打起し

 何時からだったろう。主の前に座った常連はカウンター席の端から見る光景を、今更ながらに不思議そうに眺めていた。
 帝都の下町の一件の料理屋さん。奥まった所にあって分かり難いが、値段は安くてご飯の美味しさもそこそこ。カウンターの奥には色とりどりのラベルと様々な形の酒瓶が犇めき、場違いな木で作られた羊の人形が落ちかかっている。煉瓦の色は味わいある朱色、木の棚とテーブルと椅子も何度も何度も樹脂の塗料を塗り直して焦がした飴色になっている。時々、真新しい木を継ぎ足したのか、座る所に明るい木目の縞模様が洒落ているという人間も居るだろう。照明は魔導器が使えない関係でランプを用い暗かったが、店の雰囲気を損なう事は無かった。
 その店は鎧を脱いだ非番の騎士達が、いつの間にか常連になっている。時と場合で貸し切りにしてやる程の常連の名前は、シュヴァーン・オルトレインという若い騎士だった。
 人当たりの良い青年を主人は騎士とは思わなかったが、常連になるにつれて彼が正真正銘の騎士であると知った。騎士様が来るなんて冗談だろうという下町の住人は多いが、本当に我々は騎士なんですと言えば驚かれたものだ。
 下町の住人に驚かれながら平民出身の騎士達は、時折集まっては下町で馬鹿騒ぎした。平民出身だったからか、下町の住人達とも相性は悪く無かった。
 貴族の世界だった騎士団は、平民出身の人間にとってお伽噺の様に窮屈で、真っ白い報告書の様に憂鬱だ。平民出身の彼等は緑豊かな木々の下と青空の下を行き来し、舗装されていない道を歩いて手を泥だらけにして働いていた。平民出身の騎士達にとって、下町は今まで自分達が暮らしていた場所に一番近い場所だった。居心地の良い人々のざわめきが、擦れ違う人間との間の空気が、彼等に一時故郷に帰った気にさせた。
 下町出身の平民騎士は良い。だが、殆どの平民出身の騎士は帝都の外からやって来ていたのだ。
 何時からかシュヴァーンは同じ帝都外から来た平民出身の騎士達と、下町に降りて飲み食いする様になった。最初から参加していた人も任務中の殉職や故郷に帰ったりして減ったが、人数もその場の雰囲気もあまり変わっていない。変わっているのは顔ぶれくらい。そうだ、とシュヴァーンが掴みかけた時だった。
「シュヴァーン、どうした?」
 隣から手が伸びて、シュヴァーンの目の前の大皿に盛られたサラダからプチトマトを摘まみ上げる。太陽の様に真ん丸い瑞々しいプチトマトは、生っているものを摘んで洗って無造作に置いた様に水滴をキラキラと落とす。それを口にするのは、シュヴァーンと同じ黒髪と碧の瞳の貴族ダミュロンだった。
 ダミュロン・アトマイスは貴族でも名が知られていたが、同時に一風変わった騎士としても知られていた。今まで、水気が付いたままの野菜なんて食べた事の無い人間だろうに、ダミュロンは特に抵抗無く口の中に放り込んだ。それに驚いたのは、シュヴァーンとダミュロンが出会って一年も経っていない頃で、昔である。
 シュヴァーンは生返事をしながら目の前の光景を眺めていた。
 きょろりとダミュロンが視線を追えば、そこにはアレクセイ隊の後衛支援部隊の一団とトール隊の騎士や伝手で知った平民出身の騎士が店を貸し切って楽しんでいる。先日こっぴどくハンクスのおっさんに叱られ、隊長が自ら部下の非礼を詫びに降りて来たばかりだと言うのに、全く学習もしちゃいない騒ぎ様である。ダミュロンはその視線の先に、キャナリ小隊長の姿を見つけ意地悪く唇の端を上げる。
「シュヴァーン、キャナリ小隊長の事好きだったりするのか?」
 小脇を突かれた拍子に変な音を立てて飲み込んだ軽い酒に、シュヴァーンは盛大に噎せる。その言葉を聞き止めた他の騎士も野次馬の様に群がって来た。
 確かにシュヴァーンがキャナリ小隊長に好意を持っているのは明確だったが、本人はそれを憧れで慕わしい存在と思っていた。この様な席で好意という意味はどんなに明確だろうと、酒に光を透す様に屈曲して恋愛の話に結びついてしまうのだ。シュヴァーンは否定しようとしても、まだ噎せ込みが落ち着きそうな様子は無い。
 色恋沙汰を女性の様に楽しむダミュロンは心得顔で頷いた。
「俺は心配だったんだよ。奥手で鈍感のくせに女好きなお前が、恋したいって思うような状態が来るのかって……。それはもうトール隊長に報告書を出す瞬間に、脳裏をよぎる不安の数々に匹敵する位心配していたんだよ!」
 ダミュロンの芝居掛かった言葉に、意味の分かる騎士達は『それは心配し過ぎだ』とも『あー、分かるなぁ』とも、明らかに酔った勢いの返事を返す。
 腰に手を当て、シュヴァーンの顔を覗き込んだダミュロンの芝居は更に続く。
「そうだ、そうとも!お前の為に、年長者たる俺が肌を脱がんで何時一肌脱ぐと言う!」
 胸に手を当て大袈裟にふんぞり返り、まるで英雄のような大演説。先程まで否定的な視線を向けていた者達も、楽しそうな雰囲気に釣られて囃し立てる。
 ようやく喉の違和感が消失したシュヴァーンは、酔っ払いなのか素面なのか判別付かないダミュロンを呆れ顔で見た。ダミュロンは軽やかなステップを踏み、キャナリ小隊長の横まで歩み寄ると膝を付いて姫君にするかの様に手の甲に接吻する。彼は女性にはとても優しく、何人もの女性を口説き落としては体を重ねていると専らの噂だった。彼に甘く囁かれる事を憧れを抱く様に話し合う女性は多い。
 だが、相手が悪かった。
 キャナリ小隊長はダミュロンの頭を軽く小突いて相手にしない。シュヴァーンの目にもがっくりと肩を落として崩れ落ち、小隊長の足に縋り付こうとして彼女の隊の人間に突かれている背中が見える。酔っているのだろうか…。ダミュロンの性格を考えると疑いはするが、その疑問の答えはいつまで経っても得られそうに無かった。
「何を見ているんだ?」
 先程ダミュロンが腰掛けていた椅子に、新しく誰かが腰を掛けた。シュヴァーンが顔を向けると、そこに居たのはキャナリ小隊の出向で一時一緒になったイエガーが座っていた。鎧を脱いでもスマートな印象は崩さないのか、黒を基調とした堅い服装に身を包んでいる。ワイングラスを持つ手付きが洗練されているのを見て、あぁ、彼も貴族だったとシュヴァーンは思い至る。
「不思議だなぁ…と思ってさ」
 シュヴァーンは目の前の皿に取り分けたフライドポテトを食べて、目の前の光景を見た。
 人数は2小隊分は居るかもしれない。最初は本当にお財布冷たい平民出身騎士達の集いだったが、今では身成の良さそうな貴族の姿も混ざっている。何時から人数は増えて行ったのだろう。何時から貴族も来る様になったのだろう。何時からだろう。そう思いながら視線は人々の上を渡る。イエガーはシュヴァーンの視線を追ううちに、彼が不思議に思っているのが下町の料理屋に集っている面子なのだと察した。
「お前が誘ったんだろ? 忘れたのか?」
「そうだっけ?」
 シュヴァーンが驚いた様に碧の瞳を見開いた。
 その様子にイエガーは呆れて苦笑する。この場に身分の上下の壁が無い事を不思議に思うくせに、その凄さを理解していない。今まで貴族の階級や身分を重んじて来た環境を変える為の様々な努力はなされて来たであろうが、それが実を結んだ事は一度も無かった為に今の騎士団がある。目の前の何処も凄そうな所の無い平民出身の騎士が、騎士団の変えられなかった体質を変える為に一石を投じてしまった。この暢気さが悲劇の幕開けに見えなくも無い。
 イエガーは空になったシュヴァーンのグラスを見て、主人に追加を頼む。新たに注がれる琥珀色の酒に氷が踊るのを見て、イエガーはグラスを軽く持ち上げて見せる。シュヴァーンも慌てて満たされた杯を持ち上げて、それから首を傾げた。
「何に乾杯なんだ?」
「お前の良く分からない器のでかさに…だ」
「なんだそれ」
 シュヴァーンは少し笑って酒を含むと、喧嘩が始まりそうな一角に向かって歩き出した。その背中を見送っていたイエガーの横に、ダミュロンが歩み寄って言った。
「堅物と名高いキャナリ嬢を宴席の場に引っ張り出した偉大なる男に乾杯…って言えば良かったじゃん」
 あいつならいずれトール隊長も引っ張り出せるぜ、とダミュロンは明るく言い放ってカウンターに乗り上げ主に追加の酒を頼む。
 キャナリ小隊は禁欲的な隊として有名だった。隊とは隊長の雰囲気が直接絡むので、真面目なキャナリを差し置いて宴会等出来なかった経緯というものがある。シュヴァーンのお誘いは、まさに革命だったに違いない。だが、誰もが最も驚いたのはキャナリ小隊長がシュヴァーンの声掛けに応じた事だったろう。
 小隊長も楽しんでいて、隊員達は皆気兼ねなく楽しんでいる。その様子を満更でもなさそうに見ているキャナリの穏やかな顔を、イエガーは見ていた。
 変わって行く。その移ろいにイエガーの心は波立った。
「癪なんだ」
 きっと嫉妬してる。イエガーはグラスの中身を飲み干した。