言う。
「お褒めに預かり光栄ですよ」
 その大袈裟な会釈にドンは気色悪ぃなと呟いた。
 追い払う様に手を動かせば、レイヴンは逃げるように身を翻す。このままレイヴンに扉を叩かせるわけにはいかなかった。ギルドに属さぬ風来坊が不正を暴いた等という事実が出来てしまえば、ギルドの威信が墜落しかねなかったからだ。レイヴンの黒衣は建物の影に瞬く間もなく飲まれた。
「近い内に本物のレイヴンが来るでしょうよ」
 闇の中からドンをからかう様にくすくすと笑みが響く。まるで楽しくて仕方が無いように聞こえたが、それはドンやギルドに対してではないのは分かった。レーヴァンとレイヴンの間で起きるだろう反応を想像し、楽しんでいるようだと思った。自分の偉大さを知って褒めてもらいたがっている子供の様に無邪気で、親の様に叱って来るだろう滑稽さを想像している悪ガキの様に反省一つない。
 鳥が羽ばたくような音が響けば、闇に溶けていた姿が見えなくともレイヴンの気配が遠退くのを感じた。
 振り返れば黒幕共の笑い声が漏れる窓の明かりが、地面を濡らす闇を舐める様に照らしている。気が付かれては居ないようだ。ドンはそれを確認してもう一度レイヴンが去った方角を見た。
 全く同じような容姿と影が追いかけている様は影踏みのようだ。踏まれたら、どうなるのだろう。ドンは良く分からなかったが、気にも留めなかった。