生き残る

 シュヴァーンは目の前に現れた人物を、さも不思議そうに眺めた。
 夜露が最も冷たく冷やされる時刻。太陽が空の端に光を投じ始めるよりも早く、草木は本日で最も冷たい夜露に濡らされる。葉に付いた雫は重たく大きく育ち、湿り気を帯びた土の上に音も無く落ちて染み込むだろう。空気に満ちた重さを感じる空気は、まだまだ体の傷が癒えていないシュヴァーンの体を抱擁するかの様に迎えた。
 体の痛みに眠れず早朝の時刻を迎えたシュヴァーンだったが、ベッドの上で安静で居る事は黙って苦痛を耐えるのと同じ事であった。痛みに何度も浮上した意識だったが、最早微睡む事も出来まいと冷たい体は意識に訴える。気配を消し、静止するべき医師が入眠しているのを横目に見ながらシュヴァーンは庭に下りてきた。
 王宮の庭園は季節の花々が咲き誇るが、この時刻では眠りに付き蕾が開かれる事は無い。それをシュヴァーンは感慨を一つも保たぬ瞳で見下ろしながら、のろのろと石畳を歩いていた。久しく感じる外気に戯れ痛みの疼きを堪える中、シュヴァーンは足を止めた。
 気配は巡回の兵士とは異なり、完全に絶って居ただろう。足音も固い靴底と整備された石畳の上では疑う程の音量に抑えられているに違いない。シュヴァーンはその庭園に自分以外の誰かが居る事を不思議に感じた。
「お前が生き残りか…?」
 その声は紛れも無く男性の音質。整った容姿、まだ濃紺の夜空に浮かぶ様に輝く白銀の長髪。一瞬女性と見間違えてもよかったが、その声を聞いてシュヴァーンは僅かに擡げたロマンティックな想像を全て打ち壊した。
 随分と余裕な事だと思えば、彼は己に向けられる感情を何も持っておらず不思議に感じる。
 遺族、戦争の責任を取る者、戦争で何らかの被害を受けた者。関わった者はシュヴァーンに何らかの感情を剥き出しにした。戦争に関わらぬ者は、警戒か好奇心のどちらかを抱く。人魔戦争の生還者で最も名の知れた自分なのだから、その感情を受け止める義務があるとは思っている。しかし、その言葉には覇気がない。独り言にすら感じてしまう。
「そう言われています」
 シュヴァーンはとりあえず敬語で返した。
 体を包む装束は絢爛豪華という華やかさは欠いていたが、それを構成する布地や飾り釦の素材は一級品、麗人の体に誂えた様に添いオーダーメイドに違いなかった。今では人魔戦争の英雄として騎士達の中でも指折りの尊敬を集め実力を認められても、平民という中身までは換えられない。これからアレクセイが団長となり平民がさらに登用されようと、シュヴァーンは貴族と平民が同等になる事に時間が必要である事を知っていた。
 まだ吊っている腕や血が滲む包帯が物語る通り、シュヴァーンはまだ不自由だった。帯剣をしていても、その剣を振るい敵を屠る事はとても出来る状態ではなかった。相手の立ち振る舞いを見れば武術の達人と察するなら、先ず勝ち目等ないだろう。
 アレクセイが直線的な刃のような銀だとしたら、目の前の男は綿毛のような柔らかい銀色の髪である。鋭さが無く、脱力や弛緩、言ってしまえば諦めにに似た達観が髪の毛の質感と相まって印象を強める。
「生きるのか?」
 増々不思議だ。シュヴァーンは初めてその問いに答えられる気がした。
「生きないなら死ねと、あの隊長なら言うでしょうね」
 シュヴァーンは笑った。それは朝陽が競り上がる空に押されるような微風にすら揺らめき消える程、儚く頼りない蝋燭の灯火のごとくだったが関係はない。他人から見れば人魔戦争の壮絶を絶する最前線に気でも触れたかと思う事だが、シュヴァーンは正気だった。己が笑えるという変化を、シュヴァーンはとても嬉しく感じた。
 自分が笑みを向けた時、あの愛しく思えた戦友達が皆笑顔を返してくれた。次の瞬間には痛ましい死に様を思い出したとしても、それをありありと想い描ける事をシュヴァーンは純粋に喜んだ。
「貴方は生きるのですか?」
 その問いの答の様に宿った暗い光を見て、シュヴァーンは目の前の銀髪の男も人魔戦争を知っているのだろうと思った。あの戦場には希望という言葉は存在しなかったからこそ、シュヴァーンはその男の感情を理解した。
 しかし何故だろう。そう思い、シュヴァーンは僅かに目を細める。
 男はアレクセイの様に絶対的に不利な戦場と、次々に散って行く人間達を見てきたものとは違う。かといってシュヴァーンの様に守れなかった絶望とも違うだろうと思う。シュヴァーンがその感情をより深く探ろうとした時、男は溜息の様に答えた。喘ぎ声のように喉から絞り出した声は、麗人の印象を老人に変えてしまう。
「友のとの約束を果たす義務がある」
 その瞳は空虚だった。表情ものっぺりとした卵の殻の様だった。ただ、剣を握る手だけが白くなるほどの力が込められている。
 その友が亡き者である事も、彼がその約束に縋っているのもシュヴァーンには判った。そして先程の違和感をなんとなく察する。
 彼には約束しか残っていない。
 シュヴァーンは戦争後も多くのものが残った。騎士団を共に支える関係になるだろうアレクセイ、自分を慕ってくれる部下、要らない戦争の生還者の栄誉。師の教え、友との時間、戦いの技術。死と絶望は確かに多くを奪い去ったが、シュヴァーンは絶望の為に全てを捨て去る事は出来なかった。
 しかし、目の前の男は捨てたのだろう。今までの全てを絶望の為に捨てたのだ。
 なぜそうしたのか、そうせざる得なかったのか、シュヴァーンにはわからない。
 だが戦争はあまりにも悲惨で、可能性は掃いて捨てるほどにあった。どれも正解かもしれない。正解と思った以上の想像を絶する解答があったのかもしれない。それを問うつもりは毛頭無かったが、シュヴァーンは胸が軋む程に痛んだ。
 長い沈黙が続いた。互いに続きの言葉を紡ぐ気にはなれず、かといって気まずい思いは全く無い。シュヴァーンは日が昇り始め白くなりつつあった空をゆっくりと見上げた。多くの星々が日の光に光を失って行く中、凛々の明星だけが未だ明るく力強く輝いているのが見えた。
 すると麗人の動く気配がする。彼は既にシュヴァーンから背を向けて庭園を出ようとしてた。
「俺はシュヴァーン」
 シュヴァーンは少し声を張り上げその背に言った。喉が焼けるような痛みを感じたが、構わず言葉を続ける。
「この先出会う事があれば…」
 喉をいきなり酷使して、喉で空気は塊になり体は咳を発する事で排出する事を選んだ。言葉を続ける事が出来ず咳き込んだシュヴァーンに目もくれず、男の姿は完全に庭園から消えてしまった。落ち着くと、シュヴァーンは言いそびれてしまったと後味の悪い思いを唾と共に飲み込んだ。
 きっとあの男は己の命も関心を払わないだろう。
 少なくとも約束を果たすまでは生きる事に執着しても、その後は己の生死等どうでもいいだろう。
 シュヴァーンは戦争で多くの死を見てきた。
 自分は生き残った事を悔いているし、多くの者を救えなかった事を後悔している。しかし、後悔しても取り戻す事が出来ない。それが死だった。死ねば、それで全て終わりだからだ。だから先程の男が己の生を存在に扱う事を、シュヴァーンは許したく無かった。
 シュヴァーンは男が去った方角を見ていた。
 その瞳を誰かが見ていたとしたら、その瞳は暁の光によって美しく輝いているのを見ただろう。
 生き残る者が罪人ではないのだと、シュヴァーンは他人事の様に思い出した。