蕎麦

 ザーフィアスの城の中庭に老齢の犬が一匹いた。エステリーゼの記憶が正しければ、彼女が幼かった頃には既にそこに居たそうで、かなりの齢を重ねているようだった。それは軍用犬であるラピードが傍に居たからだけでなく、その相棒が世界中の犬や猫の信頼を得て来た過程で目に触れた為にどの犬よりも高齢だと思えた。あと一年も生きていられるだろうか、そうユーリは思う。
 中庭の芝生の上に寝そべった犬は、柔らかい純白の体毛で覆われていた。鼻は乾き気味で、浅い呼吸を繰り返していた。所々体毛が抜け落ちているが元々長い体毛のお陰で気にならず、衰えに痩せている体を上手く隠していた。人が近づく事で目元に覆い被さっていた長い毛が持ち上がり、生命の光にぎらつくまでの黒い瞳が覗いた。
 その犬がこちらを察知した時、ユーリは驚いた様に身を固めた。
 殺意に似ていたが、目の前の老犬は四肢一本動かす事も困難そうだった。ただ、先程まで全く感じなかった気配が、一瞬を境に迸った鮮烈さに驚く。気配の内容は決して交友的な意思ではないのは相棒がラピードである経験から明確に伝わり、一種の憎悪や疑念に似た感情が彼の寿命が尽きる間際の虚ろな意識を奮い起こしているようだった。
 ラピードが一歩老犬に歩み寄る。老犬が身じろいだが、体が動かない。微かに息だけが漏れた。唸る事すら叶わない。
 老犬の気配が発する拒否を感じ取ったのか、ラピードが歩みを止めた。老犬とラピードは黙って見つめ合っていて、何を互いに想い感じているのかをユーリは感じ取る事が出来なかった。もしかしたら騎士団に属していた時に会った事があったのかもしれないが、ユーリの朧げな所属時の記憶にも真っ白い犬の記憶は無い。どう見ても老犬は軍用犬ではなかったから、やはり互いの犬に面識は無かっただろうとユーリは結論した。
 そして首を傾げる。なぜ、初見の相手にそこまで拒否するのだろう…と。
「主人が来たんじゃなかったんだね」
 中庭に風が吹き込んだ。芝生が柔らかくその葉先を風に靡かせ、整えられた植木が心地よい音を響かせる。爽やかな風が含んだ香水の香りを声の主のものだと思い見遣れば、ユーリ達に背を向ける様に植木の影になる所に腰を下ろしていた。城内からも死角になるだろう絶好の隠れ場所の様な所に腰を下ろしていたのは、黒髪の評議員の服装の男だった。傍らに積まれた本からして、彼はここで読書でもしているのだろう。ユーリはそこまでしか解らなかった。
 評議員の男は振り返りもせずに、かといってユーリ達に説明するようなお節介さもなく、ただの独り言の様に言う。
「その犬の飼い主はラゴウ殿でね。カプワ・ノールの執政官に就く時に、老齢過ぎて潮風の吹く街では暮らしていけないだろうと置いていかれたんだ。でも、別れていても可愛がっておられてね。城に戻って来た時には必ず様子を見に来ていたものだ」
 ぱらりとページを捲る音が、ユーリの心臓に針を刺すような痛みを伴った。
 ユーリにとって忘れる事が出来ない、いや、忘れてはならないその名前。己が手を掛け死に至らしめた男の名前は、ユーリの記憶に鮮明に訴えかける。人を斬りつけた剣の重み、手に付着した血液の滑り。驚愕の表情に湧いた冷たい感情と、懇願に死した者の無念と憎悪に掻き立てられる怒り。救われた人間がキュモールと違っていたとは思えなかったが、これからの犠牲者を無くし死した者達の無念を晴らしたと思った。それを誇りとするつもりは微塵も無く、胸に重く落ちた感情だけが口に蓋をされたかの様な息苦しさを齎すだけだった。
 あの時自分を突き動かしたのは、ユーリ自身の決意だった。明確な殺意。それに弁明など必要なく、ユーリは真摯に心の内に留めていた。
 後悔はしてはならないと、心に誓っていた。しかし、寒い。体が震える程に寒い。
「ラゴウ殿は人間がお好きではなかった。評議会に属して人間が嫌いにならないのは、利益や欲望に魅せられるばかりの腐った人間くらいだ。ラゴウ殿は真っ当なお人だったよ」
 男は更に続ける。ユーリは静かに怒りを滲ませて言った。
「やめろ」
 あまりにも冷たい口調だと、言ってからユーリは驚いた。まるで殺す間際にラゴウやキュモールと話した時のような冷たさに、罪悪感が募る。手が柄に伸びるのを押し止めるのに汗が流れ、それが冷やされて寒い。
 男は膝に広げているのだろう本に視線を落としたのか、僅かに頭を下げた。髪は肩に掛かりそうで掛からない程度に長く、木の葉の隙間から射し込んだ光に艶やかな黒色が影よりも黒く男を覆っている。ページを繰る音を何度か響かせた。
「でも、最近はラゴウ殿が来ないんだ」
 風が吹き込んで言葉が途切れ途切れになってユーリの耳に届く。
「もう長く無いから一目でも会って頂きたいんだけどね?」
 何かが動く音にユーリは老犬が居ただろう背後に振り返った。
 老犬が前足を立て、体を起こしてユーリを見上げていた。浅い息を繰り返し、体を支える前足が震えている。もう死も間もない体を奮い起こし、彼は何をしたいのだろう? ユーリは薄ら寒い思いに狩られる。
「どうしてだろう? ユーリ・ローウェル?」
 犬の黒い瞳を真っ向から見る。老犬の瞳は白く濁りユーリを視認しては居ないようだったが、その瞳は真っ直ぐユーリを見上げていた。ユーリの瞳を覗き込んでいた。
 復讐だ。ユーリはその寒さの原因を察した。
 大切な存在を奪われた憤りに泣く人間に似通った、電撃のような業火のような激しい感情。己に力が無く復讐が果たせない、絶望と諦め。ユーリが今まで弱者として背後に庇い、己の手を血で染めてでも護って来た者が持つ瞳に睨まれ、ユーリは心臓が凍り付くような思いに狩られた。寒い。寒い。ユーリはレイヴンの寒がりが本当に体質なのか、今更ながらに疑わしく思った。
 ぱん、と音を立てて本が閉じられる音が空気を裂いた。
 評議員の男は脇に置いた本を拾いながら立ち上がった。
「解っただろう、君には懐かないよ。主を殺した人間の匂いのする犬を信頼するものか」
 ふかふかの芝生の為に足音は響かなかったが、男は中庭から出ようと歩いていた。歩きながら話すだなんて、アンタは随分とおしゃべりなんだな…普段のユーリなら答える筈だろう。そうしない事にラピードは不安げにユーリを見上げた。
「彼は長く無い。そっとしておいてやってくれ」
 評議員の男はラピードに目を向けた。
 老犬のささやかな抵抗と主張。それを汲んでやって欲しいという想いの滲んだ視線だった。
 そのとき、ラピードは見た。評議員の男が、黒髪で碧の瞳で、シュヴァーンにそっくりであった。そして老犬から僅かに目の前の男の匂いがする。それは彼…ダミュロンが老犬を引き取って世話していたからだった。
 ダミュロンは笑った。無邪気な笑みを浮かべようとして、引き攣ってしまった表情で。それでいて口調は明るい。
「よかったね」
 それはユーリに向けられた言葉なのか、ラピードに向けた言葉なのか、老犬に語り掛けた感情だったのか、ラゴウの死を悼む彼自身に向けられたものなのか解らない。言った本人にも解らなかったに違いない。
 ただ、それは、打ち拉がれたユーリの心に深々と刺さった。
 老犬は再び日溜まりの中、芝生に寝そべる。ラピードもユーリにも関心も払わず、まるで居ないかの様に反応すらしない。用事は済んだのだと言わんばかりに老犬の視線が外れたが、ユーリの寒気は収まらなかった。暫くして我に返ったかの様にユーリはラピードを伴って中庭を出た。
 これから死ぬまでの短い間、老犬が再び動く事もないような静謐な空気が中庭に満ちた。