引分け

 アレクセイ・ディノイアは名を呼ばれた気がして振り返ろうとしていた。
 『呼ばれた気がした』と彼自身でも随分を曖昧だと思う原因は、擦れ違って己を背後から呼び止めるだろう人物があまりにも意外だったからだ。そして、呼び止めたと仮定する人物の声は思った以上に低く呟く様に自然で、いつも威圧的で自信たっぷりな印象から懸け離れていた。アレクセイは別の、きっと己の部下だろうと心の何処かで祈りながら振り返る。
 振り返ると視界を覆う様に広がる白い壁に深紅の絨毯。アレクセイの背後に立っていたのは、そんな風景の中にただ一人だった。
 紺色の長衣に細身の剣を下げたトール・ド・ヴィアは腕を組んで、火の入っていない煙管を弄んでいた。口元に整えた髭の下に嫌味を感じさせる絶妙な角度に持ち上がった唇がある。端整な顔立ちや整った毛髪は貴族らしかったが、彼の醸す皮肉と近寄り難い気配が年齢と相まって外見の印象を塗り替えている。
 騎士団で彼が苦手でない人間は誰もいない。
 手を抜く事も無く完璧で隙が無く、相手を褒める事が無い。辛辣で貴族との関係は非常に悪く、それは騎士団を敵に回しているのと同じだった。団長のドレイクに次いで頼りになる隊長であるのは誰もが思う事だが、その態度に射竦められ彼の前に立つのは断罪されるかのような恐怖を抱く。それでいて、既婚者で奥方との逸話はどれもが微笑ましい内容なのだから分からない。確かめようとする猛者は騎士団にいなかった。
 他の騎士と同じくアレクセイもトールは苦手の分類に入る。しかし、嫌いかと問われれば逆に好印象を持っていた。
 騎士団に根付いていた不正は良しとせず、実力あるものは平民でも登用する常識的な考えは騎士団の腐敗に嫌気を感じていたアレクセイに好意的に映った。トール隊は平民出身の騎士が居る隊としても、騎士団の中で有名だった。性格的に分かり難い所はあるがトールは部下想いな人物であり、アレクセイの目にはトールが部下を庇護しているように映る事がしばしばあった。
 ただ、言い方がどうにかならぬものかとは、思ったりするのだが…。
「油断かね? 余裕な事だ」
 トールは歩み寄る事も歩み去る事も無く、なんとなくアレクセイを見る様に自然な姿勢で立っている。
「いずれ互いに時間を割いて顔を突き合わせなくてはならぬのだが、今が良いかね?」
 煙管を持つ指先以外は不動のまま、トールが尋ねる。彼の口の動きは大きく無いのだが、その声は無人の廊下のあらゆる音を退けて響く。
 アレクセイは思わず言葉に詰まった。相手の言葉の意味が理解できなかったからだ。
 トール隊と合同の任務は今の所、アレクセイの元に報告に上がってはいない。しかし、アレクセイ隊とトール隊の隊長格が会議形式でなくとも話し合いの場が必要だと言う事になる。他隊が絡むような報告なら聞き逃す事が無いと思っているアレクセイにとって、トールの言葉は正直ショックだった。
「何の事でしょう?」
 目の前の男に意味の無い見栄を張る事は厳禁だ。アレクセイは素直に知らない事実を認めつつ尋ねた。
 その言葉にトールが驚いた様に僅かに目を見開く。
「そうか、知らぬか。まぁ、報告の必要も無い程に些細な事であるからな」
 意外な事にトールはアレクセイの非に言及する事は無かった。しかし、その独り言の呟きは、己の隊の全てを把握していない未熟さを反芻したかの様でアレクセイは赤面した。
 トールは数回の呼吸分の間を思考に振った後、アレクセイに再び視線を向けた。
「では、今が良かろう。来なさい」
 トールは手を招く様に一つ間を置き、アレクセイが同意しただろう事を確認して歩き出した。
 部隊の詰め所に向かうのだと朧げに思っていたアレクセイだったが、トールは猫のように真っ直ぐは歩かなかった。階段があればその階段に足を向け、曲がり角を見つければ曲がる事が多かった。目的地が定まらない不安さを掻き立てたのは、アレクセイすら知らない場所を歩かされている為だった。普段は回り道をする事の無いアレクセイにとって、自分が普段使う部屋を直線で結ぶ意外の廊下は見知らぬ場所だった。そして、城の中には己の知らない場所がこんなにもあるのだと驚く。
 方向感覚が失せ始めたかと思った頃になって、トールは初めて足を止めた。簡素で実用的な扉を叩くと、トールと年齢の変わらない女性が顔を出す。ヴィア夫人。顔立ちや姿は決して美しい分類には属さなかったが、彼女は生気に溢れ如何にも気だての良さそうな母の様な人である。アレクセイは初めて見たトールの奥方に丁寧に頭を下げると、夫人は包容力ある笑みで二人を招き入れた。
 一般の家庭のような雰囲気ある室内は、城の中と疑いたくなるようだった。小さい台所があり、整頓され磨かれた食器が重ねられ、調味料を納めた小瓶が並ぶ。家具は木の質感が優しいものばかりで、室内は奥方の趣味らしい愛らしい調度品が満ちていた。甘い果実と砂糖の香りがするばかりで、アレクセイはその空間にトール隊長が吸っている煙草の匂いを感じなかった。トールとその奥方は二人とも現役の騎士であり、互いに忙しい間を縫って過ごしている自室だとようやくに察した。
 アレクセイはその部屋の主人に倣い椅子に座ると、夫人が珈琲と林檎のパイを目の前に並べた。
 夫人が『冷めぬ内にどうぞ』と言う言葉にアレクセイは思わずトールを見たが、彼は『食べながら聞きなさい』と珈琲を一口飲んでから言った。
「先日になるのだろう。君の隊と我が隊の人間との間で、小競り合いがあったそうだ」
 そう切り出して彼は経緯を簡潔に話し出した。
 先日、複数の仲の良い騎士が飲みに出かけ、その際に喧嘩に発展した。それだけでアレクセイは驚きに噛み締めようと思った暖かいパイを飲み込んでしまった。
 最終的に喧嘩は殴り合いに発展し、今回話題に上がるそれぞれの隊の若者は顔面を腫らして帰途に付いたそうだ。怪我の程度は殴られて顔が腫れている程度。任務に支障もなく、喧嘩の相手も身内であるのだから報告も必要なかろう。
 もはや美味しいだろうパイの味が損なわれるばかりの話題しか無いだろう。アレクセイは一口食べて広がった豊かな林檎の風味と甘酸っぱさを名残惜しく感じながら、食べる事を諦めた。夫人には後で謝っておこうと、トールの言葉に耳を傾ける。
「良くある事だ。修練で使い物にならなくなる程扱くのは不当だが、任務で命を落とす事に比べれば些細な支障だ。その件を咎めるつもりも、始末書を認める必要もなかろう」
 トール隊は他隊に比べ交流に寛容な姿勢ある。悪く言えば放任主義が見え隠れする隊である。
 そこまで言ってから、トールの説明は喧嘩の原因が分からない事に触れた。
 最初に手を上げたのはアレクセイ隊に属する若者だったというのは、その場で飲んだ騎士達全員の一致する証言である。しかし殴られた本人を含め誰一人、殴るに及ぶ理由が見つからないと口を揃えた。トールは殴られた部下に何故殴ったのか尋ねたら『殴り返さねば相手が後々気まずい思いをする』と返し、二人の関係は気心知れた友人という尊いものなのだと察した。
 他の者なら嘲笑も僅かに帯びても良い内容も、トールに掛かれば事実を淡々と告げるのみ。なので、アレクセイはその問いがあまりにも無表情な顔で問われたので、彼の本意を理解しかねた。
「あぁ、ディノイア君。君は色恋沙汰の相談というのは受けた事がなさそうだが、どうだね?」
 アレクセイは面食らった。
 揺るがぬ美貌の主の驚きの顔を目の当たりにしても、トールの表情は揺るがずただ返答を待っている。彼の冷静さに励まされて、アレクセイも驚きを飲み下した。
「そのような相談を受けた事はありません」
「そうだろうな」
 親程の年齢を経た隊長は、アレクセイの言葉に淡々と頷いた。
 見目良く女性の憧れと話題に上る若き騎士は、文武両道で才能に秀でている。逆に彼に相談するのが自虐とすら思う程の美貌である。彼に相談を持ちかけても、気の利いた言葉も掛けられなさそうであるのは目に見えている。別に人を上げるなら、トールは己の隊に居る人懐っこく調子が良いのに腹の中が見え難い若者を思い浮かべた。
 アレクセイはアレクセイでトールにはそのような相談事を受けた事があるのか、聞いてみようかと思ったりしていた。悪名を総嘗めにした人物に自殺行為だとは思ったが、垣間みた一面は思った以上に穏やかでアレクセイの好奇心をくすぐるには十分だったのだ。
 トールは『困ったな』と声にならぬ小声で呟いて珈琲を口に含んだ。
「それほどの難問とは思えませんが?」
 アレクセイも団内での内輪もめを全く知らない訳ではない。どす黒い陰謀も画策も見て来たし乗り越えて来た。それに比べれば、目の前の隊長が思い悩ます問題は、聞けば聞く程子供の喧嘩にしか見えない。
 アレクセイの言いたい事を嗅ぎ取ったのか、トールも黙り込んでしまった。考えを巡らしているように見えなくも無いのだが、アレクセイにしてみれば大した問題でもないのに何故これほど考える必要があるのか理解が出来ないでいた。
「戦場の女神様はね、色恋沙汰がお好きなのよ」
 横で話を聞いていたのだろう。奥方が楽し気に言った。
「釣り合った天秤。どちらに傾くのかも分からないけれど、傾くタイミングはいつも我々には最悪であるものよ。戦の女神様はより難しく厳しい試練を越える強者を好み、自分好みに育った猛者の命を狩って己の手元に抱き寄せてしまうの」
 奥方が笑うのを見て、彼女の旦那は『笑い事ではない』と苦々しく言った。
「それをどうにかするのが、貴方のお仕事でなくて?」
 奥方が言うと、トールは渋々アレクセイに視線を戻し言った。
「一番、厄介だと思わぬかね?」
 戦の女神の気紛れか、三角関係か、それとも奥方のお言葉なのか。アレクセイはその問いに含まれた一番を理解する事は出来なかった。
 暖かい日差しの射し込んだ窓辺の穏やかさが目に入る。答えがこの場で手に入るとは思わない話に駆り出されてしまうとは…とアレクセイは今更に事の重大さを知った。トールが無礼になると分かって勧めた理由が今になって分かる。
 アレクセイはさっさと林檎のパイを食してしまえば良かったと後悔した。