笑顔のため

 ソディアは目の前に巨大なバスケットを置かれて、目を真ん丸くした所だった。
 ただでさえ姿勢の良いソディアだったが、その時の姿勢はまさに棒でも呑まされたかの様に直立不動と言うべき様である。フレン騎士団長の直属の精鋭と言える騎士達も、フレン団長の副官の目の前の光景に硬直すらしていた。ソディアの目の前にバスケットを置いたシュヴァーンは周囲の反応に、驚きや呆れではなく心の底から心配した口調で訊ねた。
「大丈夫か?」
 ソディアを覗き込む様に屈んだシュヴァーンの碧の瞳が近い。
 以前は殆ど帝国に居なかった騎士団一同憧れの隊長主席は、以前よりも帝国に居る事が多くなった今でもその憧れが一片も曇る事がない。騎士の鑑の様な毅然とした態度や立ち振る舞い、経験も実績も団長よりも上であるにも拘らず主席として騎士団を支える姿に好感を感じない者は居ない。厳しい指導と対応であっても、部下に何気なくも暖かい心配りを忘れない人間性は素晴らしい。知れば知る程、隊長主席殿の畏敬は増すばかりだ。
 しかし、時折騎士達も想像が付かない行動をする。その差が騎士達にはとても不思議に思うのだった。その度合いは騎士団の七不思議の一つに、人物として登録される程であった。
 ソディアはあまりのシュヴァーンの近さに仰け反りたくなったが、動揺の中に僅かに残った理性が礼を失してはいけないと立ち止まらせた。
「は…はい!だ、大丈夫です!!」
 あまり大丈夫ではない返答ではあったが、シュヴァーンはその返答に納得して身を引いた。
 それでも机の上に置かれた巨大なバスケットはそのままだ。籘で編まれた暖かい質感で、高級感はないがシンプルで角の微妙なカーブに芸の細かさが光っている。その上を覆う様に置かれた布は清潔な麻布で、シルクのような光沢が無い故にバスケットの暖かみと合う。虹のように弧を描く持ち手部分は、ソディアの混乱を嘲笑うかの様に悠然と上を向いている。
 その頃には詰め所中に香りが充満していたのだが、その発生源はバスケットからであった。
 ソディアはその部屋ではその中身を訊ねなければならぬ立場であると、気を引き締めて訊ねた。
「シュヴァーン隊長。その中身は何なのでしょうか?」
 その問いに、シュヴァーンは冷静な顔で真っ白い麻布を捲った。
 捲った勢いで既に室内に充満していた物よりもさらに濃厚な甘い香りが溢れた。そして香ばしい焼き菓子の匂いがアクセントの様に従う。麻布の下にあったのは、簡単に包まれ白い紙の間から可愛らしく食べる者を見上げるシュークリーム達だった。固めに焼き上がったパイシューの下に、白くふんわりとしたクリームが形よく絞られている。その数は数えきれず夥しい量で、大きめのバスケットに入っていても溢れそうである。
「差し入れだ。皆で食べると良い」
 食い意地の張った誰かが喜びの声を上げると、周囲の騎士も触発されてバスケットに殺到しそうになる。それを、ソディアが鋭い一喝で押し止める。
「各自、茶の準備をしろ! 皿にそれぞれ隊長の差し入れを乗せて、席を準備して、手を洗って、それからだ!」
 全く、シュヴァーン隊長の前だというのに…。ソディアはそんな事を心の中で呟きながら、準備に散って行く騎士達を見送った。
「何もそこまでする必要は無いのだぞ?」
 フレン隊一同のそんな様子を見ていたシュヴァーンは苦笑していた。彼も詰め所を一つ与えられその主を務める隊長である。詰め所でお茶をするのは流石に難しいし、シュヴァーンもそれぞれ立ったまま手軽で食べれる様に差し入れをシュークリームにしたつもりであったのだ。ただでさえ、出動要請があれば飛び出さねばならない待機中の騎士達には、食べれる時があったとしたらその時にさっさと食わねばならないという考えを持つシュヴァーンである。
 ソディアは相変わらず生真面目な表情で、準備をする部下達を見つめていた。
「食べてる途中で茶を用意する方が、礼を失すると思いましたので…」
「君は真面目だな」
 シュヴァーンは優しく笑う。
 ソディアも貴族出身だが彼女自身の真面目さは貴族としては珍しいものである。平民出身のフレンの様に貴族の上下関係を意識して学んだ者とは違い、生まれた時からそれを叩き込まれた意識が彼女の中にはある。それでも、上下関係に屈せず正義を重んじて貫こうとした姿勢は貴重である。フレンの下でなければ、女だからとか適当に理由付けされて潰されていたかもしれないとすら思う。
 真面目故にそれが気が付けないというのも少し問題だが、それは周囲が補ってやれば問題も無いだろう。シュヴァーンは再度バスケットに視線を落とした。
「シュークリームの味付けは3種類用意してある。一つはプレーン…クリームだけ。ココアパウダーが軽く降り掛かっているのは、クリームとビターチョコクリームが重なっている。最後の一種類はクリームにフルーツが混ぜ込まれているから、見分けは難しく無い筈だ」
 説明を受けながらソディアは感嘆の溜息を零した。彼女も女性。甘味には目がないのだが、隊員の数を考えるとその中の一種類だけしか食べれないのは残念だ。
 個人的な考えを直ぐさま改めて、ソディアはシュヴァーンに深々と頭を下げた。
「このように沢山の差し入れ、本当にありがとうございます」
「気にするな。俺もたまに作りたくなるんだ」
 その一言に、ソディアは再び目を真ん丸くするのであった。
 彼女の上司であるフレンからは、時折旅の思い出のように『凛々の明星』の出来事を語られる事がある。騎士とギルドの関係は改善はしたが、職種と人とは別問題でソディアはまだ良い感情を抱けずに居る。それでも彼女は優秀だった為に、後々必要になる可能性を考えて知識として記憶に留めているのである。その中に『レイヴンさんは甘い物が苦手である』という記憶がフレンの声で再生される。同時に『あの甘い物には煩いユーリが、レイヴンさんのパフェを天下一品と褒めているんだ』と続く。
 ソディアがその記憶を頼りに弾き出したのは、『シュヴァーン隊長は甘い物が嫌いなのに、なぜ敢えて甘い物を作っているのだろう』という内容だった。ユーリ・ローウェルは仲間故に頼み込まれて仕方なく作ったなら分かるが、今回の差し入れはフレン隊が頼んだ訳ではなくシュヴァーンが『作りたくて作った』のだ。良く分からない。ソディアは首を傾げるのだ。
 目の前の女性の悩みを知ってか知らずか、シュヴァーンは表情はともかく口調だけはやや明るくなって訊いた。
「で、君はどの味を選ぶんだ?」
 堅物なソディアはその問いを答えようとして、その答えを喉に詰まらせて四苦八苦する。どれでも良いと答えるのは失礼かもしれないが、どれか一つと選ぶのもまた難しかったのだ。どうにかこうにか出た答えは、ソディアとしても予想外の内容だった。
「シュヴァーン隊長のお勧めは何ですか?」
 その答えにシュヴァーンは一つ頷いて、バスケットの中のシュークリームから一つ取り出して差し出した。
「これかな」
 それはカットされたフルーツを混ぜ込んだシュークリームである。差し出されたシュークリームを思わず受け取ると、事務仕事の為に素手だった指先に堅いパイシューの感触が触れる。それでも少しでも力を入れると、柔らかいクリームがシューの中から飛び出そうな気がしてソディアは僅かにお手玉してしまう。その様子を見ながら、シュヴァーンはどうぞと言った。
 言って差し出された物を受け取ってしまったが、目の前で立ったまま食べるのもどうかと思ってしまう。それでも促されてしまうと、応じなければ失礼になる。ソディアは失礼しますと小さく断ってシュークリームを口にした。
 瑞々しいフルーツは柑橘系だったようだ。サイコロ状にカットされた果実は、クリームの柔らかさの中に泳ぎ噛み締めるとその甘酸っぱい果汁を口の中にめいいっぱいに拡げ甘さを引き締める。最初はミルクであった香りが、最後には爽やかな柑橘の香りに変わり甘さがリセットされて次の一口も諄く無い。驚く程に甘味が抑えられているというのに、繊細で上品な甘さはほんの僅かでも十分に甘く感じる。固めのパイシューの香ばしさと共に齧れば、また違った風味が口腔内を支配する。
 それは名店でも滅多に口に出来ない、美味しいシュークリームだった。
「……美味しい」
 純粋に綻ぶ様に浮かんだ笑顔。いつも表情の硬い生真面目なソディアとは程遠く、とても自然で優しい年相応の愛らしい笑顔だ。その顔を見て、今度こそシュヴァーンは嬉しそうに微笑んで慇懃に畏まってみせるのだった。
「お褒めに預かり光栄です」
 まるで貴婦人にでもする様に会釈され、顔を真っ赤にするソディアであった。騎士として毅然としてきた今までで、女として応じられた事はどれくらいあっただろうか。頭の中で指折り数える程度であったのに、その一つに憧れの隊長からそんな風に扱われる事に顔からまさに火が出る思いである。
 それを覗き見られていたと知る数秒後には、ソディアはあまりの恥ずかしさに今の比では無い程に顔を赤くするのである。