シュヴァーンは任務から戻ると団長への報告もそこそこに、執務室にて己に上げられた報告書に目を通す。その時間は夜間に差し掛かる時間である事が多く、夕暮れから徐々に暗くなり眠り始める王城の気配を感じる。挽きたての珈琲の香りを友にして、ぼんやりとした面持ちで1人報告書を繰る。無感動な瞳の光は硬質な硝子の球面のようだ。
 一通りの書面を確認した頃には、時刻は深夜に差し掛かる。王城で姿すら見かける事が稀と言われる隊長主席に提出された書類を思えば、その程度で済むのは周囲の協力のお陰だろう。シュヴァーンは感謝を胸に小さく伸びをして、椅子の背もたれに身を預けた。
 帝都を照らす魔導器の明かりに揺らめく天井をぼんやりと見上げる。薄く霞が掛かったような天井と対を成す様に、手元を照らしていたランプの火は相変わらず一定の光を周囲に放っていた。鮮やかな暖色の色彩を持つ高山の植物の花をモチーフにした細工は、壁にも淡く花の影を踊らせる。シュヴァーンは机の上にある茶菓子を小さな袋に納め、ランプを手に取った。
 引き出しに仕舞われていた懐中時計の針を、疲れた目を励ましながら追いかける。若き下級騎士だった時、幾度も欠伸を噛み殺した時間であると懐かしみ、一つ笑って立ち上がった。
 ランプを持って歩き出す。
 光は丸く蛍のような淡い光で王城の廊下を切り取った。影も柱の奥から光の動きを窺っている。一際濃い影の合間を人々は恐怖しながら渡るものだが、シュヴァーンにはそれがなかった。擦れ違う巡回の騎士達が驚くのを、シュヴァーンは穏やかに顰められた声色で労って通り過ぎて行った。
 地下を目指し牢獄に辿り着くと、その日に当直を命じられたシュヴァーン隊の騎士が起立して隊長を迎えた。立ち上がった事で僅かにざわめいた気配を鎮める様に、シュヴァーンは手で制した。
「ご苦労」
 シュヴァーンの短い声掛けに、若い騎士は高揚する気分を隠しきれないながらも無言で敬礼して応じた。
 騎士達には全く人気がなく暇で華も無い牢獄の監視は、実はシュヴァーン隊に限り人気の配置だった。この牢獄にはシュヴァーン隊の騎士が当直の日に限り、高確率で現れる常連がいたのだ。シュヴァーンはその常連に会いに来る。この滅多に戻らない隊長主席に一目でも会える機会は、尊敬のあまり崇めてすらいる彼等には願っても無いチャンスである。
 牢屋という所は当然だが犯罪を犯した者に反省を促す為にある場所だ。しかし、この常連は別に犯罪を犯した訳ではなく、ふらりと牢屋にやって来ては朝方ふらりと帰って行く。罪を犯しているという報告もなかった為、鍵も掛けられない。確かに怪しかったが、隊員達にしてはそんな常連よりも憧れの隊長に会える可能性の前に霞んでしまっていた。
 シュヴァーンは当直の騎士に菓子が入った袋を差し入れ、ランプを預ける。明かりを持たず真っ暗闇の牢獄を奥へ奥へと進み行った。罪人達の寝息が石壁に反射して、靴音よりも大きく響いている。指先すら蕩かす闇の中で、シュヴァーンは最も奥の牢獄の前で足を止めた。
「レイヴン」
 闇の奥で何かが身を捩る音でごそごそと鳴った。簡素なベッドの上で丸くなっているのは、紫の羽織を羽織った胡散臭いギルドの人間だという事をシュヴァーンは知っていた。ぼさぼさの頭髪を一つに結い、無精髭をだらし無く生やして眠そうな碧の瞳の男だ。
 眠っている他の罪人を起こさぬ様に抑えられた声だったが、この静寂の中では互いに良く聞こえる音量である。
「鍵は掛かっていないのだぞ」
 鉄格子に手を掛けると、油を注していない為に酷い音が立つ。その為にシュヴァーンは鉄格子に触れなかったが、中にいるレイヴンは出る様子も無く粗末な寝台が置かれた辺りから動かなかった。
「いいのいいの。そうしておいて」
 ひらひらと手を振ってでもいるのだろう。シュヴァーンはレイヴンの身振りを己の事の様に感じながら無言で牢屋の前に立っていた。
 何時からかレイヴンは王城の牢屋にいた。
 レイヴンはシュヴァーンとダミュロンが共同で演技して作られた存在だ。帝国騎士団隊長主席と評議会議員の肩書きを持つ互いが、王城で態々レイヴンで居る必要性はなかった。ただでさえ帝国の力が支配するこの大陸でギルドの人間は珍しく鬼の様に目立つ存在だ。
 初めてレイヴンが牢屋に入っていると聞いた時、シュヴァーンは我が耳を疑った程だ。アレクセイも二人の恩師の妻でさえ誰一人心当たりがないと口を揃えた。そして牢屋に居るレイヴンはダミュロンだという確信に驚きを滲ませて囁いた。何故?、と。レイヴンという存在を知る誰もが胸に憶測を浮かべては沈めたが、確かめる事が出来ないままレイヴンは牢屋の常連になっていくのだった。
 牢獄の闇は暗い。外では月や星の僅かな光で認める事の出来る物陰だが、光が一切届かないここでは世界から忘れられたように深く沈んでいる。シュヴァーンが預けたランプの光が星の様に遠い。夜目が利くシュヴァーンでさえ、若干の恐怖を抱く程だった。死の淵を覗き込んだ過去を持つ彼だったが、レイヴンのいるこの闇だけはそれ以上の様々なものが溶け込んでいるようだった。テムザでは強い風に吹き払われ忘れ去られるばかりのそれが、空気の淀んだここでは溜まる一方に感じられた。
「そこに立っていて、答えが見えるかい? 隊長さん」
 レイヴンが問いかけて来て、シュヴァーンはハッとなる。その反応を見て、闇の奥で笑う声が聞こえた。
「いい加減、寝ちゃいな。疲れてるってのに隊長さんが休まないで、倒れちゃあ皆が困っちゃうよ」
 声は恐ろしい程に優しかった。心の底からシュヴァーンを思いやる気持ちが感じられ、欠片も厄介払いしようとするような感情がない。
 その優しさに甘え引き下がっては、永久に何かに手が届かないとシュヴァーンは思っていた。その何かは、シュヴァーンには分からない。
 それはダミュロンがレイヴンになってまで牢屋に入る理由かもしれない。互いに機密に触れ過ぎて、悩み事を打ち明け合う事も出来なかった。距離的にはちょっと歩み寄れば触れられる距離であるのに、施錠されていない鉄格子等障害にもならないのに、シュヴァーンはダミュロンの横に歩み寄る事が出来なかった。何時来ても彼等の間にあるのは、溶けた飴のように重い粘り気のある空気だった。乗り越えた時、ダミュロンは不快のあまり拒絶するかもしれない。そう思わせる程で、シュヴァーンにはダミュロンの心の中に踏み込むような勇気を必要とさせた。牢屋の中で横たわるレイヴンが、最も脆弱でダミュロンが大事にしている何かの様に思えた。
「俺は君を心配してる」
 シュヴァーンが静かな声でそう言った。闇の奥で乾いた笑い声が上がると、返答は山彦の様に直ぐに返って来た。
「もう俺は子供じゃないよ隊長さん。自分の事は自分で何でも出来る」
「君が俺を心配した時も、俺は十分に大人だった」
 互いにであった時は騎士団に入団した頃だった。確かに互いに若かったが子供ではもうない。人魔戦争からシュヴァーンが帰って来た後、周囲の人間に多大な迷惑と心配を掛けたというのはシュヴァーン自身が良く分かっている。ダミュロンも評議会議員という立場を退けて心配したのも知っている。
 闇の奥から神妙な声が響いた。その響きはレイヴンのものではなかった。
「そうだったな」
 真摯で冷徹なまでの真面目さを持った議員、ダミュロンの声だ。
「本当に何でもないんだ。心配させてすまない」
 苦しそうに絞り出した声にシュヴァーンは聞こえた。耳を澄まさなくては、ダミュロンの声は直ぐさま牢屋の壁に吸い込まれてしまいそうだ。
 己以上に苦悩しているだろうダミュロンを想い、シュヴァーンは立ち続けた。レイヴンを演じるという事を止め、ダミュロン自身が居るそこに踏み込み事はしなかった。会話一つで互いの組織の機密事項が漏れるとなると、それぞれの悩みはそれぞれで自己完結しなくてはならなかった。
 何か出来る訳ではない。そんな事、誰よりも互いが良く分かっていた。
 すまない。
 そんな言葉が届きもせずに空気に溶ける。ダミュロンは牢屋に居続け、シュヴァーンは静かに立ち続ける。
 やがて外に日が昇り、牢屋に流れ込む空気が変わる。
 彼等はそれを積み重ねて行く。