自転車駆ける坂

 学校というのは常に辺鄙な場所にその学び舎を建てる。もしも交通の便の良い場所に学び舎があるとしたら、その学校で栄えた町か栄える前に建てられた学校かのどちらかだろうと考える。しかし、その様な名門校に声を掛けられない講師はごまんと居る。声を掛けられた学校全て蹴って断って来たレイヴンにはどうでも良い事だが、学校を選べる幸せは理解している。レイヴンが物理学の講師として雇用された学校も、ごまんとある辺鄙な場所に学び舎のある学校だった。
 階段が真っ直ぐに伸びて行くのを横切る様に、車道が蛇行して山のてっぺんへ向かって伸びている。少し急で家が建てられない斜面には開校記念に植えられた桜が青々と葉を茂らせている。春には素晴らし桜並木が見れる事だろうが、引っ越しの作業で忙しくて来年の楽しみに持ち越されていた。高台でビルも少ない場所にあるそこは、天気の良い日は遠くの山まで見渡せる。
 白くなり始めた空を見上げ、まだ爽やかさを帯びた風を受けてレイヴンは伸びをする。
「今日も暑くなりそうだなぁ」
 時刻は犬の散歩も早朝のジョギングを行うのも少しだけ早い時刻に行き交うのは、新聞配達くらいなもの。朝が次第に早まる夏の時期に、日の出間も無い時間と言えば皆がまだまだ眠っている時間だ。
 だぼだぼのジーンズに東洋風漂うサンダルをぺったんぺったんと暢気な調子でアスファルトを叩き、レイヴンはのんびりと自転車を押していた。肩に掛けた革製のショルダーバッグは使い込まれて、悪く言えばボロボロ、良く言えば趣きある仕様である。しかし安物の風情は全くない鞄は、全体からだらし無さと安っぽさで統一された服装にアクセントの様に引き締まって映える。自宅から勤め先の学校までの距離の中間にあるコンビニで買ったサンドイッチと野菜のパックジュースが、半透明のビニール袋の中でかさかさと音を立てた。
 学校の正門が開くのもまだ早すぎる時間である為に、レイヴンは散歩がてらの出勤に朝食を混ぜる事が多い。料理の腕も確かでその気になれば朝食用に凝ったサンドイッチも用意出来るのだが、低血圧も手伝って気が乗らずコンビニの常連になる事が常だった。晴れた日は路肩に腰掛けて買って来た食事を食べるし、雨の日は傘を差しながら肉まんやフランクフルトなどの串物を食べながら学校を目指す。
 今日はどの辺りで食べようかと、自分の調子と景色の気分で選んでいると上から自転車が走って来る。
 黒いジャージにボストンバッグを背負う様に掛けて、誰かが自転車を走らせている。学校の朝練にしては少し早過ぎやしないだろうかと思ったレイヴンは、前から来る人間が徐々に知り合いである事に気が付いた。長い黒髪を緩く結った学生は、レイヴンの教え子のユーリである。
 自転車で進行方向に人影を見つけてそれが学校の講師である事に気が付いたユーリはスピードを落とす。短くブレーキの音を響かせて、ユーリはレイヴンの隣に停止した。
「先生、こんな時間から学校に行くのか」
 驚いた様子も一瞬で、年相応の若々しい笑みを浮かべる。若干子供っぽさすら感じるその笑みに、レイヴンは緊張し決して気取らせないものの身構える。それはユーリが何かを企てている時に見せる笑みである。カンニング等の懲罰ものの犯罪歴は無いが、昼寝している時に油性ペンで髭を描かれたりアルコールランプを持ち出してカップラーメンの湯を沸かしたり他愛無い内容ばかりだが油断してはならない相手である。
 実際ユーリは賢く決断力もあり生徒の兄貴分のような存在だったが、微笑ましい悪戯は講師にとってちょっとした頭痛の種である。赴任して間も無いレイヴンも容姿の麗しさと悪戯で印象を刻み付け覚えるのに然したる苦労も要らなかった。
 レイヴンの予想は正しく、しかし意外な方向からやって来た。急勾配の桜の木の隙間から巨大な何かが飛び出し、それはレイヴンの自転車を倒す程スレスレに通過したのだ。
「おわぁっ!?」
 身構えていたが予想外を過ぎてレイヴンは驚いて自転車を手放す。安物の自転車が飛び退いた勢いも手伝って、派手な音を立てて倒れた。
 人間の防衛本能の赴くまま驚いて声を上げたレイヴンは、徐々に落ち着きを取り戻し目の前に飛び出して来たものを見た。ユーリの横に悠然と歩み寄り座るのは、大きな子供くらいの体躯はある大型犬である。愛玩動物の持つ愛らしさは無く、すっきりとした体つきに短めの体毛が覆う狩猟犬の風情漂う犬である。首輪はユーリの趣味なのかヘビーメタルさながらの皮と金属を織り交ぜた大柄な物を付けているが、先程の動きから容易に理解出来ていたがリードで繋がれてはいない。事故かなにかで片目が傷ついているのが分かったが、それが犬の精悍さを引き立てる。
 ユーリはにやにやと講師の反応を楽しんだ後、横で毛繕う犬に言った。
「こらこら、驚かすなよラピード」
 ラピードと呼ばれた犬はくぅんと鼻を鳴らす様に応じて、大人しくユーリの隣に居座る。狩猟犬で知能も高いのか、襲って来る様子も無く知的に見上げるばかりの犬にレイヴンも警戒を弱める。
「ローウェル青年は散歩中って事だったのね」
「そう言う事だよ、先生」
 ローウェルとはユーリの姓である。ちょっといじけた様子で言ってみたが、同情を滲ます様子は若人にはない。
 レイヴンはやれやれと自転車を立て直す。確かにリードにも繋がず離して散歩をさせては周辺住民からの苦情は計り知れないが、ラピード自身の運動量を見れば普通の愛玩動物の散歩量でもドックヤードですらも満足出来ないだろう。更にラピードは賢い。周辺住民の過剰な懸念が実在する事などないが、飼い主であろうユーリも有意する必要があった筈だ。それが、こんな早朝の散歩に違いない。レイヴンの解釈は概ね正しく、ユーリも満足した様に授業中では見せない好意的な笑みで答える。
「赴任してから一度も会った事無かったけど、君等の散歩コースなのかい?」
「いや、今日たまたま」
 ユーリはそう答えて軽くラピードの事を説明する。ラピードは賢い為、他の犬の散歩の様に決まった道を散歩道にする事はない事。他犬の縄張りのような衝突があって早朝から騒がれるだろうと危惧した事も有ったが、隣町程度の犬はラピードと友好的で縄張りで争う事は滅多に無い事。夜はフレン生徒会副会長が散歩を行う事。
「シーフォ生徒会副会長が?」
 変わった組み合わせにレイヴンは少し目を見張る。
 フレン・シーフォといえば入学して間もなく、生徒から絶大の信頼を得て生徒会副会長に就任した生徒である。規律に厳しいが紳士的で優しい性格であり、王子の様に整った容貌は女生徒の絶大な人気を得ている。男からは敵視されているかと思うが、性格は悪気が無く男性から敵視される事も無かったそうだ。将来大物の器になる事間違い無し、そんな風格の持ち主だ。
「幼馴染みで、小さい頃からラピードと付き合いがあるんだよ。朝は俺、夜はフレンで分担してるんだ」
 正直、1日2回とも散歩に付き合うのは大変なんだぜ? そう笑って言われれば、そうかもしれないわねと同意する他無い。あまり動物に縁があるレイヴンではなかったが、独り悠々自適に過ごして来たからこそ自分の時間を割いて他者に尽くすのは大変なのは分かるつもりだからだ。
 話題が一段落付いたのを察したのか、ラピードは再び坂道を下り始めた。走り始めたその動きとシルエットは美しく、朝日に明るくなった中に黒く影を踊らす様は風の様に軽く早い。その様子にユーリは自転車のブレーキを緩め、地面を蹴った。
「じゃあ、また後でな!先生!」
 長い黒髪がレイヴンの視線の端に映る中で、ユーリの明るい声が響く。振り返ればカーブに差し掛かって小さくなってしまった人影に、レイヴンは言い放った。
「朝礼には間に合いなさいよ!」
 その声にわかってると言いたげに、ユーリの白い手がひらひらと踊る。青年と犬は瞬く間にレイヴンがヒイコラ言って登った坂道を下り、住宅街の街路樹やベランダに遮られ見えなくなった。そんな彼等を見ていると、視界の温度が急激に上がって行く。見上げれば黄金色に染まる太陽が白じむ空を青く染め上げ始めていた。
 レイヴンは瞳を和ませてその光景を見る。
「いい風景だな」
 彼がこの学校を選んだ理由はなんて事は無い。一流の数多の大学やシンクタンクに声を掛けられても断りここに来た理由は、息抜きのような物だった。大義名分は必要なかったし、地図にダーツを放って刺さった場所に行こうと言いきれるアバウトさがあった。
 研究成果はいつも華やかで、論文は良い評価を連ねたものだった。手を休み無く動かし頭脳を絞っていた時、ふと見上げた青空が美しいのに気が付き、自分自身がいつまでもこのような生活を続けられないと心の何処かで思った。目指す高みの天井に触れられそうで触れられない事を、苦痛と思う前に自分の目指す高みを楽しもうと思った。
 そこに選んだのは若者に授業を行う学校への就職。
 新鮮な環境は目標を見る自分の気持ちを、驚く程に穏やかにした。いまでは講師の職業もベテランを言える程重ねたつもりだが、若い感性から来る質問はいつも良い刺激である。
「来て良かったな」
 呟くと同時に上から朝練の学生達が集団で自転車で坂道を降りて行く。顔なじみになった彼等と軽く挨拶を交わし、その姿を見送るうちにレイヴンは朝食の事を思い出す。今の良い気分は、残りの坂を上ったら消えてしまうだろうと思った。
 自転車を止めて路肩に座ると、ふと過去と今とを比べてしまう。今の自分の状況が、なんだかとっても的を得ているようだったからだ。情けないなんて思った事は無い。残念なのはただ一つ。生徒諸君におっさん呼ばわりされることくらいだ。最中的に結論は、今が満ち足りていると結論づくと驚きと納得でレイヴンは満腹になるのだった。
 彼は再び目を細め、目の前を通過する自転車の影と風と朝日の目映さに口元を緩ませた。