紙上に停む一瞬

 周囲からは規則正しい機械音が低く唸り、熱気と鉄が落とす影に周囲は支配されている。その物陰の床で座りながら寛いでいたレイヴンは、頭上で足音が響いているのを金属越しに聞いていた。上手く足音を消しているつもりだろうが、空気を篩わす暴力的な音とは別に金属は冷たい冷気の如く微かな音を伝わせている。
 ひそひそと子供らしい声が囁く波を感じ取りながら、レイヴンはそっと笑った。まったく無邪気な事だ。すると、一つ高い音が金属越しに響いた。
「レイヴン見ーつけたっ!」
 明るい声が言うと同時に、レイヴンは頭上からずしずしと重いものが降って来る。大袈裟に驚いた振りをしておきながら、レイヴンは落ちて来たそれを決して落としたりはしない。きゃあきゃあと戯れ合う声が変わる前の男の子の声が耳を右から左に貫くのに顔を顰めながら、レイヴンは階段を下りて目の前に駆け寄って来る女の子を見た。
 背中まであるだろう光沢感のある紫の髪を、奇麗に梳いて先をくるんと巻いている。まだ友達と遊んでいたい年頃に見えるが、その瞳はしっかり者に宿る堅い光が煌々と輝いている。怒りに真っ赤に染めた頬の熱のままに、可愛らしい唇が怒りの言葉を迸る。
「ディオ! 危ないじゃない!」
「危なくないじゃん! メルは心配性だな!」
「それはレイヴンさんが受け止めてくれたからじゃないの!」
 レイヴンの前髪が吹き上げられる強風の如く女の子の声が前から後ろに貫いた。男の子の声は顔の真横で暴力的な威力で鼓膜を震わしてくれる。レイヴンは得意の冗談を言う余裕が無い位、頭の中を揺さぶられ意識まで持って行かれないよう耐えるので精一杯である。次第にぐったりして床に転がってしまったレイヴンを見て、初めてメルとディオは『あっ』と声を抑えた。
「ごごごごめんなさい! レイヴンさん!」
「メルの声が響くんだよ。謝る前に静かにしろよ」
「まぁまぁ、二人共そこまでにしなさんな」
 止めなければいつまでも続きそうな喧嘩を、レイヴンは這いながら止める。これ以上喧嘩が続き声が響き続けると、レイヴンの鼓膜も限界を迎えそうな気がするのだ。そんなレイヴンの必死さはどうにか伝わり、子供達は素直にごめんなさいと頭を下げた。
 レイヴンの上に落ちて来たディオもメルと並べば、直毛で髪が短い以外の背格好が非常に似た子供である。まだ双方共に性別的特徴が顕著に現れる前であるから、髪や瞳の色だけでなく体格や背丈も非常に似通っている。ディオとメルは双子だ。一般的に双子でも兄や姉、弟と妹の概念があるがこの二人には当てはめてはいけない。先程の喧嘩以上のものが日が暮れるまで行われるからだ。喧嘩ばかりで仲が悪いかといえばそうではなく、このように二人で一緒にいる場面は多い。
 レイヴンはとにかく双子を並べ、その前に座った。一つ咳払いして、胡散臭くても大人らしく真面目そうな口振りで言う。
「で、二人はこっそり忍び寄っておっさんに何か用なの?」
 その言葉にディオが『ヤベッ!』と短く口走った。バレてないと思っていたのだろうディオの脇腹を、メルが肘で突くと凛とした口調で答えた。
「カノンノさんが困ってるんです。レイヴンさんが断って逃げるから…」
 あはははは。レイヴンは白々しい笑い声を上げて視線を明後日の方向に向けた。
 このバンエルティア号を拠点とするギルド『アドリビトム』には世界各国様々な人間がいる。これ程の規模で実力者が多いギルドは、ギルド活動が最も盛んな地方で最も大規模なギルドの幹部であるレイヴンでもそうそうお目に掛かれない。しかもこのギルドは世界の不安定な情勢に後押しされて急成長したギルドなので、初期メンバーである幹部も若い。
 幹部という訳ではないと本人は言うが、カノンノという少女は『アドリビトム』創立時から参加している古参ギルド員だ。そんなカノンノは絵を描く事が趣味で、暇を見つけてはスケッチブックに鉛筆を走らせている姿を見かけている。最近は共に戦う仲間を絵に納めたいと考える様になっているようで、ギルドに参加するメンバーをスケッチするようになっていた。
 当然、レイヴンにも声が掛けられてしまう訳である。
「こーんなおっさん描いても面白くないわよ」
 と言っては言い逃れ、カノンノが遠目からスケッチしようとすると何気なく席を外したりしている。今では逃げるレイヴンとスケッチブックを持ったカノンノが、追いかけっこをしている様だ。
「なんだか良く知らないけど、レイヴンは本当はここのギルドの人じゃないんでしょ?」
「そぉね。おっさんも長生きしてるから長い付き合いの仲間捨てて鞍替えなんて出来ないのよ。ここには居候させてもらうけど、他の子と変わらず働きますよってアンジュちゃんと約束してるの」
 ディオとメルがそれぞれレイヴンの隣に座ると、猫背で顔が近い無精髭の中年をまじまじと見上げた。
「でも今は戦いで命を預けてる仲間じゃん。カノンノ姉ちゃんのお願い聞いてあげたっていいんじゃない?」
「レイヴンさんは確かに年上だけど、皆は見た目で付き合ってる訳じゃないと思いますよ?」
 双子に挟まれ、流石のレイヴンもあーとかうーとかしか言えなくなる。純粋無垢な子供達に『胡散臭いおっさんだから』とか『描いても面白味のない中年だから』が通じない現状はなかなか辛い。逃げられないでこのまま子供達に引き摺られカノンノの前に引っ立てられそうである。
 しかしそんなレイヴンの心配を他所に、双子はなかなか捕まえる事の出来ない風来坊の中年に様々な話を求めた。レイヴンは『アドリビトム』に所属する者の中では、上から数えた方が早い程のギルド所属歴があったからだ。さらにこの胡散臭い中年の話は大袈裟で嘘くさく、そして面白いのだ。魔物討伐専門のギルドが挑んだ巨大な魔物の話。平民が栄誉ある騎士になった出世話。悪事の限りを尽くした役人の話に怒り心頭になりながら、最後に死んでしまう結末に双子は少し悲しそうな顔をする。ころころ変わる双子の反応を楽しみながら、レイヴンは饒舌に語って聞かせた。
 そして何時しかディオが眠そうにしているのを堪えられず、ころんとレイヴンの膝に寝転んでしまう。朝から年上の青年達に混ざって修錬するのだから、疲れも当然だろう。あらら、とレイヴンは笑う。
「おっさんの膝枕じゃ良い夢見らんないわよ」
 よいしょと抱きかかえると、メルを見下ろして言う。
「メルちゃんも部屋に帰ろうか?」
「わ、私は眠く無いです」
「さっき、目を擦ってたわよ」
 かぁっと顔を赤くするレディに、レイヴンは軽くウインクする。メルが遅くまで魔術の勉強をしているのは、アドリビトムの全員が知っている事である。レイヴンに促されるままに、双子達は部屋に戻され夕食の声掛けがあるまで夢を楽しむ事だろう。
 ベッドで眠る双子を扉を閉める間際に一目確認して、レイヴンはカーテンでやや暗くなった部屋を後にした。そして、ぎくりと身を固める。遠い廊下の向こうからレイヴンを目指して歩み寄って来る、桃色の髪に紅葉をモチーフにした服を認めたからだ。その手に抱えているのはスケッチブック。レイヴンは逃げ道がない事を咄嗟に悟って焦るが、相手は待ってくれない。あっという間に、カノンノはレイヴンの真ん前に立っていた。
「こんにちわ。レイヴン」
 にっこりと微笑むカノンノは返答も待たずに、ずいっとスケッチブックをレイヴンに押し付けた。
 描き上がったばかりなのかスケッチブックに綴られた一番上の紙はしっとりと水気を吸っている。淡い水彩画がスケッチブックを持たされたレイヴンの目に飛び込んで来た。水彩画の淡さで細部まで見なかったとしても、レイヴンは自身の紫の羽織を認めた。
 描かれたく無いという気持ちがあった分、描かれてしまったというのは少しばかり残念な事である。ここは素直に降参と戯けてしまうに限る。しかし、レイヴンはカノンノに言おうと思った言葉を完全に喉に詰まらせる事になる。
「レイヴンって、時々吃驚する程優しい目するよね。私、レイヴンのそんな所が好きだな」
 カノンノの嬉しそうな声を絵を見ながら聞くと、今度こそレイヴンは水彩画を注視する。先程双子達と会話していた所だろう。機械室の背景は描かれていないが、双子と並んで座る構図は先程の様子と合致する。楽しそうに笑う双子を、中年男は優しい瞳で見つめている。その顔を見て、レイヴンはひやりと背筋に悪寒に似た感覚が走るのを抑える事は出来なかった。胡散臭く調子のいい風来坊が欠片もない表情は、レイヴンが隠しておきたい存在に近かったからだ。
 これだから芸術家は苦手なのだ。
 時折、想いも因らぬ視点で内面を見透かされてしまうから。