傾かない天秤

 シュヴァーンが様々な職種と地位の人間から説得を受け、昔と変わらず騎士団隊長主席の地位に在る事になった。
 騎士団長に就任するフレンにとって憧れと肩を並べる事の出来る夢のような事態だったが、現実的に考えてもアレクセイの懐刀と呼ばれたベテランの力が借りれるのは有り難い。前団長の謀反の印象から旧体制を一部でも存続させる事に異議が上がった。しかし古参の騎士からは若いフレンへ不安を抱く声が上がり、シュヴァーンの存在は圧倒的な支持を得ていた。その為に騎士団に留まる事になったが、シュヴァーンは職務に忠実で非常に働き者という評価を得る以上の事はしなかった。
 そのシュヴァーンの働き振りを見て、一部の人間は彼を使い切れていない団長は無能なのかという声が上がっているらしかった。
「団長」
 穏やかな声がシュヴァーンである事を瞬時に理解すると、フレンは露骨に驚いて上擦った声で返事をしてしまう。椅子から転げ落ちてしまうのではないかと思う程の狼狽えぶりに、机を挟んで書類を持っているシュヴァーンも思わず怪訝な表情を滲ませる。この一回り以上歳の離れた若者の反応がようやく落ち着いて来たというのに、いったいどうした事だろう? シュヴァーンはそんな事を訝しむ表情で語りながら、労る様にフレンに声を掛けた。
「大丈夫か?」
「はい…だ、大丈夫です」
「あまり大丈夫には見えないが?」
 最初はフレンを心配する声掛け。次は隣のソディアに確認する問いかけ。淡々とした声は周囲のあらゆる感情を平らげて落ち着かせる。横でフレンの様子を見ていたソディアですら、心配する気持ちを削がれて『大丈夫には見えないですね』と頷いてしまうのだった。
 それを見てシュヴァーンは僅かに天井を見上げた。視線を下ろすと、直ぐにソディアにお茶を準備して欲しいと依頼する。フレンを執務室の窓際にある座り心地の良い椅子に座らせる頃には、ソディアがお茶と甘さが控えめなサブレを用意してテーブルの上に乗せてくれた。ソディアの用意を見るやシュヴァーンは少し人払いを頼むと命じ、団長執務室はフレンとシュヴァーンの二人だけになった。その間は、お茶の香りが漂い始めた程度の短い間の出来事である。
「先ずは気持ちを落ち着かせなさい」
 はい、と気落ちした様に項垂れるフレンは用意された紅茶を啜る。頭の中が冷静になると、これから午後まで会議や面会の予定がない事に気が付いた。シュヴァーン隊長は自分のスケジュールまで把握してるのかと思うと、目の前の彼は自分の心配事について必死に思い巡らせてくれているんだろうと思うのだった。不甲斐ないばかりに顔が赤面するのをフレンはどうにも出来なかった。
 フレンの想像通り、シュヴァーンは若き団長の悩み事が分からない為に必死に頭を働かせていた。
 正義感の塊のようなフレンは、貴族の嫌味や揚げ足取り等に滅入るような質ではない。真面目なフレンが団長の業務で困っているならば、今まで前団長の側近だったシュヴァーンが分からない訳がない。そうでなくともシュヴァーンは普段以上にフレンの執務状況を気に掛けている。団長という地位になって貴族達から煩わしい程に振って来る戦略的な話も、フレンが団長になったばかりであったり平民である事もあってまだまだ先の話になるだろう。
 フレンの話を腰を据えて聞こうと思って向かいに座ったが、正直なところ理由が思い浮かばない。それがシュヴァーンの本音だった。
「俺で良ければ話を聞こう」
 そう言ったシュヴァーンだったが、自分や青年にも打ち明けられない話なら手も足も出ないと不安が過る。
 真っ赤になって言おうか言わないでいるか躊躇いが見え隠れしているフレンである。紅茶が渋くなるような時間を経て、フレンは恥ずかしそうに小さな声で言った。
「隊長はアレクセイ元団長とはどのように呼び合っておられたんですか?」
 一瞬傾げるような仕草と、拍子抜けしたような間があった。しかし回答は直ぐ返って来た。
「公の場以外は呼び捨てだった」
 帝国の王城に仕える人間なら知らぬ者はいない事実である。
 しかしそう答えてから、不思議な関係だったと改めて実感する。非常に高い位の貴族だったアレクセイだったが、シュヴァーンが彼を呼び捨てにする事を咎めた事は一度も無い。アレクセイの前任の団長であるドレイクの勧めで初めて彼を呼び捨てした時、アレクセイは何事も無く返事を返した。アレクセイは平民を差別するような貴族ではなかったが、人としても優れた団長に改めて敬意を抱いた。あの時代は悪い事態が止まない土砂降りの雨のように降り注いだ時代だったが、自分が彼を名前で呼んでいたことに意味があるような気がした。
 そしてふとシュヴァーンは思い至った。
 フレンは現団長である自分と前団長アレクセイとを量る秤がシュヴァーンだと思っているのだろう。
 普段は呼び捨てにしているのと、普段も公と変わらぬ役職の名前で貫き通しているのでは確かに異なる。シュヴァーンはアレクセイの懐刀と呼ばれる程の信頼関係にあったが、それは周囲からも互いを呼び捨てにする関係を知られているからだ。フレンはシュヴァーンとの間に信頼関係が無いとでも思っているかと思えば馬鹿馬鹿しかった。しかしシュヴァーンの行動一つ一つが、フレンにはアレクセイと比べられていると映ってしまうようである。
 シュヴァーンがフレンの顔を見ると、思い詰めたように紅茶に視線を落とすフレンが居た。
「団長は信頼関係の形が、団長とローウェルのようにあるべきだと考えているのか?」
 突然の親友の名前に、フレンは間の抜けた声を上げた。その様子を微笑ましそうにシュヴァーンは瞳を和ませて言葉を続けた。
「それは団長と青年だけの特別なものだ。だからこそ職場の人間に同じ物を求めてはいけない」
 晴天のような美しい青い瞳が暗くなったのを見て、シュヴァーンは先程までの考察がフレンの悩みに近い事を察した。
 シュヴァーンは確かに分かり難い性格の持ち主だ。言葉数も少なく、表情も変化に乏しい。それでもレイヴンとして共に戦線を潜り抜けた分、シュヴァーンはフレンとの信頼関係があったと思い込んでいた。やはり口で言わねば分からぬ事が多すぎるのだ。周囲が察してくれるのに甘えてばかりではいけないと、悩める若人を見てシュヴァーンは思う。
 シュヴァーンにとって、フレンもアレクセイも立派な主と呼べる団長である。
 しかし、その答えに真面目なフレンが納得してくれるとは到底思えない。
「仮に君を俺が呼び捨てにしたとしよう」
 諭すような良く響く声色で、シュヴァーンは話し出した。
「本当なら経験と人脈を築いた年長者が団長で、次期団長候補かそれに近い実力の者が隊長主席になるのが一般的だ。だが今は年長者である俺が主席で、まだ若く人脈も狭い君が団長をしている。立場も年齢も何もかもが逆だし、団長としての支持もこれから得て行かなければならない。そんな中で俺が君を呼び捨てにする事は、主席が団長を侮っているという印象を周囲に与えてしまう。君は確かに在籍年数が長い俺と比べてしまえば、色んな面で劣っているだろう。それを肯定してしまうようなものだ」
 評議会や平民を快く思わない貴族には、格好のネタにされてしまうだろう。フレンも理解するのに時間はかからず真剣に耳を傾けてくれる。
「俺は君に剣を捧げる事が出来た事を幸いに思ってる」
 その言葉にフレンが赤面した。耳まで赤い。
「俺が君を団長と呼ぶ事で、人魔戦争を生き抜いた英傑シュヴァーン・オルトレインは若い団長を支持している事が分かるだろう。君も俺を隊長と呼ぶだろうが、その行為も若い団長が年長者に対する敬意を態度で示していると言える。俺達は新体制と旧体制の象徴のようなものだ。俺達が互いに尊重し敬意を表している事は、騎士団全体の団結力に直結している」
 そこでシュヴァーンはフレンの肩をぽんぽんと叩いた。
「団長、もっと隊長主席を使え」
「は…はい」
 フレンが恐縮し萎縮し切ってしまうのを、シュヴァーンは紅茶を啜りながら見ていた。それでも青い瞳は答えを得た様に暗い色が払われている。
 勿論、全ての呼び名を団長で貫き通すのには無理があるとはシュヴァーンも感じている。隊長主席は執務の面だけではなく精神面でも団長を補佐する立場であり、その為には年齢相応に若者扱いをしてやる必要があるだろうと思っていた。
 立ち上がりながら、ふとシュヴァーンはフレンに言った。
「もし団長がアレクセイの様に呼ばれる事を望むなら…」
 見上げて来た青い瞳を、碧の瞳は淡々とした感情のまま見下ろした。
「私の事を呼び捨てに出来る様になったら考えましょう」
 丁寧な声色が紡いだ言葉に、顔色がさっと変わる。その表情を見て、シュヴァーンは一生フレンを呼び捨てにする事は出来そうに無いと思った。