不和円満

 アレクセイの使っていた団長執務室の何もかもを部屋から出す事になり、団長執務室は騒然としていた。整頓でも格納でもなく、撤収や始末処理に似た慌ただしさと剣呑な雰囲気がある。それもそうで、シュヴァーンが仕えていた唯一の上官である団長アレクセイは、帝国に叛旗を翻した罪人になってしまったからだ。それでも部屋の中にいる者はアレクセイの遺産と言える膨大な書類を雑に扱わない。参謀のヴィアの配下で情報に価値を求められる者達だからという訳ではなく、騎士団に根付いた団長への信頼の為だった。
 団長の叛旗に信じられないと声を上げる者がいても、批判や中傷が出なかったのがその証拠だった。
 シュヴァーンも見慣れた卓上を、見慣れない位置から見下ろしていた。
 アレクセイは普段はこの位置から俺を見ていたのだろう。シュヴァーンは感傷に僅かに浸りながら、奇麗に整頓された机の上を撫でた。席に座っている筈の主も秘書官を兼ねたクロームも居らず、舞い上がっている埃のせいもあるのだろうがうっすらと埃が積もっている。シュヴァーンの指先に、主の不在の長さを命無き者が憂い訴えているようだった。
 弓を使う者が持つ独特の節くれ立った指が流れる様に引き出しに伸びた。他人のプライベートを覗くのには多少抵抗があったシュヴァーンの指は、引き出しに触れて動きを止める。少しの逡巡の後、シュヴァーンは引き出しを開けた。
 引き出しの中には筆記用具に証印、箔押しに書類を書き留める上質紙、この机の上で必要になる何もかもが美しく機能的に配置されていた。一番手前にある万年筆にはシュヴァーンも見覚えがあり、アレクセイが愛用していたものだとすぐに思い当たる。生真面目で忙しかったアレクセイの何もかもを示しているようで、シュヴァーンは呆れて僅かに笑った。こんな所にまで性格を出さなくても良いだろう、そんな風に思ったのだ。
「何か面白い物でもあったかい?」
 机に触れずに身を乗り出したのは、評議会の監視名目でやって来たダミュロン・アトマイス。肩に掛かるか掛からない程度に切りそろえられた髪と碧の双眸に、オレンジ色の隊長服を纏うシュヴァーンと鏡合わせの様に見える。隊長主席の部下達も、似ているのは知っていたが実際に顔を合わせているのを見たのは初めてで驚きを露にする者もいた。
 そっくりの顔が興味深げに覗き込んで来るので、シュヴァーンは少しだけ身を引いて引き出しの中が見えるようにする。
「何だ、これ?」
「折り鶴…というやつだ」
 二人の目の前にあったのは、大変古い紙で折られた2羽の折り鶴である。折り紙という存在を知っている者はテルカ・リュミレースには殆ど居ない。その為に折り鶴は整然と必要最低限が置かれた空間に、異物と思ってしまう程の存在感と違和感を保って置かれていた。紙自体は古く折り目に紙の繊維が毛羽立っていたが、紙は独特の製法で漉かれ時が過ぎても美しく色褪せない物だった。
 2羽の内1羽を掌に載せ、ダミュロンに差し出す。シュヴァーンより白い手が小さいと感じる極彩色の鶴を摘まみ上げると、感心と戯ける声を半分の割合で混ぜた声を上げた。
 アレクセイと主従関係の長く騎士団で最も近い存在だろうシュヴァーンだったが、団長は謎多い人だと今でも思う。10年前を境に身の回り全てが変容してしまった互いなので、過去の事にあまり触れたりはしない。この折り鶴の様に不意に予想外なものがぱっと出るのだ、アレクセイの広過ぎる知識が何処から来たのか理解等出来ない。ダミュロンの反応に近い感情を感じ、シュヴァーンも引き出しに残ったもう1羽を掌に載せる。
 碧の瞳が矯めつ眇めつ鶴を見ている。
「何でこんな物が入っているんだろうな?」
 ダミュロンが首を傾げた。彼でなくても誰もがその疑問を持つだろう。
「俺も良く知らん」
 何かしらは知っているのか。ダミュロンが肩眉を器用に跳ね上げたが深くは聞かなかった。かつては同じ隊長を師と仰ぎ学んで来た身なので、ダミュロンはシュヴァーンの少ない言葉を一歩深く知る事が出来る。今の回答は『折り鶴の存在』は知っているが『何の為にあるのか』は知らないという事なのだろう。シュヴァーンの事だから様々な推測があるだろうが、アレクセイから直に聞くか口伝で聞かない限り『何の為』の中身を明らかにはしないだろう。
 それに今回のダミュロンは評議会の議員としてここに居る。騎士団の不正や元団長アレクセイの陰謀の影が、その折り鶴にあるとは思わなかったので関心が失せてしまう。
 ダミュロンから折り鶴を受け取り、シュヴァーンは丁寧に引き出しの中に仕舞った。
「ただ…アレクセイはこれを死者に贈っていた」
 オレンジの隊長服の男の言葉に、議員は意味を頭の中で弾き出そうとする。脳内の辞書を逆さまに振り、鳥に関連する事や連想する言葉を落として死者と繋ぎ合わせてみる。それは詩を作る作業に似ていた。鳥は空を連想させる。空は良い。青空も夕焼けも、降りしきる雨、嵐も雷鳴も、雪や星空、風に雲、人々に寄り添う何もかもを彷彿とさせる。死は自由であると何処かでダミュロンは感じ、今の己の状態が自由でなくて息苦しいのだと失笑する。
 それを実感させたアレクセイを、ダミュロンは少し憎らしく思った。
「大将は思った以上にロマンチストなんだな」
 その軽口にシュヴァーンは苦笑した。
 10年前、一度死にかけた若者の手に落とし込んだ鶴。それは鮮やかな暖色系で染める関係で花を散らしたような華やかな紙で折られていた。心臓魔導器の調子も安定し死から遠ざかったある日、シュヴァーンはその折り鶴をアレクセイに返却したのだった。
 アレクセイが死者に弔いの言葉を投げかけ感謝は述べても、謝罪は決して述べなかった。シュヴァーンやダミュロンがアレクセイを知る頃には、彼は既に他者に弱みを見せてはいけない立場だったからだろう。自尊心は腕っ節と同じくらい騎士団最強レベルだったが、非常に真面目だった。シュヴァーンと並べばアレクセイの方が真面目な位真面目だった。
 だから、シュヴァーンはこう推測した。鶴は、アレクセイの謝罪の形だったのではないか。立場も高く行動は常に慎重さを求められた時、人に何かを贈るのでさえ一苦労だったに違いない。金額が高いと思われる物でも逆に安過ぎる物でも、余計な意味は含まれてしまう。だから誰も顧みない気にも掛けない物に、アレクセイは一番大切な意味を込めていたのだろう。捨てられてしまっても忘れられても良い。ただ、渡す事に意味のある存在だったのだ。
 シュヴァーンは引き出しの中にあるだろう、自分以外の誰かに贈るつもりだった鶴を思い出す。
 誰かは定かではない。だが渡せなかった相手は、アレクセイにとっての鶴の意味を知っている上で拒絶したのだだろうというのは判った。
 シュヴァーンは小さく息を吐いて呟いた。
「現実の優しさに気が付けなかった。目の悪い人だよ」
 真面目なアレクセイ。彼は今でも、謝罪できなかった事を悔やんでいるのだろう。彼が裏切った今でも彼を慕う人間がこんなにも多いのだから、気が付けば、応じれば、その後悔を覆い尽くしてくれただろう。忘れられなくても、救われただろう。
 シュヴァーンの言葉にダミュロンが小さく笑った。
「大将は鳥目だったのか」
 暗闇で目の利かない鳥は今は真夜中の闇を飛んでいるに違いない。
 二人は鳥を案じて空を見た。