猫が好む鴉

 シュヴァーンは浅黒い肌で判り辛いが、顔を蒼白にしてダングレストにやって来た。
 ダングレストの馴染みの人間に粗方顔を出して挨拶し状況を把握すると、朝方には到着した筈だったのに既に夕刻の時間になっていた。ここでは日中は夕方のような紅の空で太陽の位置も判り辛く、時間感覚が無くなっていたのだろう。休み無く歩いていたからかシュヴァーンはようやく落ち着いて、自分の背を壁に預けた。
 事の始まりはヘリオードの状況を定期報告する事を義務づけられていて、シュヴァーンは一度ヘリオードから離れ帝都に戻っていた位まで戻る。団長のアレクセイの理解は良く、報告に伴う細かい要求の調整も恙無く終わり時間もかからなかった。今回の都市建設の要求は直ぐさま評議会に掛けられる為、もっと時間が掛かると思ったが二つ返事で了承されるアレクセイの頼もしさに感動すらする。
 ある意味、彼との雑談と腕が鈍ったから修練に付き合えという、任務とは関係ない事の方が時間が掛かっただろう。シュヴァーンもアレクセイにとっては大事な時間であろうと、特に拒否もなく彼の要求に応えたものだった。
 予定した日程の通りにヘリオードに帰還すると、シュヴァーンは驚きの事実を聞く事になる。
 ダミュロン・アトマイスが来ていたというのだ。
 名目は評議会が表面上行う視察と言うもので、評議会と言うよりも帝都の貴族がヘリオードに多少興味を持っている事を意味する。アトマイス家はかなり名の知れた貴族であるが、次男坊であり老人が多い評議会の中では比較的若い分類に属する為に妥当な人選であっただろう。
 来訪の理由は視察なんて下らない事よりも、知人であるシュヴァーンを冷やかそうとする内容を主に置いていたに違いない。要領がいいので視察の報告はそれらしく答えれば、大して重要でもないので貴族達は『大義』とか言って納得するから適当だ。しかし、目的の相手は居ない落胆はそれなりにあり、ようやく結界魔導器が安定し始めた場所に娯楽の場は無い。ダミュロンは当然、顔見知りであり恩師の妻であるヴィアと世間話をして帰って行ったという。
 その中にシュヴァーンがダングレストによく買い出しに行っているという内容が混ざっていなければ、まだ心は穏やかだったに違いない。偽名を使っている事、鎧は縫いで身分を隠している事、ダミュロンなら直ぐ思い当たってしまうだろう。
 紅の空に結界魔導器が美しい白い光をまき散らしながらその術式を広げている。町並みは黒く縁取られ、人々の身に飾る金具がちらちらと星のように光った。橋の袂から遠巻きにダングレストを見遣りながら、シュヴァーンは暗い顔からどうにか嘆く様に溜息を零す。不安が的中した。自分の嫌な予感は良く当たったが、どうして間違いであれと祈っても通じないのだろうと天を呪うばかりだ。
「ダミュロンの事だ。証拠一つ残しはしないだろうな」
 吐いた呟きは雑踏に容赦なく踏みつぶされる。
 証拠一つ残さないならまだ可愛いだろう。ダミュロンがレイヴンを騙ってダングレストで大立ち回りをしたらしい。実際は騙ってもおらず相手の勝手な勘違いを利用したに過ぎないのだが、大立ち回りをした張本人がレイヴンである等とは誰も知らないのだが、後々まで響きそうな予感はシュヴァーンを悩ませ頭を痛ませるには十分だった。行く先、会う人に最近会った様に反応されれば確信もする。自分は今まで帝都に行っていて、正しければお久しぶりである筈なのだから。
 ダミュロンとシュヴァーンは良く似ている。同期で同じトール隊で騎士をしていた事もあり、それなりにからかうネタにされた事がある程だ。髪は黒、瞳は良く見れば青の強さが違うが碧、体格も背丈もそう変わらなかった。肌の色だけはダミュロンの方が白かったが、少し黒く色を塗ってしまえば簡単に同じ肌色に化け仰せてしまう。入隊当初は髪の長さが全く違ったが、今ではダミュロンも髪を伸ばしていたので髪型を真似る事も容易い事だろう。
 問題はダミュロンがダングレストで何をしたか。
 嫌な予感ばかり膨らんで胸が痛いが、知らねば胸どころか首が絞まるに違いない。背を預けていた壁から怠そうに体を起こすと、赤金の石畳に柔らかに足を運ぶ猫の瞳が瞬いた。瞳の色はダングレストの空のような赤銅色で、柔らかいクリーム色とオレンジが縞模様に体を彩っている。
 猫が鳴いた。その鳴き声を聞いてシュヴァーンは『あぁ』と猫の前に膝をついた。重たい音を立てて黒い外套が石畳の上に溜まり、差し出した掌に甘える様にその柔らかい体毛を擦らせる。やはり、そうか。シュヴァーンは微笑んで呟いた。
「無事だったか」
 にゃーお。
 猫の返答らしき鳴き声にシュヴァーンは笑った。初めて会った時は今にも死にそうな様相だった猫で、ドンに押し付ける様に預けた猫だったが、元気に生きていると知って安心する。恩義を感じているのかシュヴァーンを覚えていて懐いて来るとなれば、可愛いものだ。一応ぼさぼさに乱して来た髪型だったが、笑った拍子に崩れて顔に掛かって来る。猫は暖かいなと思いながら、寒さが苦手なシュヴァーンは猫の熱い体温に戯れる。
 一頻り触れた後だったろう。軽い足音が近づいて来るので、シュヴァーンは顔を上げた。見覚えのあるような子供が己を見下ろしているが、逆光になっている為にシュヴァーンは碧の瞳を細めて子供を見上げた。赤金の空に僅かに滲んだ色彩は黄金色。まだ幼さの残る丸みを帯びた輪郭に、ギルドらしい装いの服装がなぜかよく似合う。
 子供はじっとシュヴァーンを見てから、淡々と言葉を紡いだ。
「じいちゃんが、おっさんに用があるって言ってた」
「俺に…?」
 シュヴァーンは一瞬緊張を表情に走らせた。
 ギルドに関係していそうな子供の祖父ならば、当然ギルドの関係者に違いない。その関係者がほぼ名指しで指定して来るのだから、なにかあるのだろう。『何か』とは、ダミュロンの事に違いない。シュヴァーンはざあっと血の気が失せていくのを感じた。
 ダミュロンは鼻の利く男だった。陰謀や不正を嗅ぎ付ける感性は、ある意味二人の恩師である隊長も凌ぐ程だった。しかし、ダミュロンは不思議な事にその感性で嗅ぎ付けて他の貴族の様に利益を共有しようとはせず、暴いたり告げ口したりしてしまうのだ。ダミュロンはそうして、何十人もの貴族出身の騎士や議員や官僚を逮捕したものだった。快楽主義や金銭感覚の無さや変な気位の高さはあったし、目に留めた女は彼氏が居ようとお構い無しに手を付ける常識の無さ。男から敵視されるどころか貴族全員を敵にしていたのかもしれない。彼の親でさえ、正しい事をしても味方ではなかったようだった。危険と隣り合わせのスリルを味わいたがる人だったから、ある意味利益を得ていたとも言える。
 恩師は危険だと何度も忠告した。お前は賢しい。賢し過ぎる。凡俗に振る舞う事を学ばねば、いつかお前は己の賢しさに殺されるだろう。
 お人好しで馬鹿だったシュヴァーンだったが予言は現実味があった。
 だからだろう。確信に近いものを感じていた。
 ユニオンの不正に気が付き、暴いてしまったのだろう。もしくはヴィアがその事に触れており、予め知っていた可能性も否定できない。
 どういう方法を取ったかは知らないがユニオンは蜂の巣を突いたような大騒ぎだろう。ギルドのやり方でギルド内で事を収まらせるべきと静観を決めていたシュヴァーンにしてみれば、強引なやり方に違いない。暴くだけ暴いて、後はお願いね。彼ならやりかねない。その無茶に何度巻き込まれた経験が、ありありとその様相を思い描かせる。再会した暁には人懐っこい笑顔でお前が困っていた事を解決したと誇って来るだろう。
 シュヴァーンは溜息を飲み込むと立ち上がって子供を見下ろした。切りそろえられた金髪、鼻筋に赤いペイントが刀傷の様に真一文字に走る。鋭い瞳にまだふっくらとした唇と言うアンバランスさだったが、真っ黒い巨大な影の威圧感に屈する事無く子供は先導する様に歩き出す。ユニオン本部へ続く道へ、真っ直ぐ。
 緩やかな坂を上り切ると、本当にユニオン本部の扉の前に来た。
 その扉に手をかけて子供が振り返った。赤い日向に立ち尽くすシュヴァーンをしげしげと見つめると、何気ない様子で口を開く。
「おっさん、レイヴン?」
 シュヴァーンは言葉に詰まって、『うー』とか『あー』とか唸って考えた。
 ダングレストでは確かにレイヴンといつの間にか呼ばれる様になり、自分もそれに甘んじていたが自らレイヴンと名乗った記憶は無い。レイヴンと名乗れと勧められた記憶はとても古かったが、いざ、その名を名乗ろうと思うと少し気後れする。偽名であるから騎士道に反すると思うと、それもそれでどうかと思ってしまう。
 シュヴァーンは困った様に笑うと、こう答えた。
「そう呼ばれてるよ」
 答えてからこの子は名前を確認せずに祖父の所に連れて行こうとしたのか、と苦笑する。自分がレイヴンであると確信していたのだろう。何故か…は分からない。
 子供の手が扉を開く。ぽっかりと影に黒く塗りつぶされた空間に、躊躇いも無く水の様に猫が入っていく。
 小さい手がどうぞと言わんばかりに差し出されるので、シュヴァーンは苦笑してその手に触れた。