箱庭の芝生

 ダミュロン・アトマイスは評議会でも監査や視察を主に担う人間である。政に直接関わり法を定めるのではなく、違法や賄賂の横行を見ても見ぬ振りをするのが彼の主な仕事だ。元騎士のダミュロンは己に逮捕権が無いのを心の底から憎んだが、評議会の汚職の根の深さに騎士団の振りかざす逮捕権で主要人物を逮捕するのではどうにもならない事を知っている。結局、ダミュロンは不本意な仕事を従順そうに全うしているように見せながら、徹底的に調べ上げ汚職という強敵を如何に攻略するかを考察するのが趣味のようなものになった。
 それでも、いい加減な性格だと思っていたのに根底は正義感があるのだろう。ダミュロンは評議会の立場が嫌いだった。大嫌いだった。
 反発がそうさせるのかダミュロンは評議会の議員の中でも一際変わり者だった。先日、トリムの執政官になるべく異動する事になったラゴウ議員の愛犬を身受けると言い出したのも、他の議員を驚かせた。ラゴウ議員の愛犬は極寒の地の狩猟犬の血筋で、屋敷の使用人の腕を喰い千切ったとも盗人を血祭りに上げたとも噂もある犬である。一ヶ月近く屋敷に通い犬の信頼を得たダミュロンに、冷徹で有名なラゴウ議員は心の底から感謝の意を述べたという。
 実際に飼ってみると老犬は新しい飼い主の想像以上に賢かった。ダミュロンが仕事で帝都を離れる時は、友人の隊の人間に一時期預かってもらうが誰もが大人しい賢い犬だと評価した。そう元飼い主に告げれば、彼は『お互い老いてきたからな』と寂し気に笑い老犬を撫でていた。
 数ヶ月に一度戻って来る元飼い主の為に老犬は中庭で過ごす事が多い。ダミュロンも老犬の傍で休憩する事も少なく無い。
 家で作って来た軽い昼食を口にしながらぼんやりしていると、中庭の芝生を歩く足音がダミュロンの耳を掠めた。老犬が顔をゆっくりと上げるので、ダミュロンは誰かがこちらに向かって来るのだろうと感じた。評議会の人間ではあるまい。そうであったら老犬は僅かに警戒に身を固めるからだ。
 ダミュロンは気怠そうに丸めた背筋を、老犬の巨大な背中を越える為に伸ばす。首筋をくすぐる髪を手で払いながら目線をあげると、緑と白亜の壁の中にドレスと鮮やかな桃色が見える。書類ばかり見ていて霞んだ緑の瞳にも、その桃色の髪が誰なのかすぐに解る。
 立ち上がり服に付いた芝生の草を落とし、桃色の客人が目の前に来るまでにぼさぼさに崩れた髪を結い直す。ついでに、老犬の上に落ちた草を手で払うと、慇懃に会釈して優男風な笑みで出迎える。
「こんにちわ、姫様」
 気障ったらしく迎えると、姫様と呼ばれたエステリーゼもくすぐったそうに笑う。直ぐに挨拶を交わすと、老犬の前にしゃがみ込んで『こんにちわ』と挨拶する。老犬は素っ気無く目を伏せて寝入ってしまったらしく、ダミュロンは形だけ『愛想無くてすみませんね』と笑った。
 次期皇帝候補エステリーゼ・シデス・ヒュラッセインとダミュロンは中庭の常連で友人だった。互いに騎士団と評議会にそれなりの繋がりがある点でも、話の通じる相手だった。殆ど一方的にエステリーゼが話すようなものだったが、ダミュロンは相槌を打ちたまに持論や過去を織り交ぜて見え見えの嘘を言うのだった。それを喜んでくれるエステリーゼの姿に、ダミュロンは好感を持って大分経つ。
「姫様は外の世界に興味がおありですか?」
「はい」
 それは即答であった。蕾が綻び花が咲く様にエステリーゼは笑う。
 初めて投げかける質問であったが、そんな笑顔が見れるのなら王宮以外の様々な世界の話を聞かせてやりたいとダミュロンが思う程だった。
「でも…」
 表情に影を落とす。その色の濃さの意味を、ダミュロンはエステリーゼ以上に良く知っていた。
 ダミュロンの属するアトマイス家と比べてはならぬ程、皇帝の遠縁とはいえ生まれつき高貴な御方である。安全な室内ですら護衛を付けられる、侍女は常に居て見張っている心地だとてするだろう。それに疑問も嫌悪も湧かない事を、ダミュロンは哀れだと思う。ダミュロンのように次男坊だから与えられた自由も無く、皇帝候補に名を挙げられてしまった者の束縛はダミュロンも熟知している。
 何不自由無い暮らし。それは生命に関して不自由が無いだけで、精神の自由は無い。彼女と同じく皇帝候補となったヨーデルの方がよほど自由だ。
 彼女を擁立しようとした評議会の狙いは、将来彼女が皇帝になった暁には傀儡として用い帝国の権力を思うがままに振るう事である。騎士団は将来剣を捧げる相手として将来の可能性あるヨーデルを選んだのに対して、評議会がエステリーゼを選んだ理由が私利私欲の為だった事にはダミュロンも絶望の一つや二つ抱いたものだ。故にダミュロンは外の世界について入れ知恵する事に、上から釘を刺されていた。
 ダミュロンはエステリーゼの手を取った。剣を持たなくなって随分と細くなってしまった指先ではあったが、本ばかり持っている姫君に比べれば十分に無骨な手である。
「希望は捨てちゃあいけませんよ、姫様」
 人懐っこい笑顔を浮かべ、ダミュロンは告げた。
「外に出る口述、色々と考えてみましょう」
「本当ですか!?」
 ぱっと広がった笑みに、ダミュロンも碧の瞳を細める。
 彼女の師を勤めるドレイクとは違い、評議会の議員であるダミュロンなら口述を作る事の可能性は不可能ではなかった。エステリーゼに外の世界を見せる事は評議会の目的には大きく反する事ではあったが、一歩も外に出ないなどという事も逆に不自然過ぎる。不可能ではないが非常に難しいだろうという結論を、ダミュロンは弾き出した。
 だが、ダミュロンには評議会の野望を打ち砕きたいという正義感以上に、エステリーゼを不憫に思う。こんなに慈愛に満ち汚れを知らない若者を、野望の道具にされるのが哀れでならない。
 ドレイクが彼女の師を買って出たのも、ある意味同じようなものだったのかもしれない。国の頂点に立つ者が能無しではあってはならない。先帝に尽くした騎士の考えは数歩先を歩いているようで、ダミュロンは唸った。
 ダミュロンは考えを悟られないよう茶目っ気を含ませて片目を瞑る。
「でも明日とか明後日に出来る話じゃないですから、それだけは了承して頂かないと」
「待ちます!待ってます!ダミュロン、お願いしますね!」
 はしゃぐあまり両手で掴んで来たエステリーゼの興奮を抑える様に、ダミュロンは空いていたもう一つの手を重ねた。
「あと」
 真剣な顔で間を空ける。
 さっと取り出したのは小指を突き出した手だった。
「私が帰りましょうって言ったら、帰りますよ。それだけは約束です」
 なにせ、姫君は夢中になると誰の言葉も聞いて下さらないですからね。そう笑って告げると、エステリーゼは頬を赤らめて不満そうな表情になった。そういう短所は師からも言われていたのか、少し反省した様な顔つきになって頷いた。そして小指に手を向けて…
「これ、何です?」
 質問と老犬の欠伸が響いたのは同時だった。あまりにもよいタイミングだったので、シリアスさも台無し。ダミュロンは呆然としてからがりがりと髪を掻いた。そうだ、指切りなんて知らないよな…と、少し気拙く思う。
 引っ込めた手を握ってわざとらしく咳払いをすると、気恥ずかしそうにダミュロンは言った。
「外に出たら、教えて差し上げますよ」
 その顔を見上げて、エステリーゼは元気よく返事をする。
 純粋な返事に、きっと彼女の顔は眩しい程に輝いているのだろうとダミュロンは降り注ぐ日差しをあえて見上げた。