紙面に載るべき想い

 エステリーゼの依頼を快諾したカノンノの周囲は、瞬く間に整って行った。騎士団団長のアレクセイ・ディノイアは見上げる程の偉丈夫だったが、必要な画材は直ぐに用意すると言い騎士団への滞在を二つ返事で認めた。ギルドでの実力があった為に騎士が危険と判断しなければ、シュヴァーンに随行する権利まで与えられた。王宮の客間を宛てがわれるのだけはお断りして、団長の秘書官の女性があまり使っていない屋敷の離れを借りる事になった。なぜ団長の秘書官なのか疑問に思ったが、王国に留まっている日数が安定しているからとか業務的な事でカノンノが理解する必要は良いと団長はそっけなく言った。
 またカノンノがシュヴァーンの肖像画を描く事になった時、最も喜びを感情に表したのは部下であるシュヴァーン隊であった。彼等はカノンノが描き易い様に椅子を用意したり、時には席を譲ったりする。時折、捨てるつもりのデッサンを欲しがられたりして困るカノンノの後ろから、隊長自ら咳払いする場面すらあった。
 エステリーゼやフレン、アスベルやリタ等、馴染みの顔も多くカノンノの王宮暮らしは快適そのものだった。
 絵を描き出すまでは。
 今ではカノンノはすっかり参っていた。スランプが来たのかと錯覚する程に。
 最早、何十枚と描いたスケッチは、部屋の隅に崩れそうなくらい積み重なっていた。複雑な構造の隊長服の模様すら暗記し、シュヴァーン隊の隊員ですら隊長そっくりと驚かれるのにカノンノは納得出来なかった。何かが足りないのだ。今まで夢の中で見た風景を描き、戦線を共にして来た仲間達を描いたカノンノには、その何かが見つからない。
 真っ白なキャンバスの布地は、でこぼことした均一な凹凸が端麗な陰影を描いている。未だ真っ白で憂鬱だったが、仮に思い切って筆を走らせて描いても納得等出来はしない。スケッチブックの安物の画用紙では許せるものが、こんな上等なキャンバスに許されるとは思わなかった。
 ここまで絵画の事に思い悩んだ事なんて、カノンノにはなかった。
 絵は彼女の趣味であり、彼女が楽しそうに絵を描く様を周囲は温かく見つめていた。幼い頃から面倒を見てくれたロックスは、定期的に画材を購入してくれていた。両親が亡くなった時に責めるあまり自分の全部が嫌いだった気持ちを、絵はゆっくりと癒してくれた。
 ただ好きだった。絵を描く事が。夢を形にする事が。深く溜息を零し、指先に持った鉛筆がことんと床板を叩いた。
 それとほぼ同時に扉がノックされて、カノンノは飛び上がった。普段は誰もいない家だったが、今は団長の秘書官であるクロームという女性が居る事を思い出した。カノンノは飛び出しそうな心臓を抑えながら待たせてはいけないと急く様に答えた。
「は、はい! どうぞ!」
 失礼と短く上品に応えて入って来たクロームは、アドリビトムで共に行動したジュディスと同じ種族だった。すらりとした長身と同じくらいの風変わりな触角。バランスの取れたしなやかな肢体と格調高いスーツ。ジュディスより落ち着いていたが上品でありながら大輪の花を思わせる美しさを感じさせる。ジュディスに比べれば色の黒い手の上には銀色の盆があり、紅茶とケーキが載せられていた。
 足の踏み場もない程に部屋が画材で散乱しているのに、カノンノは今更ながらに赤面する。クロームが気にもしない様子が逆にカノンノの恥ずかしさを助長してしまうのだが、秘書官はそれも気に留めなかった。
 小さい画材を置く専用になっていたテーブルの上から、スケッチした紙束を下げるとクロームが微笑みに満たない程度に表情を和らげて盆を置いた。真っ白なクリームが眩しい、赤い瑞々しい苺がふんだんに載せられたショートケーキだ。カットした断面のスポンジには果肉が混ぜてあるのか、ほんのり苺の果肉とピンク色を帯びている。間に挟まれたスライスされた苺の断面は美しい模様のように組まれ、白と赤のコントラストが幾何学模様のようだった。
 こんな高そうなケーキ、いったい誰の差し入れなのだろう。カノンノが歓声を上げるよりも早く、そんな疑問に首を傾げた。その疑問を察する様に、クロームの落ち着いた声が答えた。
「これはシュヴァーンからの差し入れです。貴方へ詫びの言葉も預かっています」
「え?」
 カノンノは今度こそ疑問が声色になって、クロームを見上げた。
 冷静沈着で表情が揺らぐ事があまりないクロームだったが、苦笑と取るべき表情でカノンノを見た。
「シュヴァーンが絵を描かれる事を避けているのは、知っていますね?」
「はい」
「しかし、不思議には思いませんでしたか? 彼は隊長主席ですが、位の高い団長の命令には従わなければならぬ立場です。団長のアレクセイが一言『肖像画を描かれて来い』と命令すれば済む事です」
 確か、エステルはアレクセイ団長が困り果てていたと言っていた。しかし、クロームの言葉はそのアレクセイが命令しない為に、困っているという今の結果になっているという事になる。カノンノには素朴な疑問として、ぽんと考えの真ん中に『何故、命令しないのか』と言葉が浮かんだ。
「人魔戦争は本当に酷い戦争でした。参加した様々な者が帰らず、集結した後も悲惨さは残りました」
 クロームの言葉にカノンノが顔を上げると、クロームは窓際へ視線を向けていて表情が髪に隠れてしまっていた。口調は変わらぬ冷静さに冷えていたが、カノンノは語るだけでは滲む事のない複雑な感情が冷やされて沈んでいる事を感じていた。それは芸術家の勘みたいなものだった。
 カノンノも戦争を知っている。両親が死んだ時の空の色、雲の形、土の匂い、空気に漂う様々な温度。そして風の強さが容赦なく耳に叩き付ける轟音。今では自分も剣を片手に魔物と戦える程に強くなった。そんな今でも震えが止まらない事がある。風が止んだ刹那に飛び込んで来る、重傷者の苦悶の声、殺される者の断末魔、殺す者の悲鳴、そして死者から流れる静寂。満ちる血の匂い、鉄の交わる匂い、剥き出して魔法に焼かれた土の匂い、死の匂い。腕に抱いた他人の体温が急激に下がる様に、カノンノが慣れる事はない。
「シュヴァーンが貴方に『俺みたいに面白くも無い人間を描かせてしまってすまない』と、ケーキを焼いてきましたからね」
 カノンノが意味が良く理解出来ず顔を上げると、クロームが美味しゅうございましたよと澄ました顔で呟いた。
 目の前のケーキはとても美味しそうだ。アドリビトムでは味に煩い甘党がそれはもう多く存在したが、こんな美味しそうなケーキを見た事がない。きっとユーリとリオンで最後の一切れを取り合って喧嘩が始まってしまいそうじゃないか。そんなケーキをシュヴァーン隊長が私の為に焼いてくれたなんて…。
「不器用でごめんなさいね」
 聞き違いか疑う程で、クロームを見たカノンノはそのまま上を見上げた。クロームは美しい姿勢で既に立ち上がっており、扉へ向かって歩き出していた。
「無理なら断って大丈夫ですから」
 聞き慣れた感情のあまりない冷静な言葉が、扉が閉まる音が響く前に部屋に置き去りにされた。遠くで階段を下りる音と玄関が開いて閉じられる音が聞こえた。カノンノはようやく一人になった事に気が付いて、扉からショートケーキと紅茶に視線を戻した。
 受けた依頼はちゃんと遂行する。ギルドのプライドとして、最後の言葉に『はい』と答える訳にはいかなかった。
 不器用でごめんなさいね。
 誰が不器用だったんだろう。クロームさん? 団長のアレクセイさん? それともシュヴァーン隊長? 次々と思い浮かべて考えたが、彼等を知らな過ぎるカノンノには答えが見つからなかった。しかし、この世界には残念ながら器用な人間は居なかった。優しく励ます事が出来ず労りのつもりで、依頼を放棄する事を提案したクローム。命令できず思い悩むアレクセイ。義理のつもりなのか被写体になっておきながら、謝罪するシュヴァーン。何処かで誰かしら不器用だった。
 心の中では靄が掛かったようだったが、カノンノは少し心が軽くなった気がした。
 そっと銀色のフォークを手にショートケーキを切る。口に入れた瞬間、淡い雪のようなミルクと、甘酸っぱい苺の甘さと香りが弾けるように広がった。
「美味しい」
 呟いて徐々に上気していく頬が、いつの間にか苺の様に赤くなっていた。
 ギルドから離れて久々に触れた優しさに、カノンノの瞳には無数の星を映す湖のような輝きが満ちている。