胸を衝く被写体

 ガルバンソ国が抱える騎士団の勇壮さは他国にも知れ渡る程である。中でも十年前に勃発した凶暴化した魔物と人間の大規模な戦いの総称である人魔戦争は、騎士団が多大な犠牲を払い戦争終結と平和を齎した。
 人魔戦争の生還者は殆ど存在しないものの、数少ない生存者で最も有名なのがシュヴァーン・オルトレインである。彼は騎士団に在籍する唯一の生還者であり、騎士団隊長主席という団長に次いだ地位を拝命している。騎士団では初となる平民出身の隊長であり、その人徳は英傑と称され周辺国にまで知れ渡っている。そんなシュヴァーン・オルトレインの肖像画を描いて欲しいと、カノンノに依頼がやって来たのは数日前の事だった。
 依頼の差出人はエステルの愛称でアドリビトムのメンバーに親しまれる、エステリーゼ・シデス・ヒュラッセインだ。空色のドレスに結い上げられた髪、ぴんと伸びた背筋は正にお姫様。画材をトランクに詰めてやって来たカノンノは、場違いじゃないかと赤面した。しかしエステリーゼはアドリビトムで見た時と変わらぬ笑顔で迎えた。
「お久しぶりです、カノンノ」
「エステルも元気そうだね」
 にこりと微笑む2人だが、カノンノには既に疲労の表情が滲んでいた。ガルバンゾ国は騎士団の力が強く、ギルドの勢力が及ばない地域であるからだ。今ではギルドと帝国の間で調停が組まれ、以前に比べ和解されたと言われているが全てが払拭された訳ではない。敵愾心に戦士としてのカノンノの精神が疲れてしまっていたのだ。
 その気疲れを察知したエステリーゼは、気遣う様に訊ねた。
「依頼の話は少し休んでからにしましょうか?」
「大丈夫! 全然平気だよ!」
 そう言いながら、指先を滑らせてトランクがごとりと床に落下してしまうのだった。その様子にくすくすと笑いながら、エステリーゼは空中庭園といえる素晴らしい庭に案内した。上品な給仕が入れてくれた紅茶は香り高く、僅かに果物の爽やかな香りが鼻先に留まる。穏やかな日差しに映し出される新緑と蝶が舞う様を眺めていると、カノンノは両親が居た日々が思い起こされる。
 細められた瞳に安堵が宿るのを見ると、エステリーゼは優しく依頼内容を話し始めた。
「元々この依頼は、私というよりも団長のアレクセイの希望なんです」
 驚く間もなく、エステリーゼの口から驚愕の事実が告げられて行く。
 平民出身の騎士であり戦争の英雄の一人であるシュヴァーンは、今までの貴族の常識から考えれば非常に変わり者である。貴族からでも騎士団内からでもひっきりなしに届く恋文は、片っ端から丁重なお断り。生真面目で仕事熱心で、過去を誇ったり奢ったりする事も無く部下の事ばかり気に掛ける。実力は言うに及ばず。騎士としては絵に描いたような素晴らしい逸材だが、その為に困る事があった。
 彼は記録に残る事を拒絶する傾向にあった。小説家に憧れるエステリーゼも幾度も彼の英雄譚を訊きたいと頼んだが、上手くはぐらかされてしまうのだ。それは、一個人の事なので問題にはならない。今回の問題は公に残る肖像画の被写体も拒否する事にあった。
「騎士団では、栄誉ある騎士は肖像画として描かれる事になっています。そうでなくとも、シュヴァーンは団長に次ぐ地位の隊長主席。歴代の団長と隊長主席は肖像画が残っているのに、彼だけ描かれないのでは困るとアレクセイが困り果てているのです」
 絵師が王宮に招かれる事はシュヴァーンには極秘であったのに、いつの間にか察知されて遠方の砦に遠征に行ってしまうそうだ。そんな言葉を聞いて、カノンノはアドリビトムで一時期共に行動したレイヴンと言う男を思い浮かべた。彼も絵に描かれる事を嫌って、追いかけっこしていたっけ…と。
 しかし、そんな過去を思い出している場合ではなかった。
 王宮に飾られる騎士様の絵なんて、私が描ける訳が無いとカノンノは心の中で絶叫した。王宮に招かれる絵師と比較されたら、カノンノの絵の技量等幼児の飯事のようなものだ。王宮の美術品と呼べる絵の中に、自分の絵が見窄らしく飾られている光景を思い浮かべカノンノは穴があったら入りたい程の恥ずかしさに胸が締め付けられそうだ。
「エステル…やっぱりこの話…」
 断っても良いだろうか。そうカノンノが訊ねようとした時、エステリーゼが『あっ』と声なき声を上げた。そのままカノンノは手袋に包まれた細い指の指し示す方向に視線を向けた。
 日の光に満たされた庭からは薄暗く感じる廊下に、フレンの金髪が先ず見えた。相変わらず真面目さを絵に描いたようなユーリ・ローウェルの幼馴染みに気が付けば、カノンノが見た事もない羨望の眼差しで瞳が輝いているのに気が付いた。視線の先にオレンジ色の隊長服に身を包んだ黒髪の男性の背中が見えた。白い手袋の指先はその背を示していた。
「彼がシュヴァーンです」
 そうエステリーゼに囁かれて、カノンノはその瞳に力強いものが宿った。今までの逃げ腰の姿勢が嘘のようだ。
 彼女等が腰掛けている場所は死角になるのか、彼等は気づく事なく庭園に降りて来る。馬に乗った英雄の石像に地図らしき大型の紙を押し当てて、走り書きするとそれをフレンに手渡して言葉を交わす。真剣なフレンの顔を見れば作戦の事なのかもしれない。その間に廊下から騎士達が何人も通り、シュヴァーンに会釈して通り過ぎて行く。中には貴族なのか自尊心が高そうで見下した態度が見える者もいたが、黒髪の下に見える口元は引き締まっていても気配が揺らぐ事はない。
 まるで大きな樹みたい。カノンノは心の中で呟いたつもりだった。その瞬間、黒髪がすっとこちらを向いた。既視感を感じる碧の瞳がカノンノを捉えた。
「あ」
 フレンはアドリビトムで共に行動したカノンノの姿を認め、声に出さずとも眩しい笑顔で敬礼してみせる。シュヴァーンもフレンよりも優雅で洗練された敬礼をした。
 白い大理石の石像の前で、赤々と炎の様に鮮烈なオレンジ色。長剣に変形弓に短刀と武器が賑やかしいのに、統率し洗練された敬礼。どこか懐かしく、酷く優しい黒髪と色黒い肌の中で輝く碧の瞳。それらを包む美しい新緑の庭園。カノンノは素晴らしい絵の前に立たされているような気がした。
 描きたい。そんな気持ちが胸を強く衝いた。
 柔らかい芝生を踏む音が遠くにあるようだ。カノンノの中には音はなく、ただ目の前の男性が見上げる程に近くなって来る。いつの間にか、カノンノは口を開いていた。
「私はカノンノ・グラスバレーと言います」
 自己紹介ももどかしい。カノンノは逸る気持ちを抑えきれず、響く声で宣言した。
「私に貴方の絵を描かせて下さい」
 カノンノの言葉にシュヴァーンは微笑みを浮かべた。
 何かを思い出すようで、その思い出が大事にされていると分かるような、そんな笑みだった。