濃色ノ菊

 本日の王城で最も賑やかしい場所となったのは、賑やかとは最も縁遠い牢獄だった。何時もなら囚人と看守の当番に当たる騎士しか居ない空間に、本日は大勢の評議員が詰めかけていた。殆どの評議員が足も踏み入れた事もない汚らしい場所だと悪態と皮肉を口にしながらなので、牢獄は何時にも増して居心地の悪い空間になった。
 湿気に濡れた石畳に、滑り易い洒落た靴底でやってきて滑り腰を強打する者。貴族意識丸出して囚人を挑発し、逆に威嚇され返されて驚いて数人を巻き込んで倒れる者。元凶を怒鳴り散らし興奮するあまり、失神する者。取り立てて理由があって居る者が極僅かとあって、迷惑も甚だしい面々であった。
 そんな評議員達を宥めて追い出して落ち着いたのは、騒動が始まって半日以上過ぎ去った頃合いだった。空気が一段と冷えて夕方だと認識する頃である。何時もの静けさを取り戻した牢獄には、気苦労に何時もより疲弊した囚人と、先程まで事の顛末を人伝に聞いた興奮を冷ましている交替したばかりの騎士、そして最も奥まった牢獄の前に立っている帝国騎士団隊長主席シュヴァーン・オルトレインが居るだけだった。
 湿気が空気のように淀んで黒々と滑る石畳も、錆が酷いのに打ち破る事の出来ない無情な鉄格子も何時もの微睡むような沈黙の中。囚人達も今日は散々だったと、夕日が僅かに射る天井を見上げて思っている事だろう。
 時刻は異なるが、牢獄の平凡で良くある風景がそこにある。
 普段と違うのは牢獄に入っている人物の姿だろう。
「落ち着くなぁ」
 すっかりリラックスした面持ちの男性は、牢獄の中の見窄らしいベッドに横になってそう言った。緑の瞳に後ろに流した黒髪と、上質な素材で出来た評議員を示す装束に身を包んでいる。評議院議員ダミュロン・アトマイスは上機嫌で鉄格子越しに立って呆れている男に言った。
「もう、ここは俺の部屋って表札付けようかなぁ」
 そう語りかけられたシュヴァーンは、呆れてものも言えないように息を吐いた。
 発端はダミュロンが牢獄に入っていた事だった。ダミュロンは特に刑罰を受ける立場には無いし、何の罪もない。『レイヴン』が牢獄に入っていた時のように、特に鍵も掛けず最も奥まった牢獄に入っていた。問題だったのは今回は『レイヴン』ではなくダミュロンが牢獄に入っていた事だろう。幸い看守の担当となったのはシュヴァーン隊の騎士であり、その事は直ぐに隊長であるシュヴァーンの耳に入った。
 その時点で出てくれれば何ら問題は無かったが、評議会議員の耳に入ってしまえばもう遅い。
 何故罪も無い人間が入っているのか。何故評議会議員の人間が入っているのか。何故出て来ない。牢獄は不衛生極まり無い。本人の希望等どうでも良いから力づくで…。いえ、暴力行為は犯罪です。早く出て来い。嫌です。
 押し問答で数時間以上。シュヴァーンに貴様の責任だと言い捨てられて退場頂くまで、長い長い時間であったと振り返る。
「本当に…ここが一番落ち着く」
 寝返りを打って仰向けになる。和らいだ雰囲気に本当に落ち着いているのだなと、シュヴァーンは苦笑した。
 暫くして、空耳かという程小さな声でダミュロンが呟いた。
 牢獄の静寂が無ければ絶対に聞き逃す程に小さい囁きに、シュヴァーンがダミュロンを見遣る。緑の瞳は非常に真剣にシュヴァーンを見ていた。
「罪も無い…本当にそうなのか? シュヴァーン」
 ダミュロンが暗に言おうとしている事は、シュヴァーンには良く理解出来ていた。恐喝や汚職や賄賂であったり、搾取して贅を貪り法という暴力で民を苦しめた評議会という組織。彼等と真っ向から対立する立場である騎士団であり、その矢面に立っていた前団長アレクセイの横から見ればダミュロンの言葉の痛切さは殊更に理解出来た。
 この牢獄に押し寄せた評議会議員達の顔に、浮かんだ汗。あれは冷や汗なのだろうと、シュヴァーンは判っていた。評議会議員の一人が罪を認めてしまえば、芋蔓式に自分達の罪が暴かれてしまう事を危惧しているのだ。我が身可愛さから出る言葉は、どこぞの青年なら吐き気がすると言い捨てる事だろう。
「罪の無い人間は居ないさ」
 シュヴァーンは短く消えそうな声で答えた。
 罪悪感の重さを問うならば、シュヴァーンは体が挫滅する想いだった。人魔戦争で直面した絶望、多くの死者と行方不明者を出した結果と唯一の生き残りとして英雄とされた経緯、どれだけ謝罪を口にしても決して取り戻せない。全てがシュヴァーンの責任では当然なかったが、それを理由に無視するには凄惨過ぎた。
「俺はラゴウ殿が本当に羨ましかった。あの人は評議員の中にあった一握りの正義だった」
 ラゴウという執政官は、カプワ・ノールで悪政の限りを尽くした元評議会議員だった。ダングレストでとある過激派ギルドと共謀する等で、更迭後には執政官時代から更に評議会議員時代まで遡り裁かれる筈だった。しかし彼は運悪く通り魔に斬られ、ダングレストの橋から転落し、出血多量で死亡した。結局、罪を裁く前に死亡という決定が下されてラゴウの存在は闇に葬られた。
 この事に最も歓喜したのは、憎しみのあまり斬り殺された事に喜ぶ住人ではない。
 最も喜び安堵したのは、汚職に塗れた評議会議員達であった。ラゴウの死は未だに影を落とし、評議会の内部に騎士団が踏み込めない現状を齎している。
 ラゴウは評議会議員歴は比較的長い人間だった。そのまま帝都に留まれば、副議会長の座にまで上り詰める事が出来るだろう人材だった。そんな人物が帝都から出て辺境とはいえ、平民にまで露見するようなあからさまな悪政をするだろうか。答えは、いいえだ。賢い議員程、保身が強く隠蔽が上手い。逆に隠蔽が下手な議員程出世は出来ないし、地方の主権を与えられる事は無い。評議会議員達は非常に狡猾なのだ。
 ダミュロンでさえ、隠蔽は非常に上手いからこそ帝都外に派遣されていたのだ。若さや武術の心得があっても、第一に組織の為の隠し事が行える人材かどうかが必須条件だった。
 アレクセイはラゴウの死に哀悼の言葉すら述べた。それは、彼が帝都から出て行った何もかもが、評議会の悪を公にする為に綿密に練られた演技であると評価したからだった。誰だか知らない一般市民によって水泡と化したが、評議会議員としては例外といえる騎士団長からの公式の言葉を寄せられたのだった。
「俺は…あの人のようにはなれない」
 ダミュロンは静かに瞳を閉じた。静寂が包む中、シュヴァーンが呟いた。
「ヨーデル殿下が改革に着手すると明言している。評議会が皇帝に情報を隠蔽する権限はない」
 耳の内側を爪で掻かれるように耳障りな音を鉄格子が立てる。ダミュロンが目を開くと、シュヴァーンが鉄格子に手を掛けていた。そして、低いながらに良く響く声で言った。 
「牢獄で反省して罪を償っていたいなら、仕事がきっちり終わった後にしてくれないか?」
 ダミュロンは緑の瞳を真ん丸く見開いた。あんぐりと口も開けて、正に阿呆な面構えだったろう。
「………ぷっ」
 吹き出すと、体を痙攣させるように笑いを必死で堪える。引き攣るような呼吸と連動して、胸や肩が忙しなく上下する。寝ながらでは耐えきれなくなったのか、起き上がって端座位になる。
 起き上がった身体の上に乗った顔は、随分と清々しい印象をシュヴァーンに与えた。
「そうだな。そうかもしれない」
 ダミュロンは言った。吹っ切れたような、思い切りの良い声で。
 立ち上がり牢獄の唯一の出口である鉄格子に歩み寄る。未だ手を掛けていたシュヴァーンと向き合いながら、ダミュロンは訊ねた。
「信じていいのか?」
 未来を。
 その問いにシュヴァーンは微笑んで答えた。
「俺を信じる事より容易いさ」
 ダミュロンは鉄格子を押して開けると、シュヴァーンは半歩下がって道を開けた。軋む音を振り払うように牢獄から出ると、ダミュロンは手を伸ばせば触れる程に近づいたシュヴァーンを見た。にやりと笑って胸元を小突く。シュヴァーンもまた、控えめに笑った。
 馬鹿な野郎だ。言葉にしなくても、互いにそう思ってる。