寄り添いし我らの星

 アシェットがシュヴァーン隊に配属が決定した瞬間、希望のあまり目が眩んだ。目紛しく突き抜ける期待は、目を灼き血が沸騰し心臓が破ける程にまで高まった。平民にとって、シュヴァーン隊に所属する事は名誉な事だった。故郷に帰れば英雄扱いだ。
 それは人魔戦争の英雄にして騎士団団長に次いでの地位にある隊長主席、シュヴァーン・オルトレインの存在の為である。彼の存在は貴族中心の世界で、実力があれば平民であれ出世が出来る事を証明したのだ。結界魔導器の不具合等から大きな町でも滅ぶ事もあり、出身地は重要視されなかったが貴族と平民という格差は付きまとう。帝国の統治下に暮らす平民は貴族に搾取されるばかりだった。そんな中で平民初の快挙を成し遂げたシュヴァーン・オルトレインは正しく平民の希望の代名詞だった。
 他隊に配属を決めた平民の同期は、シュヴァーン隊に選ばれなかった事に多少の落胆を窺わせる。脱退し騎士団とは袂を分かったユーリでさえ、滅多に見せぬ羨望を滲ませた。今では平民も実力があれば騎士になれる時代だったが、平民にとってそれだけシュヴァーン隊は特別だったのだ。
 期待が大きかった分、現実は厳しかった。
 見習いの時から有名だった外回りの任務の多いシュヴァーン隊。そして任務の為に滅多に帝都に戻って来ない隊長。アシェットを始め平民出身の新人騎士は、剣を捧げるべきシュヴァーン隊長に未だに会う事が出来ない事を酷く残念がった。
 団長の懐刀と呼ばれる隊長なのだから、こんな下っ端に会う暇も無いのだろうと健気に互いの心に言い聞かせていた。それでも剣を捧げ、命すら賭けると誓う対象に一目も会わないのかと呪ってしまいたくなる。声にはしないが、それは先輩にあたる平民騎士達は良く分かってくれていた。
 そんなアシェットはもう見習いではない。小隊長から一人の騎士として任務を与えられる程度の経験を積んだ騎士だ。彼が過去を振り返るのは、一際夜空の星が輝いていたからだ。
 空気が冷えて澄んでいるんだ。
 口の中だけでそう呟いて、唇から流れた吐息が白くなって吹き払われるのを見送る。深夜の巡回を任されたアシェットの頭上には、雪と見紛う程で宝石を砕いたような素晴らしい星々が瞬いている。結界魔導器にすら霞む事のない星は珍しい。特に凛々の明星と並び目印になる輝星が燦然と光っている。
 『隊長は俺達の星なんだよ』
 そんな事を唐突に小隊長に言われた。
 小隊長はそのまま、アシェットが今見上げている一際光る輝星を指差して続けた。
 『星図の見方は学習したな。輝星は常に同じ場所を巡り続ける。時刻、自分達の位置、他の星の位置と比べれば月日まで計算出来る。遠征時には必要不可欠な星だ』
 知っています。隊長。アシェットはそう返した。
 外回りだけではなく遠征も多いシュヴァーン隊は、遠征時の知識を叩き込まれる。シュヴァーン隊結成時から所属するルブラン小隊長率いる小隊は、世界地図に記されている場所で行けぬ所は無いと称される程だった。騎士としての武術も然る事ながら、馬術や野営、時には操船技術まで必要とされる。
 小隊長は苦笑した。昔、落馬した衝撃で擦って抉れたとされる左頬の、無精髭すら生えないつるりとした面が光で縁取られたようにアシェットには見えた。
 『曇っていても何処にあるか、大凡見当がつくだろう?』
 毅然とし過ぎて冷淡にすら見て取れる事にも気が付かず、アシェットは再び『はい』と答えた。
 『俺達の隊長もそうなんだ』
 アシェットが理解出来ない様子を、小隊長は可笑しそうに見ていた。
 『お前も、俺達の隊長に会えば分かるよ』
 その時は意味が分からな過ぎて反応出来なかったアシェットだったが、その後に幾度かシュヴァーン隊長を見かける機会があっても理解出来なかった。小隊長に昇格したというフレンはきっと、彼が剣を捧げた直接の上官であるアレクセイと会話位は交わした事だろう。だが、アシェットは未だにシュヴァーン隊長と会話した事もない。小隊長も大した会話なんかできないと笑うくらい、シュヴァーン隊長は隊員と過ごす時間が短かった。
 鋭利さを伴う冷気を含んだ風に頬を叩かれて、アシェットは顔を顰めた。見張り用の塔から周囲を見遣り、不振な影が見えないのを確認する。例え町に明かりが無くとも結界魔導器の僅かな明かりは、暗闇に慣らした目には十分な光量だった。耳を澄ませば家から寝息が聞こえる程に静まり返り喧噪はないようだ。今夜も平和な事を確認してアシェットは息と共に緊張も吐き出した。
 残りの経路を巡回して当直者の詰め所に戻る頃には、奥歯が噛み合ない程に冷えていた。巡回はただ歩くだけで体が温まらないどころか、今日のような冷える日は容赦なく体温を奪っていくからだ。
 今日当直を任されたもう一人の騎士は仮眠から上がっていないのだろう。そう思って開けた誰もいない筈の詰め所の扉の奥には、一人の騎士が座っていた。
 驚きはしたが寒さに凍えて、アシェットは掠れた声が喉から頼りなく漏れたのを聞いた。かなり情けない音だったので、詰め所にある小さい暖炉にの薪に爆ぜろとか、掛かった薬缶の湯が湧く音に響けと念じた。先客の騎士は、そんなアシェットの心配を他所に淡々と言った。
「ご苦労」
 明るさや気安さはないが、眠そうなくらいに落ち着いた声色だった。表情も無表情な程に動かない。その一声でアシェットは驚きが落ち着いているのに気が付いた。
 騎士は遠征に用いる丈夫な防水防寒マントに包まるように羽織っていたが、マントの影からオレンジ色を認めてシュヴァーン隊に所属する騎士だと分かった。シュヴァーン隊は多くの小隊が存在するが、それぞれが帝都外の任務を任されている。数年在籍しても初めて会う顔というのは少なく無い。諜報部になれば私服で騎士団の詰め所にいる事も多いので、シュヴァーン隊の詰め所は酷く混沌としていた。
 肩に掛かる程の長さの髪を無造作に下ろしている為に、顔の左半分に掛かる黒髪が闇よりも黒い。その奥にある碧色の瞳が、瞳らしい感情を押し殺して宝石のように光った。熟練の騎士が持つ重厚な存在感は、幾度か目の前を通り過ぎたアレクセイに匹敵するものをアシェットに感じさせた。
 先客の騎士は先程と変わらない声色で言った。抑えられている声は、きっと仮眠中の同僚を気遣っているのだろうとアシェットは察した。
「外は寒いか?」
「はい、とても」
 そうは答えたが、愚問もいい所だった。深夜でこれ程澄んだ夜空なら、どんな気温かはシュヴァーン隊なら誰でも分かる筈だ。内心、これ程の騎士のくせにと笑ったアシェットだった。
 しかし、騎士の足下には遠征用の荷物がまとめられていた。大きめの荷は馬に括り付ける食料か何かだろう。これから遠くへ出掛ける事を察し、外の寒さが億劫なのだろうと思った。そんな事を億劫がるのはこの騎士がまだ任務に就く前の休息の時間を過ごしているからなのだろう。
「これから出立ですか?」
 そうだと短く答えて、騎士は薬缶に掛かった湯で飲み物を入れ始めた。体が温まるようにと生姜と幾つかの薬草を煎じたお茶は、思ったよりも甘く空間に広がった。騎士が用意したコップをアシェットに差し出した。
 礼を言いながら受け取って慎重に啜る。沸騰した湯で入れたせいか、普段は吹き出す程不味いのに飲める程度になっている。どうやら騎士はこの茶に僅かに蜂蜜を入れたのだろう。味がまろやかになっている。温かいものが体の中に入ってようやく一息ついたアシェットは、目の前の先輩だろう騎士をじっと見た。騎士は気が付いた振りもせず両手で先程の茶を入れた水筒を見ている。金属製の水筒が湯たんぽのようで温かいのだろう。
 なんとなく、アシェットは目の前の騎士ならシュヴァーン隊長に会った事があるだろうと思った。出発直前の集中力を高めているのか、それとも任務の行動を思索している騎士の行動を妨げる行為だが、聞けそうな雰囲気だった。アシェットは感情はあまりに出さないが彼は優しいだろうと思ったのだ。
「シュヴァーン隊長は星みたいな人なんですか?」
 問いに騎士は眠そうに垂れた目を大きく開いた。驚いているのだろう。そして言った。
「そうなのか?」
 聞きたいのはこっちなのだが、と言い返したくなったアシェットだったが、騎士は黙り込んで深く考え出した。口元に右手を添えて、斜に視線を落とす。アシェットの属する隊の小隊長が言った言葉だったのだから、小隊長と同じくらいの地位にありそうな騎士が知らない訳がないと思ったが、どうやらこの騎士は知らなかったようだ。
 シュヴァーン隊長に会った者は皆が達する見解らしかったが、そうとは限らないのかもしれない。アシェットはそんな風に思っている間に、騎士は思考を終えたのか再び視線を合わせてきた。
「そうなのかもしれないな」
 納得したような、感心したような、心の底から出たような感情の籠った声だった。表情は相変わらず変わらない。しかし、もしこの騎士を良く知る者が見たならば、それは珍しい『感動』が滲み出ていると驚いた事だろう。
「騎士らしく無いとは散々聞いたが、星は初耳だ。君等には何時も驚かされる」
「え?」
 騎士は徐に立ち上がる。見上げるアシェットの先には先程の感情はなく、厳しい任務に就く者の顔だけがあった。碧の瞳に僅かだけ優しい感情が宿って光るが、口では何も告げずに体は扉に向かっていく。扉を開ける為に伸ばされた腕には、何時の間にか篭手が装着されていた。黄金色に光っている。
 暖炉の暖色系の光にそう見えた。そう解釈する事は容易かったが、アシェットは分かった。あの人が、シュヴァーン隊長。憧れる人。
 扉が開き、そして閉じられる音は恥ずかしさを跳ね上げる音に似ていた。憧れのシュヴァーン隊長と話したという感動と、その本人にした質問の内容がぐるぐるとアシェットの頭の中を回る。赤面して、ずるずると机に臥せってしまう。体が酷く脱力して弛緩しているのを感じた。
 星は唐突に己の真横に落ちては来ない。
 だが、隊長は確かに我々の星なのだろう。星座を構成する星の名前を確かめるように、アシェットの中で様々な事が確信に変わっていく。ぐるぐると己の感情が星を隠す雲のように、その確信を濁したり乱したりした。
 仮眠から上がってきた同僚に声を掛けられた時には、いつの間にか茶は温くなってしまっていた。