絆のため

 レイヴンという男がドン・ホワイトホースの傍に居る様になって、どれくらい経っただろうか。
 そう部下の誰かが呟いたのを、『紅い絆傭兵団』の首領バルボスは聞いていた。
 誰かがそれを口にして正確な年月を言える者が、ダングレストには居ない。レイヴンは常にドン・ホワイトホースの隣に居る訳ではなく、レイヴンはレイヴンの仕事がある。それは帝国とギルドの調停役としての仕事であったり、個人的にこなしている依頼であったり、彼自身の放蕩癖であったりでドンの横に居ない事の方が圧倒的に多いのだ。しかし、レイヴンはドン・ホワイトホースの右腕と呼ばれる人間になっていた。
 バルボスも朧げにレイヴンという男の事は知っている。ボサボサの頭を軽く結って、細身の体が紫の羽織と服に埋もれているような奴だ。無精髭を生やし目は眠た気で口元は締まりがなく薄ら笑いが張り付いている。見た目の印象も然る事ながら、性格も信頼できるものでは到底無く胡散臭さが服着て歩いているようだ。
 真面目な人間なら、もっとマシな人間を側近に置くべきだと思うだろう。ドン・ホワイトホースは決断力と行動力に優れ魅力溢れ、ギルドの頂点に君臨している。バルボスはドンとは旧知の仲であっただけあって、ドンの素晴らしい所しか見ない若者に比べればドンの悪い所も知っている。バルボスは結局もっとマシな側近を置くという意見を否定出来ないながらも、具体的にどんな人間がドン・ホワイトホースの横にあるべきか口で言える程考えたりもしない。所詮は違うギルドの長なので、他のギルドの方針に口を出す事は許されないのだ。
 そんな部下の呟きを忘れかけていた頃、そのレイヴンという男が顔を見せた。バルボスの記憶の通り冴えない胡散臭い男が具現化したようで、実際の年齢よりも老けて見えているのだろうと思う程だ。眠そうに細められた瞳には達観した感情が沈殿していて、薄ら笑いの裏には決して他人には見せない油断と隙のなさが潜んでいる。バルボスはレイヴンという男がギルドにはいない人種だと直ぐさまに感じた。
「何か用か?」
 バルボスがそう問えば、レイヴンという男はヘラヘラと笑ってテーブルの上に一抱えはあるだろう巨大な紙袋を二つ置いた。警戒した部下達は、徐々に広がる甘い香りに戸惑う様に顔を見合わせる。バルボスががさりと紙袋に指を掛けて中を僅かに見ると、バルボスが好んでいる酒瓶のコルク栓が見える。
「ドンに言っとけ。甘い物で酒を飲むのは邪道だ」
 ドン・ホワイトホースがダングレスト1と称される甘党である事は周知の事実である。酒の肴が甘味であった事にバルボスは幾度となくドン・ホワイトホースと対立した事があって、今でも決着しない嗜好の問題として残っている。流血沙汰にならなくなった程に年齢を互いに重ねたというのに、この期に及んで更に己の嗜好を押し付けるつもりなのか。バルボスはかつて満面の笑みで酒の肴に甘味を勧める姿をありありと思い出した。
 頭が痛い。そう言いた気にソファーに背中を預けるとレイヴンという男は、少し困った様に言った。
「まぁ、一応ドンからのお祝いなので、おたくらの好きな様にして良いんじゃないんですかね?」
 なんの祝いのつもりなんだよ。バルボスは心の中で突っ込みながら、自分の好きな酒だけは手元に置いてその他を部下に下げさせた。男という生き物は案外甘味が好きな者が多く、紙袋を持って行き扉一枚隔てた向こうで歓声が上がるのを聞く。『皆お好きねぇ』と呆れるようなレイヴンの声に苛立ちが助長される中、バルボスは目の前に新たに現れた箱を鋭く見上げた。
 両手に包み込まれてしまうような小箱を、レイヴンは『これが貴方の分です』と言わんばかりに慇懃にテーブルの上に置いた。自分に甘味を肴に酒を飲めと言わんばかりのドンの意思が、小箱から異様な気配の様に立ち上っていた。
 しかし、不思議な事だ。ドンとバルボスは互いにギルドを創立する遥か昔、一端の戦士になっただろう頃合いに知り合った。その間にドンから『人生の9割を損している』と甘味を勧められた事が多過ぎて、バルボスは今ではすっかり甘い物が嫌いになってしまった。そんな腐れ縁的存在の譲れない趣向であったが、ここまで強引というか執拗に勧められた記憶が無い。つまり、目の前の箱の中身はドンが自信を持って勧める、そして幾度となく勧めを断って来たバルボスでさえ納得する、そんな一品なのだろうと思う。対応次第では『天を射る矢』と『紅い絆傭兵団』とで戦争も起きかねない。
 それを如実に語るのが、目の前でへらへらと立っているレイヴンである。きっと『感想を聞いて戻って来い』とでも言われているのだろう。
「俺様は甘い物が嫌いだ。理由は自分の胸に聞けと伝えろ」
 手を付ける事を拒否した様に徐に立ち上がると、バルボスはグラスを取り出した。立ち去る様子も無い為に物音がしない室内には、隣の部屋から甘味を口にして喜びの声を上げる野郎共の声が聞こえていた。何処の洋菓子店なのだろうという疑問が響けば賛美の言葉が途切れる事が無い。全く、食いもんに釣られやがって情けねぇ、バルボスは苦虫でも潰す様に顔を顰めた。
 すると、聞き覚えの無い低い声が響いた。その声は聞き覚えが無いどころか、記憶を辿る前に壁や床に染み込んで記憶に留まる事もしない。しかし、その声はこう言った。
「俺も甘い物は嫌いなんですけど」
 振り返るとレイヴンというあの男が、苦笑を浮かべながら先程の声が嘘の様に明るく話し出した。
「ドンは甘い物をこれがまた美味そうに食うんですよ。その上ドンは俺に食えや作れや煩くって…」
「そんな世間話したって、俺は食わねぇぞ」
 へらっと笑った顔を引き攣らせるのを見遣り、バルボスはその顔に鉤爪の付いた義手を突きつけた。
 やはりこの男は油断ならないとバルボスは痛感し、流石ドンの隣に居る事を許されているだけの事はあると思った。
 今、バルボスの脳裏にあるのは若く共に肩を並べていた時代、ドンが美味そうに甘味を頬張る様を呆れた様に見ていた自分の感情だった。過去を今を比べれば歳を重ねた外見以上に変わってしまった心を見透かされ、ギルドの協定と堅牢な絆を呼び起こそうと内から訴えているようだ。バルボスはその訴えを振り払う様にレイヴンに言い放った。
「とっとと失せろ」
 レイヴンもバルボスの内心を感じ取ったのだろう。へらへらと笑いながら形だけ頭を下げて部屋から出て行く。
 それを見送ったバルボスの所に残されたのは、酒瓶と箱と手に持ったグラスだけ。それを憎らしく見つめながらも叩き潰す事も出来ず、きっと自分は酒の肴にこの箱の中身を選ぶのだろうと思う。くれてやりたくても部下達は部屋に戻って来ないし、バルボス自身も食い物を粗末にする事は出来やしないのだ。それを悔しく思いながらバルボスは葉巻を取り出して火を付けて、葉巻が酒の肴にならない事を心の底から残念に思った。
 部屋に広がる紫煙をどこからか吹き込んだ風が揺らす様子をみて、バルボスは呟いた。
「甘い物が嫌いなら、作るんじゃねぇよ」
 暗くなって来た室内に、葉巻の先に灯る火が静かに輝き隣室の騒ぎを笑う様に明滅している。それがあまりにも奇麗で、バルボスはその火を灰皿に押し付けて消した。