白ノ菊

 ユーリ・ローウェルはレイヴンを探して、牢屋にやって来ていた。
 レイヴンは胡散臭くてやる気のないどうしようもないおっさんで、『天を射る矢』の首領の右腕だったりユニオンの幹部だったりする。そんなレイヴンの正体が、帝国騎士団隊長主席シュヴァーン・オルトレインだと知ったのは極最近。エステルを悪事に利用さて苦しめられているのを救おうとする、『凛々の明星』に立ちはだかった事で知った事実だった。
 『凛々の明星』はエステル救出に成功し、エアルで満ち甚大な被害が出た帝国の騒動は納まりつつある。帝国騎士団団長のアレクセイが叛旗を翻し、評議会も騎士団もそれぞれの利己主義を剥き出しにしていがみ合っている場合ではなくなった。そんな中、帝国騎士団で現在最も地位の高いシュヴァーンが姿を眩ませてしまったのだ。
 シュヴァーン隊の参謀は『戻って来るから心配要らない』と言い、隊長の不在に慣れきっている隊員も取り立てた不安はない。しかし他隊に属する騎士はそうではない。こんな時こそアレクセイに代わり、騎士団を指揮して貰いたいと思っているのだろう。結局ユーリはフレンに探して来て欲しいと頼まれたのだった。
 ユーリはエステルの件は別にして、シュヴァーンに礼を言わねばならなかったと思っていた。帝都でエアルが暴走し異常な植物が跋扈し、魔物が徘徊する有様を見て先ず思ったのは下町の安否だった。そして、ユーリは下町の人々が避難も叶わず無惨に魔物に襲われ、天を呪いたくなるような結末になっているという想像を拭い去る事は出来なかった。騎士団が地位の低いゴミの様に扱っている下町の人間を助けてくれるとは思わなかったのだ。心にべったりと擦り付けられた不安だったが、結果的にシュヴァーン隊が下町の人々を救ってくれたのだった。
 食堂の中ではしゃぎ回る子供達。懐かしい人々の変わらぬ笑顔。ユーリは崩れ落ちそうな程に安堵したものだった。
 牢屋の監視をしているのはシュヴァーン隊のオレンジの腕章をつけた騎士。彼は落ち着いた声で『ここは響くのでお静かに』と言い、ユーリは一つ頷いて先を進んだ。ユーリにレイヴンの居場所等分かる訳がない。確信はなかったが、ここはユーリとレイヴンが初めて出会った場所だったから来てみたのだ。
 見慣れた牢屋の突き当たり、一番奥まった牢屋にこれまた見慣れた紫の羽織が丸まっていた。とって付けた様に黒いボサボサ髪が見え、ユーリが来た事を察したのかひょこっと顔を上げた。だらしのない無精髭、眠そうな碧の瞳、胡散臭そうが服着て歩いているようなおっさんがそこに居た。
「何やってんだよ、おっさん」
「何って青年。寛いでるに決まってんじゃない」
 そう言って簡素なベッドでごろごろしてみせる。確かに言葉の通り寛いでいるようで、その顔は王城に居るべき正体の欠片も感じさせずに弛緩している。牢屋の鉄格子は開け放たれていたが、うっかり把手に手を掛けると耳の奥を引っ掻かれるような音が響いた。顔を顰めながらベッドの横に歩み寄るユーリを、レイヴンは不思議そうに見上げた。
「どったの、青年?」
 その問いをそのままそっくり、あんたに返してやりてぇぜ。ユーリは舌打ちしたい気持ちをぐっと堪えた。
 この男は誰かの上に立つ事をあまり好んでいないだろうと思うからだった。レイヴンはドンの隣に、シュヴァーンはアレクセイの隣に、彼は常に誰かの隣に居た。誰もが嫌がる仕事を生業とし、頂点に立つのは苦手で命令は嫌いで、理解するものは一握り居れば良いと思うだろう。どちらかと言うと、ユーリもそんなタイプの人間だったのでなんとなく理解出来てしまうのだった。
 礼を言いたい気持ちも飛んでどっかへ行ってしまった。このおっさんはレイヴンであって、シュヴァーンじゃないと思ったからだ。
 ユーリは石の上みたいで嫌いな寝台の脇にどかりと座り込む。寝台は低くユーリの長身も手伝って、レイヴンを見下ろすにはいたらなかった。
「王城の雰囲気は好きじゃなくてね」
 ふぅん。そんな風に唇を尖らすと、レイヴンは寝苦しそうに仰向けになった。ユーリも寝台の上は寝苦し過ぎて、数分も同じ姿勢では辛いと思う程だった。
 互いに何も言葉を交わす事なく過ごしていると、この牢獄も思った以上に賑やかしい場所だと思う。騎士の号令や馬の鳴き声が聞こえたかと思うと、侍女達の他愛無い井戸端会議の声も聞こえて来る。評議員の議員達が難しそうな話題を話しながら足早に歩く音が過ぎれば、いつまで絶っても動かない程に緩慢な交渉を続ける貴族達の声も聞こえる。
 夜中になれば恐ろしい程の無音が包み込む牢屋だったが、以外に面白い場所だったんだなと改めて思う。昼間も当然聞こえていたのだろうが、牢屋に放り込まれている時は下町の心配で頭がいっぱいだったのだろう。ユーリには馴染み深い牢屋であったのに、記憶に穴が開いてるかの様に何も覚えていなかったのだ。
「ここに寝てると色々考えさせられるわ」
 頭の下で手を組んで枕代わりにしているのだろう。レイヴンは暗い天井を見ながらぽつりと呟いた。
 確かに物事を考えるには良い場所かもしれない。反省を促す場所な訳だし。ユーリはそう内心で答えておきながら、自分は全く反省なんかしなかったけどなと付け加えた。
「早く、気が付いてやりたかった」
 細められた碧の瞳に差し込んだ硬質な光は、息を呑む程の真剣味を帯びていた。その時、ユーリは目の前の男が一瞬だけでもレイヴンである事を止めて、シュヴァーンに戻っていた事を察した。
 ユーリはレイヴンの言葉を、アレクセイの反逆を察せられなかったシュヴァーンの後悔だと受け取った。
 しかし、ユーリはこの牢屋に居たレイヴンの事を知らない。シュヴァーンが見つめていた闇の向こうにいた存在は、この牢屋で何を想い入っていたのか知る由もない。シュヴァーンは初めてダミュロンと同じ様にここに居て、彼の気持ちに気が付いてやれたのだ。
 世界が己を必要としている。それに応じて何が始まるのかが見える。それを成し遂げて何が失われるか判る。
 剣で他者を傷つける事は、己の殺意があって行われ責任は己にある。しかしダミュロンは違い、手にしているのは剣ではなく法なのだ。彼が他の議員達に命じられて整えられて行く法には殺意はなく、その法に裁かれ死ぬ責任はダミュロンにはない。彼は誰にも裁かれなかった。間違っている事なのに、誰も止めない。誰も顧みない。
 ユーリが見入る瞳は不意に閉じられ、レイヴンは大欠伸をした。
 そのままごろんと横を向いたレイヴンを見ながら、ユーリはあの寝苦しい寝台に良く寝てられると呆れた。