確信疑念

 シュヴァーンは人魔戦争の英雄だった。
 人々が知らないうちに幕を開けた人と魔の戦争は、人々が良く知らないうちに幕を閉じた。本当は英雄などでは無い事は、シュヴァーンが一番良く言っている。
 多くの騎士が死に、多くその地に住まう者達が巻き込まれた。戦争は記憶する人々の胸の内には、底知れぬ闇を流し込んで溺させ後々まで苦しめる。最前線から生きて生還した騎士達で、騎士団を去らず命も絶たなかった人間は最終的にシュヴァーンただ一人となってしまった。
 今では悲惨な戦いの生存者としての価値が、彼を英雄と足らしめている。本人程馬鹿馬鹿しいと思いはすれど、他者から見れば十二分に功績と評価される事だった。シュヴァーンの実力も人徳も騎士団では抜きん出ていた事もあって、本人の否定は謙遜に周囲に映った。
 英雄がいるだけで得体の知れぬ戦争の存在は陰る。人々は英雄を欲しがった。
 戦争後の傷がどうにか癒え騎士としての任務に就ける程に回復する前から、シュヴァーンは自分の存在が人魔戦争の英雄として必要とされているのを知っていた。あの戦場を知っている数少ない騎士であり、その戦場の最前線から生き延びた唯一の存在の葛藤は酷い。責任感の強いシュヴァーンは、目の前で死んで逝った多くの命を救えなかった罪と、今生きる人間の不安を遠ざける事が出来る想いで引き裂かれる思いだった。目を閉じれば浮かぶ戦場の光景を、耳にこびり付いた人を殺す轟音と悲鳴を、手に残った他者が力尽きる瞬間の脱力感と敵を屠る手応えを忘れる程の時間は経っていない。生きているのですら、未だ不思議だった。本当だったら何時、脱隊しても可笑しくは無かった。
 王宮に新しく当てられたシュヴァーンの部屋は想像以上に豪華な物だった。まるで貴族に与えられる部屋の様で、調度品ならまだしも人間までもが控えている。まだ病み上がりだった為に医師が控えてくれていたが、最近は騎士が控えて食事や出掛ける際の支度などを何くれと手伝ってくれる。平民出身で仕えられる事に慣れなかったが、まだ体調が回復していない為に有難かった。
 扉がノックされ今日はシュヴァーンの部屋に控える事を命じられていた騎士が客が来た事を告げた。その顔が緊張していたのを見抜いたシュヴァーンは、直ぐに立ち上がって服の皺を伸ばした。部屋の主たるシュヴァーンが応じる前に、客人はのそりと扉を潜って現れた。
 騎士団長ドレイク・ドロップワードを認めると、シュヴァーンは慌てて敬礼する。
「団長、申し訳ありません。本来ならこちらが出向かなくてはならぬのに…」
「気にするな。私はもう団長ではないしな」
 少し不機嫌そうにドレイクは応じ、シュヴァーンは少しだけ困った様に頭を下げた。すでに鎧は纏っていないものの、彼の隊の色彩である白を基礎とした風格ある装束を纏っている。顎髭も相変わらず丁寧に整えられている。
 ドレイクは人魔戦争で多くの騎士を死なせた責任と、仕えていた皇帝の死を機に引退を表明したからだった。口には出さない心の空虚さを感じ取ったシュヴァーンは、謝罪は述べぬが黙って更に低く頭を下げた。
 ドレイクが団長の座を降り、後任を任されたのはアレクセイ・ディノイアだ。現在の騎士団長は人事の再編成で忙しかった。
「お前に帝国騎士団隊長主席に就けという命令が下りるそうだ」
 今度こそシュヴァーンは目を丸くして驚いた。
「俺が…ですか?」
 親子程の年齢差があるだろうドレイクは、シュヴァーンの驚きを楽し気に見ていた。憎まれ口を叩き合う入団当初からの友人の理念を継いだ男が、まさか予想だにしていないとは思わなかったからだ。帝国初の平民の隊長主席就任が想像出来る程自惚れてはいないだろうし、シュヴァーンは隊長に昇進する程度だと思っていたのだろう。この国が平民に優しく無いのを骨身に沁みているようで、ドレイクは少し哀れむ。
 シュヴァーンの驚きを他所に事態はドレイクの言葉通りの動きを見せていた。帝国に残り戦争の事実を知らぬ多くの騎士達は、戦争を生き延びた力ある騎士の昇進を喜んだ。平民が初めて昇るだろう階級に評議会は荒れたが、最も地位の高い評議員はその反発を悟られぬうちに平らげた。どんな懐疑的な騎士も傲慢な貴族も、シュヴァーンの人魔戦争を生き延びた騎士である事実を覆す事が出来なかったのだ。
 少しすれば、アレクセイとシュヴァーンが並んで騎士団を導いて行く事だろう。皇帝陛下が崩御され空席になる玉座は、この先の未来が困難を並び立てる程に過酷である事を示している。貴族としての力を知るアレクセイと、現実の力を知るシュヴァーン。この二人の若者達が導く騎士団が困難に屈する事はないだろうと思う。未来の騎士団の様子をドレイクは眩しい思いと込み上げる安堵の中で想像していた。
「私から一つ、隊長主席としての心構えを授けよう」
 シュヴァーンが思わず背筋を伸ばすと、ドレイクは厳かに言った。
「アレクセイの事を団長とは呼ばぬ事だ」
 一瞬の間を置いて言葉を理解したシュヴァーンは、その言葉を理解しきれぬ様子で返した。
「それは失礼な事ではありませんか?」
「勿論公の場では団長と呼ぶ必要があるだろう。だが、それ以外は名前で呼ぶのだな」
 今までトール隊の小隊長をしていたシュヴァーンはアレクセイの事を『隊長』と呼んでいた。階級が上がるとはいえ目上の者を、いきなり呼び捨てで呼ぶ事に抵抗があるのは当然の事だ。勿論、シュヴァーンの発言通り失礼な事ではある。しかし、ドレイクはシュヴァーンにアレクセイを隊長と呼ばない事を勧める姿勢を崩さなかった。
 アレクセイは歴代の騎士団の誰もが体験した事の無い、非常に孤独な位置に立たされる事になるだろう。その場所に最も近いのはシュヴァーンなのだ。
 『隊長』としてではなく『個人』として扱われる事でどれだけ救われるかを、ドレイクは知っていた。あの皮肉が混じっていながら己の名を呼ばれる事の尊さを、今になって痛む程に感じる。そして平民初の隊長が、貴族の団長と同等という事に意味がある。アレクセイは貴族の立場に囚われる人間ではないので、シュヴァーンと協力する事に躊躇しないだろう。それが互いの身を助ける事になる。
「努力はします」
 ドレイクの視線を受け止めながら、シュヴァーンは一つ頷いた。
 一国でも早く互いの疑念が消えて確信の下で帝国の守護者になって欲しい、ドレイクは願った。
 未来に潜む多難を乗り越えて欲しくて。