鏡遊び の如く

 レイヴンは二人の人間が演じている。
 それを知る人間はダングレストではドンしか居ない。しかしドン・ホワイトホースにとってレイヴンを演じる者がどっちであろうと、些細な問題。見分けるつもりもなかった。
 二人は黒髪。背格好はどちらかが少し高いようだが、猫背の演出で同じに見える。大きめの服をだらし無く着込み、ひらひらと紫の羽織を翻す背は両方ともどちらかと言えば細い。凝視すればどうにか違いが分かる碧の瞳を持っているが、前髪の落とす影にその違いは上手い具合に隠されてしまう。
 外見にとらわれない、例えば匂いを嗅ぎ分ける犬でも居ないと見分けられないだろう。
 二人とも騎士団に属していたのか武術の心得があるが、その内一人は現役でない為か動きが若干鈍い。一人は武力が劣る代わりに知識や機転でその場を乗り切り、一人は武力はあるが穏便に済ませたい為に力に訴えたりはしない。二人共騎士団出身である事を隠そうとした結果だろう。それでも二人共ダングレストの裏路地で負ける事の無い程度の腕前は持っていたので、実力の面でも見分ける事は難しい。ドンが本気で切り掛かれば判明する事だろうが、理由が無かった。
 レイヴンは優秀だ。確かな判断力と決断力を持ち機転が利くし、根が真面目だ。ギルドの事を真剣に考え、野心が微塵も感じられない。不正を目の前にして憎んでいるからか、ギルドの掟には天を射る矢の構成員よりも従順だろうと思う程だ。二人の演じるレイヴンは非常にギルドに向いた人間だった。帝国に居させるのが惜しいくらいだ。
 演じる二人は互いに密に連絡を取り合っているらしく、入れ替わっても記憶が食い違う事が無い。ドンが会う回数を重ねる毎に、レイヴンは一人の人間になっていっていた。
 今は彼等の正体を知る故に接触してくるが、ドンは彼等を帝国出身と明かすつもりは毛頭なかった。レイヴンはドンの頼みを、一人は面白そうに一人は用心深そうに受け取って断ったりはしなかった。いつしかギルドの人間の中に、ドンとレイヴンは友人なのだろうという認識が芽生えつつあった。実際そうなのだろうとドンは思っていて、自身のギルドの仕事で部下が頼りない時に個人的に頼んだりしていた。
 天を射る重星の隣の個室で二人で頼み事を片手に飲んでいた時、レイヴンはドンに何気なく訊いた。
「もう一人のは元気そうにやってます?」
 帝国の人間にとっての敵地であるダングレストなのだから警戒するが、二人はここでは一分の隙すら見せない。だが、正体を知って敵視しないドンにはこのように訊ねる事があった。レイヴンの言う『もう一人の』は、レイヴンを演じる二人の内の一人の事。演じる人間の一人は、もう一人をとても心配していた。
 交替で演じている為か、演じている二人が同じ場所に居合わせた場面をドンは一度も見た事は無い。といっても、演じていない姿というのもここ数年と見ては居ない。連絡も面を合わせてというのは、一人が騎士団の大隊の隊長をしているのだから難しいのだろう。ドンは既にレイヴンを見分けるのが難しかったので、彼の問いにこう答えるしかなかった。
「それはおめぇさんが一番良く分かってるんじゃねぇのか?」
 レイヴンは風来坊で、ダングレストで自由気侭に闊歩しているように思えた。女好きで付き合っている女は片手じゃ足りないとか、頬に手の平型の腫れが出来ているのをレイヴンが良く分かっている。誰もが気安く声を掛けて戯けて返せば、愉快に相手も笑ってくれるのを知っているだろう。胡散臭い人間ではあったが悪意が無いから、人懐っこい人好きする性格をダングレストの人間は好んでいた。
 彼等はダングレストに受け入れられていると言って良いだろう。
 ドンの返答にレイヴンは溜息か相槌なのか分からない返事を返した。しかし、その顔に浮かんでいるのは心の底から安堵しているような笑みだった。そして、静かにドンに声を掛けた。
「もう一人が笑わない時があったら…気をつけて下さいね」
 息を飲む程に切実な声に、ドンは『レイヴン』の意味を垣間見た気がした。深く事情を聞かなくても『気をつけなければならない状態』に一番最初に気が付くのはドンなのだろう。
 それを静かに告げる様に碧の瞳がドンを見つめていた。そして次の瞬間ケラッと笑った。
「天下のドン・ホワイトホースに頼み事なんて図々しいかなぁ!」
 軽快に笑うと、ひょいっと酒瓶を持ってドンのグラスに酒を注ぐ。先程の静謐な雰囲気が、レイヴンの調子の良いものに完全に切り替わっていた。
 レイヴンはシュヴァーンの為にダミュロンが作った人物だ。一生癒える事の無い傷の痛みが、少しでも和らぐ様にと生まれたレイヴン。笑い、戯けて、人に好かれ頼られ、帝国から離れる事の出来る時間が与えられる。ダミュロンがレイヴンを演じ笑う限り、シュヴァーンもレイヴンを演じる時は笑わなければならない。ダングレストの人間に受け入れられ一個人として扱われる様になったレイヴンを、シュヴァーンは簡単に殺したりはしないだろう。
 そしてレイヴンはダミュロンの為にも作られた人物だった。帝国の不正に辟易している鬱憤を、晴らす意味ではレイヴンの傍若無人な振る舞いは望んでも得られるものではない。シュヴァーンがレイヴンを演じ依頼を断らぬ限り、ダミュロンもレイヴンである限り正しさを忘れることはない。帝国の腐敗から遠いギルドの正義は、ダミュロンにとって得難い宝のような尊さがある。
 笑顔はレイヴンであるための仮面。
 それが、失われることはレイヴンの死を表していた。
 そんな心の内をドンは死ぬまで全て知る事は出来なかった。しかし、それは些細な事だ。
 目の前で彼はドンの手渡した書類をぺらぺらと捲っている。かなり重要な書類の筈で詳細な内容が記されている筈なのに、まるで雑誌かなにかを流し読みするような動きである。それでも、それがレイヴンの情報収集の方法だった。端から見てもちゃんと読んでいないだろうと思う通り、レイヴンはその中身を熟読しておらずその中身に多く見える傾向のみを目で追っている。つまり、最大人員を誇る天を射る矢を含め全てのギルドから信頼を置かれたドンに向けられた陳情傾向、それを把握するだけでギルドが最優先で行っていく問題、これから起き得る事の想定が出来る。
 誰もそのような高度な情報収拾をしている真っ最中だとは思わない。それでも彼は『レイヴンに任せれば大丈夫』と、全ギルドからドンと同じく信頼するようになりつつある人物である。瞳に浮かんだ真剣で堅い光を見る事が出来るのは、レイヴンを間近に見るドン・ホワイトホースくらいである。
 レイヴンは二人の人間が演じている。
 レイヴンは優秀だ。レイヴンであり続ける限り。