千鳥草

 ダミュロンは己の幸運を喜び、同時に呪った。
 そもそもダミュロンが属するアトマイス家はそれなりに名のある貴族であり、ディノイア家にも負けない知名度を持った名家だった。しかし、彼は次男坊。嫡子では無い以上は家訓も名誉もそれほどの意味は無く、彼は他の時期当主の運命を逃れた者達と同じく自由奔放だった。将来の立場を考える必要も無く悪戯や遊戯に走り、時には手に縄を掛けられる寸前の悪事も働いた。それすらも貴族の特権がものを言って逃れるのは容易い。
 父も嫡子も健康で、運命がダミュロンの足を掴まぬ限りはその生活は保証されたものだった。
 だが、突拍子も無いタイミングで運命に手が生えた。父の堪忍袋の緒が切れて騎士団に送り込まれたのを先日の様に思い出す。騎士団でもそれなりに傍若無人に振る舞って、今度は評議員になれと命じられたのも未だ鮮明な記憶だ。
 評議会はダミュロンの父であるスパルド・アトマイスが目論んだ通り、ダミュロンにとっては動き難い場所だった。騎士団の様に逮捕の権限も無く、自分の行動にそれなりに賛成してくれる上司も居ない。同期は堅物か騎士団の騎士達よりも根が暗く欲望が漆黒の色を帯びて腹の中に溜まっている者ばかり。貴族の為の法律ばかりが整っていき、それ以外の法律を整えるのは禁忌だった。ダミュロンは憂鬱だ。毎日毎日書類に目を通し、意義のない話し合いに参加して、意味も無い交流を暖めるのが苦痛だった。
 そんなある日、騎士達は殆ど城内に居なくなっていた。友人だった騎士達を探しても見つからなくなった。
 評議会と騎士団は隔たりというのがその頃には既に高い壁のようにあって、騎士団がどのような任務でこのような大規模な作戦を行う為出払っているか分からなかった。評議員が騎士団員に接触する事は、思った以上に難儀な事だった。城内に残っていた騎士は騎士団が空になる程の任務の事を知らない者も多く、知っているだろう者はかなりの位にあった。誰も彼もが会う事も難しい。
 ダミュロンは焦った。
 要領の良いダミュロンは適当に評議会の仕事をしつつ、頭の中では嫌な予感に冷水に突っ込まれた悪寒を感じずにはいられない。こんな時、己がシュヴァーンだったら…とダミュロンは考える様になった。似た髪の色と瞳、性格も生まれも違ったがまるで兄弟の様に思えた。あの馬鹿で真面目でちょっと大人しい彼なら、心配している余裕も無く目の前の仕事に忙殺される事だろ。
 やがてダミュロンの焦りが苛立ちに変わる程の時間が経った。
 城の変わらない豪華な風景に、ふと、白いボロボロになった何かが見えた。良く見ればそれは真っ白な三角巾で腕を吊った姿であり、頭部には包帯が巻かれ傷口に押し当てられたガーゼには僅かに赤い染みが滲んでいた。薄汚れた騎士団の服装。それは、ダミュロンが探し求めた紺色のもの。恩師の隊の隊服の色だった。
「おい!」
 ダミュロンは声を張り上げた。自分が意識する前に体が駆ける。手に持っていた書類の束は重要な物ではなかったからか、直ぐさま手から離れ宙を舞った。
 紺色の隊服を着た者はふらりと振り返った。
 柔らかな癖を僅かに残す髪、浅黒い肌、碧の瞳。ダミュロンは一目で、傷ついた騎士がシュヴァーンだと分かった。随分と会っていなかった。怪我をしているようだが、立って歩けるのだから元気そうだ。懐かしさと、不安のあまり苛立っていた己の内の感情が氷解する思いに、ダミュロンは安堵のあまり深く熱い息を吐く。背後で書類が舞って落ちる音を聞き留めると、忘れかけていた笑みが浮かんで来た。『あちゃー。大事な書類なのに…』戯けてみせようと、ダミュロンの悪戯心が首をもたげた。本当の友人用の人懐っこい笑みの準備は万端だ。
 あと一歩。その位の距離まで歩いて、ダミュロンは表情を凍らせた。
 心臓が止まりそうな程、体の芯から冷える。何故だろう? ダミュロンは理解よりも先に体に表れた変化に戸惑った。
 まじまじと目の前の騎士を見る。
「…シュヴァーン?」
 ダミュロンは呼んだ。
「何があったんだ…?」
 そう聞いてから、ダミュロンはどうしてそう問うたのかようやく理解した。
 シュヴァーンの瞳。その碧の色は鮮やかな新緑のような以前と変わらぬ美しさだったが、その瞳はまるで硝子玉のようだった。涙を忘れたかの様に乾いて、光を弾く様に感情が無い。あの喜怒哀楽を多分に含んだ生気溢れる瞳は何処へ行ったのか? まるで死人の目ではないか。ダミュロンは愕然とした。
「死んだよ」
 シュヴァーンらしき男が口を開く。感情の籠っていない声。瞬きすらしていないのではないかと思う程の無機質さ。何処かに棄てた精巧な人形を、再び拾って目の前に立たせたかのような不気味さを伴った。
「シュヴァーン……」
 誰かとは問わない。でも、誰が死んだのかダミュロンには分かった。
 帰って来ないからだ。還ってしまったからだ。
 指先が無くなったかの様に冷たく、感覚がないくせに千切れる程に痛む。心臓は激しく脈打ち、その強さに肺が圧迫されて息苦しく思う。頭の中では否定したい自分が、冷静で物わかりの良い肯定しているの自分を激しく叱責していた。どこかで評議会に行かされた幸運を喜び、そんな自分を激しく憎悪する。支離滅裂だ。
 ダミュロンは自分がシュヴァーンでは無いのに、どうしてこんなに苦しいのだと改めて目の前の男を見た。目が眩んで良く見えない。
 見えないと、目の前のシュヴァーンらしい男は存在しているのかどうかすら疑わしかった。気配が無い。生きている感じがしない。幽霊が立っているのか、そう思ってしまう。
 あぁ、くそ。苦しい。ダミュロンは絶え絶えに途切れそうな息苦しさの中で悪態を付いた。
「そうだ、なぁ…シュヴァーン。いっそ、シュヴァーン辞めちまったらどうだ?」
 別の誰かになっちまうんだ。
 ダミュロンはそう心の中で呟いて理解する。シュヴァーンが苦しんでいるのだ。その苦しさを自分は自分なりに理解しているのだ。
 仲間は皆帰って来ない。あの甘い日々は帰って来ない。それがどんなに辛い事なのか、取り戻せない今に歯噛みし歯が砕けそうだだった。これから先、シュヴァーンに立ちはだかるのは地獄の記憶の影と、自責の念に違いない。
 それを涙一つ流さず、それとも枯れ果ててしまったのか、苦しさも分からずに苦しんでいる。その姿がダミュロンには体に刻まれた様々な傷より痛々しく見えた。
 お前は今、皆と同じ所に居るんだ。
 シュヴァーンでなくて良い。生きて、居て、欲しい。ダミュロンは眩む世界の中で手を伸ばし、両の手で掴んだ。祈る様に言った。
「お前は、皆を護りきれなかったシュヴァーンじゃないんだ。別の…そうだ、レイヴンって人間なんだ」
 その名前はいきなり浮かんで、昔の記憶だったと笑う。
 青い髪の男が度々レイヴンとからかっていた。白鳥と鴉。お前の外見なら鴉の方が似合うだろう? レイヴンって名乗ったらどうだ? お前は覚えているだろうか? 記憶を辿る道が錆びて落ちて、もう思い出す事も難しいのだろうか?
「駄目だ…」
 感情の無い声が耳を打った。
「アレクセイ隊長も、ダミュロンも、俺を知ってる」
 あぁ、畜生。ダミュロンはシュヴァーンの優しさを呪った。
 シュヴァーンは逃げない。シュヴァーンである事を棄てない。それは、皆の為なのだ。
「シュヴァーン…」
 ダミュロンはシュヴァーンを掴む手に力を込めた。
「俺は今日から髪を伸ばす」
 ダミュロンはシュヴァーンを己に刻み付ける様に見た。戦争に行く前とそう変わらない外見。変わったのは瞳と表情のない顔。先程までちらついていた過去のシュヴァーンが重ならない様に、何度も何度もかつての笑顔の幻を己の中で殺した。
「お前が戦争の事を思い出して自分自身を殺したくなる位キツくなったら、何時でも俺を殴りに来い」
「お前はダミュロンじゃないか。そんな事、出来る訳ない」
 碧の瞳が瞬いた。
 感情は籠っていないながらに、人らしい反応にダミュロンは安堵した。
 『それは、どうかな?』ダミュロンは笑った。その哀し気な表情を硝子玉の瞳が映しても察する事は出来なかった。
「鏡を見るようだろうよ」
 苦しさは決意になる。その意味はダミュロンにはまだ解らなかったが、それでも決意は堅かった。