物理学者の世界

 物理学の講師として黒板の前に立つレイヴンは、生徒からでさえ変わった先生だと認識されていた。皺を刻みアイロン掛けをしていない為によれよれの白衣を着て、その下に着る服のジャンルはフリーダムだ。黒いシャツである事が多かったが、時折アロハシャツである事すらある。ズボンも土木建築の職人の好むニッカポッカだったり、紫色のズボンだったり、ジーンズだったり統一性がない。ベルトからだらし無くシャツがはみ出している事等、最早女生徒でさえ見慣れてしまい何も言わない。見た目からして彼等が義務教育で関わってきた講師とは違っていた。
 彼の専攻は物理学。化学の授業のように実験も多くなければ、只管数字と式のパズルと向き合っている退屈な授業である。最終的に彼等の残り一生とは縁のない答えを導き出す授業なので、殆どの学生がノートの余白に落書きをしたり、紙の切れ端を手紙にして回したり、果ては机の影で携帯を片手に無料ゲームに興じていたりするだろう。レイヴンの授業を受ける前の生徒達は、自分達が退屈な授業を少なくとも3年は受けなくてはならないのだと考えていたのだ。
 しかし、レイヴンの授業に限ればそれは殆ど無い。彼の授業はとにかく面白いのだ。時と場合によっては立ち見の生徒が出るくらい人気がある。
「つまりだなぁ、電子レンジってのはマイクロ波で食材の水分同士を繋ぐ振動子ってのを揺らしたり回したりした動力で加熱する機械って事なのよねー」
 そういって手をぱぁんと叩いて頭上高く上げると、その手を合わして擦り始めた。皆自分の手を擦ってご覧と裏声らしい高い声が教室中に響く。多くの生徒が手を擦り合わせたが、ユーリを含めやらない生徒も居る。そんな生徒にレイヴンは不快な表情をしたりしない。
「摩擦熱で擦り合わせた部分が熱くなってきたでしょう。細かく言うと違うんだけど、似たような感じなのよ。今の電子レンジって多機能で便利に見えるけど、始めは温めるだけの機械なのよねー」
 教室のあちこちから昇る感嘆の声を聞いていないかの様に、レイヴンは上下を入れ替える事が出来る黒板の下の辺りに数式を書き始めた。書き終えて上下を入れ替えると、式は真ん中辺りに躍り出る。どうやらマイクロ波による振動の触れ幅で加熱される温度を求める式のようだとユーリは思った。その式は全く良く分からなかったが、その式の説明もそこそこにレイヴンの話は続く。
「でも、皆はラップとかして温めるでしょ? 水分は熱を帯びると蒸発するから、その水蒸気を閉じ込める事で、ラップの中の物を蒸し焼きにするのよー。常識だねー」
 今度は大きな円の中に食材と書いた四角と、簡単な図が書き込まれる。『水蒸気』や『ラップ』等のキーワードの他に、幾つかの矢印が書き込まれて分かり易い。その横にまたユーリには意味不明な式が書き込まれて、何人かの生徒がそれを真剣に書き写した。
「あ。こっちに書いたのは水蒸気と振動率による加熱温度を求める式だから上級者むけだよー」
 例えばぁと言いながら、レイヴンはその式に数字を入れて計算する。瞬く間にパンが温まる時間と温度が割り出されると、式の理屈も分からない生徒がへぇーと声を連ねた。
 そして、電子レンジで破裂する物はどうして破裂するのかとか、焦げ等の炭化物はどうして火花が散ったり燃え出すのかとか、揚げ物はクッキングシートに載せて温め直すとカリッと仕上がるとか、底の深い縦長のコップで液体を温めると爆発する様に吹き出すのかとかそんな説明が続く。たまに消費電力とマイクロ波の出力の話もあれば、こんな調理器具は合理的で良いとか雑談も混ざる。説明は砕けた口調と簡単な図で分かり易く、どれも数字として弾き出す為の式も同時に書き込まれる。
 つまり、レイヴンは高度な物理学で扱う式を、一般的な実例と交えて教える授業をするのだ。別に式なんて分からなくても、レイヴンの授業はためになった。毎回テーマが異なり『紙飛行機はどうすれば遠くへ飛ばせるのか』『携帯電話の充電はどうやって行われるのか』など様々だ。そんな授業を受けて、物理学が好きになった生徒も沢山いた。
 ユーリが特にレイヴンの授業を好んでいたのは、ノートを取る必要がなかったからだ。物理学のテストは『こうすればこうなる』的な理論さえ答えられれば、平均点に届く事が出来た。レイヴンの雑談なのか良く分からない授業を聞いている内にチャイムが鳴る。机の上にあるのはペン回しの練習に使うボールペンくらいだが、それでもユーリは彼の授業を受けて賢くなった気分を味わった。
 授業を終えてバラバラと生徒が出て行く中、ユーリは何気ない様子でレイヴンの横に並んだ。黒板を消すのを手伝うというのはただの建前で、本当は彼の授業で使った物の後始末を担当していたりしていた。これも、液体変化の授業でホイップクリームを実演で使い、それを処理した事から始まった事である。
「今日は何も片付けてもらう物ないわよ」
「分かってるって」
 そう言うとユーリは黒板消しを持って黒板の前に立った。見上げれば白いチョークの粉が所狭しと図形と式を描いている。これが今までの話の内容だったなんてユーリには信じられない所があった。どこにも電子レンジという文字も絵もなかった。
「なぁ、先生」
 レイヴンが手元のノートに視線を落としながら振り返った。ぺたぺたとクロックスが床のタイルを叩く。ぼりぼりと乱れた頭髪を掻く音と、うめき声なのか相槌なのか曖昧な声をユーリは聞いた。
「先生は世界が数字で出来てんのか?」
 平凡な大学ノートに書き連ねた数式から目を上げたレイヴンの瞳は、驚いた様子で見開かれていた。いつもは眠たげに半分程下がっている瞼が押し上げられ、ユーリは先生の碧の瞳が思った以上に奇麗な色だと初めて知った。
 驚きの反応も一瞬であったのだろう。瞬き一つの合間にユーリの目の前の先生は、いつものような倦怠感を漂わした中年に戻る。それでも多くの生徒が知る彼ではあまり見る事の出来ない、過去を懐かしむような表情がそこに残っていた。
「物理学って理屈さえ理解すれば、後は足す引く割るかけるが出来れば簡単な学問なのよ。それが楽しくていっぱい勉強して、いろんな出来事を数字に変えていったわ。ユーリの言う通り、世界が数字に見えた時期もあったわね。でも、今は…」
 そこでレイヴンは切なそうに笑った。
 ユーリには痛みを堪えているように見えた。
「もう数字は見えないんだ」
 ユーリは一瞬数字が見えない事が切ないのかと思ったが、その口調は吹っ切れたような明るいものだった。ユーリもこんなに空が青いのに、先生の瞳の色は奇麗なのに数字にしか見えないなんて勿体ないと思う。しかし、物理学者にとっては残念な事なのかもしれないとも思った。
 あまり重く受け止めるのも良く無いと、ユーリは軽く受け流す様に答えた。
「そうなんだ」
 ユーリはざっと黒板消しを動かして、黒板にへばりついたチョークの粉を拭い取って行く。レイヴンの書き綴った知識は消えていくが、今日の授業内容はユーリにしては良く頭の中に残っていた。暫くすると黒板の数字は消えて、黒に近い緑が一面に広がった。
 不思議ね、と先生は笑いながら黒板を見上げた。
 何が不思議なんだよ、と生徒が首を傾げた。