風吹渡る屋上

 屋上から空を見上げれば快晴の青空だ。
 この学校では珍しい事だろうが屋上を解放している。授業で使うという一般的な学校よりもっと自由で、ここは大きな昼休みなどの時間に晴天で暖かい日に限られるが解放されるのだ。この屋上解放にあたり生徒の親からは『自殺者が出ないか』と危惧する声が大分響いた事があるが、今回屋上当番のレイヴンはこんな天気のいい日に自殺するなんて勿体ないと思うばかりだ。それでも、そんな子供に十分に接して愛情を注がなかった故に自殺を恐れる親達の声に、学校は解放中は一人教師を見守りとして屋上に配置する事で応じた。
 とはいえ、学校の教師は暇ではない。
 今は美白だ皮膚癌だ白内障だと、紫外線ダメージを気にしている教師は思った以上に多い。そうでなくても、受験や試験やテストの時期になると少しでも時間が惜しくなってしまう。屋上で過ごす事を楽しみにしている生徒とは裏腹に、屋上担当になるという教師の気持ちは晴れやかではないのが実情だ。
 そんな中レイヴンは赴任してから、屋上担当になる事が最も多い教師となった。頻度の度合いは屋上の常連と言っても良い。天気がいい日は屋上でひなたぼっこをして、生徒達と他愛無い雑談をして過ごしている為に生徒達からの人気も良い一つの原因だ。今日もレイヴンは屋上の階段横の出っ張ったスペースに腰を下ろして、空と生徒達を眺めて食事を摂っている。
 屋上は温暖化と叫ぶ世論に煽られた関係で、小さいながらに芝生と庭が設けられている。園芸部がいつの間にか屋上の一角に倉庫を作って、芝生になっていない場所を畑にしてしまった。レイヴンは廊下で生徒会長であるフレンに、今度の秋には薩摩芋が収穫出来ますと報告している園芸部員を見かけたのだからあの青々と茂る葉は趣味の領域では無いだろう。物干竿も掛けられていて、運動部のユニフォームだったりタオルだったり翻る物は様々だ。そして庭を囲む様に木製のベンチが置かれているが、生徒の数は多く芝生に座っている者も多くみられる。学校は給食制ではないので、各自のお弁当やコンビニで買ったお菓子が生徒達の間を賑わせている。
 平和だねぇ。レイヴンはそう声にならない呟きを漏らして、水筒から珈琲を注いで口にした。
 そのまま視線を生徒達の集団から逸らし、レイヴンは目を留めた。そこには一人で読書に勤しむ生徒が居る。屋上で読書は別に構いやしないのだが、その生徒は図書室の常連であるリタ・モルディオである。今まで屋上でリタを一度も見た事の無かったレイヴンは興味と好奇心から、クロックスをぺたこんぺたこん鳴らしながら近づいた。フェンスに背を預けて書物に没頭しているように見えたが、リタはレイヴンに気が付いてすっと顔を上げた。
「…何よ」
 気が強そうな声と同じく、表情が堅く瞳は射抜くように鋭い。茶色のサラサラストレートは切りそろえられ、白と紺のセーラーという他校の制服の色合いが頑さを助長する。リタは天才と名高く、既に幾つかの論文を発表している立場である。生徒でも極一部にしか表情を和らげないのだが、輪を掛けて教師など見下している者も多い。
「屋上で読書してるから、どんな本かなぁ…って」
 そうしてちらりと本を見遣れば、大人の専門家でも手に取っているか問われるヘルメス著の専門書だ。かなり難解で専門学者を名乗るのなら如何に上手く解説出来るかで、その専門学者のレベルを計れるような代物である。著者も既に亡き人物でその難解さは拍車が掛かるばかりだ。ちなみに学校の先生程度でこの書物を理解出来るなら、大学の教授をするべきと価値の分かる人間は言う事だろう。
 学校の教師であるレイヴンも、その書物を見て大袈裟に仰け反った。
「あっらまぁ、難しい本読んじゃってるじゃない」
「先生知ってたんだ。きっと名前すら知らないと思ってたのに、意外だわ」
「そこまで先生無知じゃないわー」
 へらへらと屈託無く笑って見せると、レイヴンはフェンスを向いて座り込んだ。リタも一瞬『座らないでくれる?』と言いたげに視線を向けたが、それを口にする事は無く書物に視線を戻した。風は気にならない程度に強く暖かい日差しの中、時折生徒達が笑う声が二人に届いた。
「リタっちは学校の授業…おもしろい?」
 沈黙を切り裂いた声は想像していた明るさが無く、テストの重要事項も実験の注意事項も笑って伝える教師には似つかわしく無い重さを持っていた。今までそんな声を聞いた事が無いリタはレイヴンを見下ろしたが、丁度レイヴンは頬杖を付いて表情が見えない。もっと良く見る事も出来たが、そうするには体を動かす必要が出てきてプライドの高いリタには選択はできない事だった。
 リタの逡巡を他所に、レイヴンの言葉は続く。
「習う必要の無い事ばっかでしょ? 文明が発展しちゃったから、計算も機械、メールの送信受診も一瞬だから文法要らず、仕事は力仕事要るものは機械がしてくれるから体育も必要なしときたもんだ。学校は大学に行く途中に通る道…生きるのに勉強なんて必要ない。そう、思ったりしない?」
 そこでレイヴンはリタを見上げた。碧の鮮やかな色彩が日差しを受けて透き通るのを、影の中で一際輝く翠が見据えている。リタは思わずその鮮やかな碧に悪寒を感じて冷や汗が吹き出たような気持ちになった。それは試している者が試される者を見る目である。今までも幾度となくその瞳に見つめられた事のあるリタにとって、その目は慣れた目であった。
 今まではその目を向ける時に大人達が発する質問は、非常に難しい専門的な解釈であった。リタは大人達ですら理解が困難である事を難なく答え更に上の回答を示す事によって、認められた天才だった。一般的な人間が出来ない事をするから、天才と呼ばれるのだ。だが、今レイヴンは自分に何と問うただろう。その内容を思い返し愕然としていた。
 リタにとっては問題にもならない。まるでリタの内心を見透かしたような問いである。
 喉元に競り上がってきた言葉は正しいのだろうか? リタは瞬く間に数多くの答えを弾き出したが、正解ではないと幾度となく碧の瞳を前に言葉を飲み込んだ。
 レイヴンの瞳が興味を失ったかの様に逸らされようとしている。リタは焦った。焦る必要も無いと分かっているのに。
 目を白黒させて。ようやく吐き出した言葉。それは、いつもその教師に向ける様に乱暴な口調だった。
「そんな事、どうだっていいわ」
 リタは迸った言葉に驚きすらしたが、発した言葉を撤回する事はしない。更に捲し立てる様に言葉を続けた。
「あたしは世界の事が全部知りたい。その為に無駄な知識なんて何一つ無いわ」
 そして再び翠を見上げてきた碧をリタは睨みつけた。
「あんたはあたしの教師でしょ? しっかり教えなさいよ。教えなかった承知しないからね!」
 振り下ろそうとした分厚い本を、レイヴンは動き難い姿勢でクロックスでありながら器用に腰を浮かせて避ける。おおこわいこわいと大袈裟に身震いしてみせれば、予鈴が響き渡る。周囲が本鈴の鳴る前にと立ち上がり移動を準備し始める中、レイヴンは含んだような笑みを浮かべてリタを見た。
「おっと、そろそろ授業始まっちゃうわ。屋上の鍵締めるから、先に行ってちょうだい」
 戯けるような顔を横目にリタが見たのは、冷静な光を称える碧。何が正解だったか知らないが、自分の答えは彼を落胆させるに至らなかったのだと冷静にリタは分析した。たかが一般大衆に勉学を教える教師なのに、なぜ自分はこんなに真剣に悩み答えを出したのか馬鹿馬鹿しいと思ってしまう。
 しかし、試され量られたのは確かだ。
 言葉にならない思いを不機嫌に変えて進み、屋上の出入り口に手を掛けて一度だけリタは振り返った。
 そこには晴天の下の風に白衣を翻し、満足そうに空を見上げる物理教師が立っている。
 ばっかみたい。いつも言う言葉を思わず飲み込んだ。