どたばた

 黒い剣士と桃色の姫君。
 悪意に満ちた追っ手から逃げる。手を取り、荒野を越え森を抜け海を目指す勢いで。
 逃走の道中、はらはらと散る桜の中で、剣士の剣は閃光の如く煌めく。
 姫の慈愛は陽光の如く、枯れ行く定めの大樹を蘇らせ…
 何処かのサーガにでもありそうな一幕を、レイヴンはハルルの大樹の枝から静かに見下ろしていた。まるで彼の傍には重力が無いかの様に、両足を太い枝に付け下を覗き込む。どんなに強い風が彼の紫の羽織に吹き付けてもよろめきもしない。
 彼の眼からすれば町の入り口の騒動は大人でさえ親指程度に見える距離だったが、どんな内容が語られているかは大体察しがついていた。その内容がどれほど鬼気迫り殺伐としていても、彼は桜に縁取られた劇を見るかの様に安穏と眺め続ける。レイヴンは黒い剣士と桃色の姫君がこうなる経緯を、ほぼ全て知っている数少ない人物であったからだ。
 そしてこれからの経緯を把握しているほぼ唯一の人物でもあった。
 刺客が剣士に襲いかかる。固唾を呑んで見守っていたハルルの住人達の誰かが、悲鳴に似た声を上げたのがレイヴンの耳に届いた。
 まるで深海の底から這い出て来たかのような、漆黒で滑るような質感の装束。見る者に言い様の無い不気味さを印象づける、長い爪であろう武器が刺客の呼吸や脈拍に揺れる。赤い光を放つゴークルは小さく、それは一般的な風避けとは異なる事を見て取るだろう。追っ手は人々の生活から遠く、異質なものとして空間に浮き上がる程目立った。
 美しい艶やかな長髪を持った若者が、自己流であろうと手慣れた様子で剣を振るう。さらに桃色を基調とした服と柔らかな髪の可憐な女性を、背後に庇ってみせるではないか。周囲の住人達は彼等を応援するだろう。レイヴンの予想の通り、住民達は心配そうに若者達を眼で追っている。
 まるで劇の台詞を考える様にレイヴンは彼等の会話を思い浮かべ、添った様に展開して行く動きを満足そうに見つめていた。
 ふと、レイヴンの緑の瞳が驚いた色を秘める。
 紅の旗が見える。駆け込んで来る騎士達の鮮やかな紅の色彩が、黒い刺客達を薙ぎ倒して行く。シュヴァーン隊のルブラン小隊だと認識する頃には、新手に動揺した刺客達を横目に若者と姫君が町から駆け出して行く。
 若者達の姿がハルルから遠ざかるが、それを追う影が無い事を認めるとレイヴンは再び視線を降ろした。それどころか、枝からも飛び降りて野次馬から一歩引いた位置から見下ろす。そこまでくると、騎士達の会話が聞き取れる様になっていた。
「隊長、ユーリ・ローウェルが逃げるであります!」
「分かっとる! 口を動かす前に手を動かせ!」
 そんなに声を張り上げなくても聞こえると、レイヴンは僅かに体を反らしてしまう。それくらいの大声だったが、実戦慣れした騎士達は瞬く間に不気味な刺客達を仕留めて行く。小隊の人数を割けば若者達を逃す隙等生まなかったろうが、隊長であるルブランは刺客の掃討を優先したようだった。逆に若者達を追いかける余裕を刺客達に与えなかった力量は流石と言えよう。
 騎士達が手早く掃討した刺客達を縛り上げ、怪我の具合を確認する。重傷だろう者には早速応急処置が施され、対応する為の部屋を借りる為に騎士が宿屋の戸を叩く。住民達が事の顛末を把握しようとする頃には、騎士達は刺客達を取り調べる為に借りた部屋に撤収して行った。残っているのは大きいのと小さい騎士のコンビくらいで、彼等は住人達に安全が守られた事を説明していた。
 人々は安堵の声を漏らして、安全である事を波の様に広めて行く。レイヴンも散って行く野次馬に紛れて宿に向かう。
 宿屋の裏手に回ると、そこには待ちかねた様に小隊を率いていたルブランが居た。レイヴンを待っている様子は微塵も感じさせない自然さだったが、レイヴンはルブランが己を待っている事を知っていた。周囲に人気が無い事を改めて確認しながら、レイヴンは宿の騎士達からは決して見えない位置に身を置いた。
「や。ご苦労様」
 軽い口調でそう言うと、お堅いルブランは『それはどうも』と短く返す。つれないわねぇと笑うレイヴンに向かって態とらしく咳払いをすると、耳を疑うような小声でルブランは言った。
「ヨーデル殿下の行方が知れぬとの事ですが、随分と都合の良いタイミングだと思いますな」
 ルブランの視線は鋭い。その鋭さと言えば、疾しい事を少しでも考えている人間であれば動揺する程の鋭さだ。ルブランは正義感の塊みたいな男であったが、彼は騎士としての経験もずば抜けていて悪事の対応に慣れていた。その視線を受けてレイヴンは冷やかす様に態とらしく口笛を吹いた。
 ルブランの口にした事は機密事項である。恐らく、小隊長であるルブランだからこそ持ち得る情報だろう。
 時期皇帝候補は現在二人。評議会が擁立するエステリーゼという姫君の他に、騎士団が推薦するヨーデル殿下がいる。ヨーデル殿下の失踪と、エステリーゼの失踪はほぼ同時期である。疑い始めれば真偽はともかく、騎士団と評議会の関係を皮切りに様々な憶測をでない疑惑が山の様に出る事だろう。
「ユーリ・ローウェルの追跡とエステリーゼ様の保護が任務じゃなかった? さっきの行動は違反じゃない?」
 レイヴンの意地の悪い口調が利いた言葉を聞いて、ルブランは一瞬口元を歪めた。しかし、瞳の光は相変わらず強いままレイヴンを見上げていた。
「私は隊長として最善の選択を選ぶ責任があります。任務を全うする騎士である前に、臣民の命を守る騎士です。私はそれを若い未来を担う部下に伝える責任もある。貴方こそ、人の命で謀をする事は止めた方が宜しいでしょう」
「言うねぇ」
 レイヴンが嬉しそうな声を上げ、小さく賞賛の拍手を贈る。
 ルブランの推測は正解の域にあった。この一連の騒動は、騎士団と評議会の均衡が保たれる為の一つの取引なのだ。しかし、ルブランの目は既に任務に向けられている。
 騎士団には評議会程の腐敗は無いが、彼のような正義と使命を天秤に掛け判断出来る騎士は決して多く無い。不正を非難し悪を叱責する事は簡単だが、ただ正義を振りかざすだけではいけないという事を理解している。部下達はその背と行動を見て学んで行く事だろう。
 そこでルブランは背筋を伸ばし続けた。
「我等が隊長も同じ事を申される事でしょう」
 毅然とした態度で敬礼すると引き返し、部下達が待機する部屋に行ったのだろう。扉の閉まる音が取り残されたレイヴンに届いた。
 ルブラン小隊はこれから二手に別れ行動する…。あの大声で筒抜けだが、漏れても相手に対して隠蔽する程の事ではない指示が手際よく伝えられる。騎士達が忙しなく準備する物音が、聞き耳を立てなくともレイヴンには感じられる。
 再び枝に登って見下ろせば、数人の騎士達が馬を用意して出発の準備をしている姿を見た。
「折角の桜を見て行きゃ良いのに…」
 ハルルの大樹に霞の如く咲き誇る桜の下で、紫の羽織を羽織った男が苦笑しながら見送っていた。その男が思い浮かべた人物でさえ、他人に花を見るよう促しても本人は任務の途中で桜を見たりはしないだろう。
 戦士達の時間は自分とは違うのだな…。
 レイヴンは寂しそうに笑い、急く必要がない事を知っているが故に桜を見上げた。