変わり行く世界

 時計の秒針の様に一定の間隔で、爪が磨かれた机を付いている。耳を澄ませば聞こえるが、気を散らせば聞こえなくなる音が室内に響いている。室内には執務机を挟んで2人の騎士が居たが、彼等は全く動かず部屋の何もかもが萎縮したように静まり返っていた。
 騎士団団長アレクセイ・ディノイアの眉間の皺は常に深い。現在の騎士団と国王の理念は若干のズレがあり、アレクセイは真っ向から対立している為に悩みは深かろう。微笑は浮かべてもその皺は良く目を凝らすと、白い肌にうっすらと残っているのが見えてしまう。隊長主席として彼の隣に立って10年程、シュヴァーンは今回のあまりに深過ぎるその皺が一瞬傷かと疑ってしまった。
 視線を合わせていたとはいえ、眉間の皺に気をとられていたシュヴァーンにアレクセイは苛立ちを隠さず言った。騎士の鑑と言われ誉れ高いアレクセイではあるが、やはり人の子。気の置けない人物の前では完璧過ぎるきらいを隠さないし、感情的になる事は短気の為に良くある。
 部下であれば窓から身投げしてしまいそうな怒気を受けながら、シュヴァーンはここ数年間では最も怒っている事を察した。秘書官のクロームが執務室から一つ手前の応接間で待機させられているのが、怒れる団長の紳士としての気遣いなのだ。
「どうするのかね?」
「何の事ですか?」
 白い肌故に色付いて見える唇が紡いだ絶対零度の音感を、黒い肌故に影が縁取る唇が春を思わせる長閑な声色で応えた。深紅の瞳も碧の瞳もその声色に相応しい温度で互いを見つめている。まるで互いが喉元に剣を押し当てているような張りつめた空気の中で、瞳と同じく深紅の色合いの隊長服が大きな背もたれに勢いよく背を預けた。
 肘掛けに肘を置いて、白い肌には不釣り合いな程大きな無骨な指先を組んでアレクセイは言う。
「シュヴァーン。私は君のその前向きで楽観的姿勢に幾度となく助けられたし、好ましくも思う。熟考が足りていないのではないかと思う場面は少なく無いが、我々のどちらが欠けても今の騎士団は無い事は確かだ。認めるし、感謝もある」
 とても労いに聞こえない感謝の言葉に、シュヴァーンは模範的な敬礼を一つした。
 団長アレクセイと、その懐刀とも言われる隊長主席のシュヴァーン。人間と魔物の大規模な戦争で数多くの戦死者を出し傾いた騎士団を立て直し、他国からの侵攻をも撥ね除けて王国を守る守護者である。彼等はある意味、国王よりも民に尊敬されていた。性格の違いによる対立はあったが、互いに強く信頼している。彼等はその立場でそれ以上は居ないだろう逸材であった。
 シュヴァーンはアレクセイの口から、何とも大きい溜息が漏れたのを見遣る。先程は恍けた様な返答はしたが、アレクセイの言いたい事は当然分かっていた。なりきり師の少年にシュヴァーンがレイヴンである事を看破された事に対し、これからどうするのかと訊ねたのだ。あの様に答えたのは長年の付き合い故の処世術。素直に返答すれば頭の熱いアレクセイはまともに傾聴して等くれない。先程に比べれば大地を融かす温度が、最高温度に達した釜の中くらいになった事だろう。致死的温度は変わらないのだが、それは大きい。
「私はなるようになれば良いと思ってます」
「全く良く無い」
 言葉が終わる前にアレクセイは低く厳しく言った。
 シュヴァーンもアレクセイの言葉が理解出来ない訳ではなかった。片方は重く、片方はそれ程重く捉えていないだけの事である。
 隊長主席が身分や名を偽り、騎士団と敵対的関係にあったギルドに潜入していた。理由は団長アレクセイが強硬的な態度を崩さない王国の方針に逆らい、歩み寄りの切欠を掴む為に行った事でもある。長期的に考えれば国の良しとならない為の命令であり、平民出身で実力あるシュヴァーンが居たからこそ成せる事だった。今では王国とギルドの間に調停者が存在し、過去とは比べ物にならない位円滑な関係になった事だろう。レイヴンとしてシュヴァーンが働きかけ、アレクセイが国に進言して実行した結果である。
 どんな結果であれ極秘であり明るみに出れば、国が揺るぐ大事件である。見破ったなりきり師の少年には『秘密だよ』と口止めはしたが、どれだけの期間守られるかは不透明なのだ。アレクセイには今にも噴火しそうな火山に、時計がくっ付いているように見えるのだった。噴火しては遅いと、射殺すような眼差しが語る。
 眉間の皺が深く黒く影を落とす程に刻んだアレクセイに、シュヴァーンは穏やかに言う。
「アレクセイ、例のジルディアの一件で世界は大きく変わりました。アドリビトムに参加したエステリーゼ様や数人の騎士も大きく成長された。喜ばしい事だと思いませんか?」
「その件については朗報であろうな。各国の混乱はまだ続いているが、沈静化までの時間はそうかかるまい」
 背もたれに押し付けるように背中を預けているアレクセイは、シュヴァーンの言葉に同意した。各国は世界規模の危機の経験を契機に、平等な同盟を結ぶ動きが水面下で始まっている。アドリビトムに参戦した各国の王族の意向も大きいが、ジルディアの脅威に無力である事を痛感した結果だろう。騎士団の方ではライマ国の騎士団団長であるヴァンからの書状が既に届いている。王国の同盟とは無関係に互いに助け合う為の、騎士団の連携を模索している旨が若いのに丁寧に記されていた。
「我々は随分長い間戦ってきました。正義とは何か、問うて返って来た答えが真逆だった事も少なくありません」
 ガルバンゾ国は貴族主義の強い王国であり、今でも身分格差によってそれが色濃く残っている。貴族主義の反発で誕生したギルドを、王国と貴族は潰そうと幾度となく試みた。人間の血で血を洗う戦いは、人魔戦争による騎士団の大打撃で休戦となった。その間も汚職は続き、賄賂は横行し、腐敗は止まなかった。星晶の採掘も他国の侵略と変わらず、ガルバンゾ国は内外共に暴君の様に振る舞った事だろう。
 王国とギルドの関係は改善に確実に向かう。やがて騎士とギルドが手を組んで問題に取り組む時代が来るだろう。
 星晶の採掘も見送られる事になるだろう。あるべき価値があるべき場所に納まる。
 長い戦い。終わる事は無い。正しき答えは存在しない。それでも戦いは続けなくてはならない。シュヴァーンの言葉にアレクセイは瞑目し、開いた深紅の瞳に長い間傍らに居た男は言った。
「今なら、我々を満足させてくれる返答が返って来る事でしょう」
「その事とレイヴンの件は別問題だがな」
 シュヴァーンが一瞬息を詰まらせる。
 そんな様子をアレクセイは一つ鼻で笑うと、剣を取り立ち上がった。
「まぁいい。これから修錬に付き合ってもらうぞ」
 にやりと笑みを浮かべるアレクセイに、今日は何分保つやらとシュヴァーンは内心溜息を付いた。執務室で民や取り乱した国王の対応をし、この世界の命運を他者に預けなければならなかった不安や心配は尽きなかった事だろう。これからは信じ託す場面は増える。完璧主義者のアレクセイの心労は尽きそうに無い。その想いを打つけ晴らす相手に自分が選ばれるのも、ボコボコにされるのも甘んじるしか無い。我らが団長は頑張ってるんだから。そう言い聞かす。
 それに、結局レイヴンの件は任せると言われたも同意義である。今現在は何の解決案もないが、どうにかなるだろう。団長よりか楽天的な考えのシュヴァーンは、そう結論付けた。
 畏まり敬礼するシュヴァーンの口からは本音が漏れてしまっていた。
「お手柔らかにお願いします」
 過ぎた事を咎めるつもりは毛頭無い。世界が危機を脱し、部下と姫君は帰還し、日常が帰って来る事は掛け買いの無い事だと思っていた。世界を救うアドリビトムは、全く強大な組織だ。負けてはいられない。
 アレクセイは不敵な笑みを浮かべる。シュヴァーンはここ数年間で最も喜んでいるんだろうと、主の喜びの具合を計った。
「それは君の為にならないな」
 アレクセイの言葉についにシュヴァーンは大きく息を吐いた。
 彼等の力を必要とする場面は暫く尽きそうに無い。