誰そ彼に応えよ真実

 アスベル・ラントはアドリビトムの知人に出会えた事を心の底から感謝した。ジュディスというクリティア族の女性とその仲間のカロルという少年に、ダングレストから最も近い宿場町で偶然に出会う事が出来たのだ。アスベルにとってジュディスはシェリアやソフィがさりげない妨害の結果、依頼でも共に行動する事が数回程度しか無い女性だった。互いに挨拶を交わす程度でも、見知った顔が有り難い。初対面のカロルは若くしてギルド凛々の明星の首領との事だが、正義感の強い年相応の少年でアスベルは好感を抱いた。
 彼等の顔を見て、アスベルはようやく肩の力を抜いた。今まで呼吸一つにまで緊張していたのか胸が痛い。その様子にジュディスは妖艶に笑みを浮かべて言った。
「随分お疲れね」
「いや、そんな事は無いよ」
 直ぐさにアスベルは否定した。ジュディスの艶かしい白い肌のラインを、彼は全く邪な思いのない瞳で見返す。ジュディスは笑って外を見遣る。
「貴方と一緒だった隊長さんは、年上だけど貴方より元気そうよ」
 外から王城から飛ばして来た馬の鳴き声が聞こえ、アスベルは非情に申し訳なく思った。萎縮し過ぎて消滅するかと思う程に小さくなる。それは今までの緊張からの疲労と相まって、アスベルの身体を鉛の様に重くしていた。
 数日前、アスベルは直々に団長に呼ばれて極秘任務を命じられた。ガルバンゾ国で唯一ギルドが統治し騎士団の力が及ばない都市ダングレストに、とある貴族が投獄されてしまったという。貴族主義の強く残るガルバンゾ国で、ギルドによる貴族の殺害が起これば騎士団はギルドと全面戦争をする事になるだろうとの話だった。公にする事も出来無い上に戦争の回避という重要な目的は、間違いなく極秘任務だった。
 そのような重要な任務に指名される事も驚きだったが、その任務に同行する騎士にアスベルは頭が真っ白になった。
 アスベルと共にその極秘任務を命じられたのが、隊長主席のシュヴァーン・オルトレインだったからだ。
 外回りの任務の多さ、重要性の高さから、数多くの極秘任務を単独で行ったと生きる伝説となっているシュヴァーンである。平民出身の騎士達からは崇拝すらされているらしく、アスベルの上官であるフレン・シーフォは強い尊敬と憧れを抱いているようだった。あまり他隊の隊長と面識も無く、任務で城に居る事が稀な隊長。団長に負けず劣らずの尊敬に満ちており、時々寡黙で厳しいが部下想いと評判が聞こえるばかり。目の前に現れたシュヴァーン隊の色のオレンジと、照り返しから黄金色に見える鎧を纏う騎士は、威風堂々として目の前の団長に劣らない力強さを感じた。
 ダングレストはガルバンゾ国で最も王城から遠い地域にある。シュヴァーンは言葉少ないが優しい人物で、旅慣れているのか配慮は細やかにすら感じた。団長に次ぐ地位の隊長主席の手を煩わせる訳にはいかない。アスベルは普段よりも気を配り、緊張したまま同行していたのだった。
「それにしても、君達はギルドの人間なのに何故ダングレストで過ごさないんだい?」
 アスベルは疲れを払う様に任務を思い出し彼等に訊ねた。
 ダングレストでは騎士は相当の嫌われ者だと訊く。ダングレストに騎士が寄り付く事は、ギルドの人間からして不審に思われてしまう。『何の用でダングレストに来たんだ?』そう尋ねられれしまえば、あまり隠し事が上手く無いアスベルは、アドリビトムで戦線を潜り抜けた仲間という信頼もあって任務を隠し続ける自信がなかったのだ。
 アスベルの問いにカロルが、綺麗に整えた明るい茶髪を傾げて言った。
「理由はよく分からないんだけど、レイヴンが牢屋に入れられちゃったんだ」
 カロルの言葉を引き継ぐ様にジュディスが続ける。
「おじ様は凛々の明星発足時に色々と助言して下さったの。何もしないでいるのは凛々の明星の掟に反する。でもそんな相談は、流石にダングレストでは無理でしょう?」
 アスベルは彼等の話の内容に目を丸くさせた。レイヴンは個性豊かな人物が集まるアドリビトムでも目立つ存在だ。比較的若い人間を中心に構成されたギルドでは年長者、彼の紫の羽織とボサボサに結った髪は遠くからでも判る。不真面目で不謹慎、あまり信用出来ない雰囲気に一部からは嫌われてすらいるらしい。それでも弓の扱いは一級であり、騎士団でも数える程の使い手しかいない変形弓まで使いこなす。接近戦も魔術にも通じ、支援のタイミングを計るのは誰よりも優れていたかもしれない。
 ルバーブ連山に登る時に行動を共にしたが、彼は悪事を働いて牢獄に入れられるような人物では無いとアスベルは思っている。それだけに、驚きが隠せなかった。
「レイヴンは牢屋の中では元気だったか?」
 いつの間にか中に戻っていたのだろう。低くとも威圧感の無い落ち着いた声でシュヴァーンが訊ねた。貴族意識の強い高慢な騎士を多く見て来たカロルにとって、シュヴァーンはとてもマトモな騎士に映っていた。カロルはその問いに素直に頷いた。
「何時ものレイヴンだった。俺様は大丈夫よーって言ってたけど…僕、ドンが意味も無くレイヴンを牢屋に入れるなんて考えられないんだ」
 その声が僅かに震えて落ち着くまでの間、シュヴァーンは優しく見つめ黙っていた。アスベルはここでレイヴンの事を知らな過ぎた事に気が付いた。王国が時折刃を向けるだろうギルドの事も全くと言って良い程に知らない。騎士としてなんて恥ずかしい事なのだろう、真面目なアスベルはそう思う。
 その事を自覚したのを察知したのだろう、シュヴァーンはアスベルへ視線を向けると言った。
「アスベルは知らなかったようだな。レイヴンはダングレストのギルドを束ねる、大きな5つのギルドが運営するユニオンという組織の幹部だ。そしてユニオンの中で最も巨大な勢力である天を射る矢の首領 ドン・ホワイトホースの右腕でもあるのだ。彼は王国とギルドの調停を任されている」
 二重の衝撃にアスベルは今度こそ言葉を失った。レイヴンがそんな重要な地位に席を置く人物であったとは、全く気が付けなかった。先入観に目が曇り真実を見極める事も出来なかったとは情けない。もしレイヴンの力を存分に借りる事が出来れば、騎士団とギルドの関係も改善するだろうとも思った。アスベルはアドリビトムの活動を通し、現在の王国がギルドに対し強硬的な態度である事に疑問を持っていたのだった。
 ジュディスは流し目をシュヴァーンに向けながら、お詳しいのねと色っぽく囁いた。
 シュヴァーンは慇懃に畏まって、お褒めに預かり光栄と返した。
 2者の間で交わされなかった言葉としては、レイヴン投獄の理由が王国にあるのではないかという事があった。元々レイヴンは王国とギルドの調停者として、非常に危険な立ち位置にあった。ガルバンゾ国の姫君エステリーゼを成り行きで連れ出したユーリの潔白を証明する為に、レイヴンは本来受理すべき調停を後回しにしてまでアドリビトムに随行した。最終的にユーリはエステリーゼ誘拐の罪は冤罪として処理された。
 調停内容は基本的にギルドと騎士団の幹部でないと知る事が出来ない。ジュディスの疑いをシュヴァーンはやんわりと躱した。
 既にアスベルは心の中に強い決意があった。それはジュディスやカロルと共に、レイヴンの助けになりたいという気持ちだった。その決意に同じ目的を感じたジュディスとカロルにも、明るい気持ちがぱっと灯った。
「明日に疲れを残すな」
 内心を見透かす様に、それでいて何も語らずシュヴァーンはアスベルに告げて部屋に戻った。この若き騎士の真っ直ぐさに眩しさすら感じてしまう。このような若者達にこそ、色々と見てもらいたいと願って同行を命じて良かったと思う。シュヴァーンは僅かに目を閉じて浅い眠りに興じた。自分に対し緊張するアスベルの代わりに周囲の警戒を強めていた疲れを、ここで融かしておかねばならなかった。
 シュヴァーンが寝入った頃を見計らい、アスベルはジュディス達に極秘任務の事を打ち明けた。
 アスベルが受けた極秘任務はダングレストの牢獄に囚われた貴族の救出である。しかしジュディス達の話では牢獄に居るのは、現在レイヴンだけであるとの事。カロルが眠気に負けてテーブルに臥せった頃には、一つの仮説に辿り着いた。投獄されたレイヴンは偽物なのだろうという事だ。付き合いの長いジュディスやカロルに看破出来ない程に外見と態度がそっくりであるが、ドン・ホワイトホースを騙す事は出来なかったのだろう。
 書状は厳重に蝋で封じられアスベルには見る事は出来ない。しかしこの書状の内容次第で、この先は大きく動く。戦争になるかの瀬戸際だった。
 最終的に事態がどう動くにしても、レイヴンの偽物を牢から出す事にした。信頼は取り戻す事に時間は掛かっても、失った命はどれだけ時間を費やしても取り戻せないからだ。仮に王国にレイヴンが囚われているとしたら、彼は彼でなんとかしてしまうだろう。
 随分と遅くまで、若者達は熱心に語り合っていた。シュヴァーンは身体を休めながら要所要所に耳を傾けていた。
 もし、若者達のうち誰かが彼の顔を覗き込みさえすれば、寝入っていない事に気が付けただろう。そしてその顔が驚く程彼等が熱心に話している男に似ていると気が付けたろう。

 □ ■ □ ■

 ダングレストは南にある砂漠の粒子の関係で太陽の光が乱反射し、日中であっても夕方のような空に包まれた都市である。黄昏の色彩に煉瓦は熱く感じる色彩に火照り、人々も身体の半分を影に沈めている。その中でアスベルは、広場の中央で見た事もない程数多くのギルドの戦士を引き連れた巨体が頂上に輝く太陽の様に見えた。白い衣が黄昏の色彩すら弾くその様に、この男がドン・ホワイトホースなのだろうと直感的に思った。顔は笑っているが、闘気は肌を金ヤスリで擦りつけるような刺激を与えて来る程に強い。
 この地方では騎士の存在は目立つ。シュヴァーンは一切動揺せず、その為にアスベルも落ち着いていた。
「王国からの書状を受け取ってもらいたい」
 ドンはこれまた意地悪そうな毒を含んだ笑みで『放れ』と短く言った。シュヴァーンが天高く弧を描く様に投げた書状が、蝋や上質な紙をキラキラと光りに反射させながら飛んで行く。その書状がドンに届くまで後僅か、そこで音も無く真っ二つにされる。
 アスベルは今度こそシュヴァーンの冷静さを信じきれず動揺した。ドン・ホワイトホースの怒声は、アスベルからは今まで見た事のない強大な魔獣の咆哮に聞こえた。背後に控えたギルドの戦士達でさえ、震え上がるのを抑えられない者が多く見えた。
「こんな紙切れに意味はねぇ。レイヴンは何処へ行きやがった?」
「レイヴンは戻ってきません」
 ふざけるな!
 アスベルには悲鳴に聞こえた。悲痛な声がドンからよりもその背後の戦士達から、弾丸のように鋭く向かって来た。その声が戦いの火蓋を叩き切った。まるで黒い影が津波の様に、その白い巨体がその飛沫の様に、シュヴァーンとアスベルに殺到する。シュヴァーンは混乱するアスベルの胸を場違いな程ゆっくりと押した。
「行け。君が俺を理由に約束を違えてはいけない」
 シュヴァーンは大丈夫と言うように微笑むと飛び上がった。迫り来る戦士達を踏みつけ押しのけ、まるで踊る様に優雅に迫る波をあしらっている。アスベルもぼーっとしている訳にはいかなかった。戦士達は当然、シュヴァーンに同行していたアスベルも敵と見なしている。アスベルは背を向けて全力で走りだした。
 背後には黒く怒りを含んだ影が追い、路地を見遣ればそこにも長く伸びた人影が踊っている。上部の階層からは女達が罵詈雑言を雨霰と浴びせ掛け、フライパンや熱いスープが容赦なく降って来る。
 こんな筈ではなかった。アスベルは逃げ惑う中で真っ白になった頭を整理させる。
 交渉が決裂しても、シュヴァーン隊長ならここまでの大事に発展させるとは思わなかった。隊長が先日宿泊した宿に戻り休息した頃合いを見計らい、ジュディスとカロルと合流し偽物のレイヴンを助ける算段だった。
 アスベルは剣を抜き放ち、空から落ちて来た花瓶を叩き落とした。
 このままでは住民の怒りが偽物のレイヴンにも向けられる。牢獄に殺到されては成す術無く殺されてしまうだろう。偽物が本当に貴族かどうかは不明だったが、そんな事は最早どうでもいいことだった。牢獄に近づく事も難しいだろう。ジュディス達に合流する事も可能かどうか…。
 その時、アスベルの目の前にひらりと青い獣が躍り出た。
 良く見ると隻眼の軍用犬だ。王国でも採用されている非常に知識が高く、戦いでも混乱を起こし難く、戦闘能力が優れている。鎖の首輪をして口元には何故か煙管が噛まれている。警戒して剣を握りしめたアスベルだったが、その真っ青な剛毛の背に、小さいカロルの人形が括り就けられている。
 アスベルの瞳に理解の色が浮かんだのを察したのだろう。犬は長い尾を引きながらアスベルを導く様に走り出す。駆けながらでも徐々に土地勘のある戦士達に追い込まれていると分かっていたアスベルは、この犬の後を全速力で追った。赤銅色に輝く窓を何千と見送り、影達を何百とやり過ごし、奥まった判り辛い路地の影に犬は滑り込んだ。
 死角になる位置からラピード!と声が上がる。カロルの声だ。
「アスベル、無事だったんだね!」
 滑り込んだと同時にカロルが驚きと安堵を半分にしたような表情で迎えた。カロルの背後にはレイヴンの偽物が居る。やはり偽物だとバレてしまったからだろう。目立つ紫の羽織は傍らに丸め一般的な外套に身を包んだ男は、レイヴンが見せるような胡散臭さが欠片もなかった。
「全部話してくれたわ。彼、王国の法律を司る評議員の議員なのよ。レイヴンに成り済まして法律関係の調整をしようとしてたそうよ」
 驚きを隠さずアスベルは男を見た。男は見れば見る程レイヴンにそっくりだ。背格好も同じくらい。背丈は微妙な誤差があるだろうが、猫背になられては判別は出来そうに無い。黒髪で緑の瞳、態度もレイヴンの大袈裟で胡散臭いのを完全に模倣されると見分けがつかないだろう。
 ガルバンゾ国は国王制ではあるが、法律は選ばれた評議員で制定された上で国王の許可が下る決まりである。その殆どが貴族で腐敗が酷いが、騎士団の門が平民に開かれたのを契機にその腐敗も徐々に取り除かれていると聞いていた。男は城でアスベルが擦れ違う評議員の中では、常識的で真面目なのだろうと感じた。
 男はジュディスの槍の先っぽで突かれ、居心地悪そうに弁明した。
「王国が搾取する様にはしないつもりだったさ。騎士団と一部の評議員で、ギルドと王国の共存を掲げる一派があるのだ。レイヴンの存在を借りれば調停よりもっとやり易く、法律から整えられるって思って…」
 アスベルは注意深く男を見た。身体には怪我は無いようだし、僅かな身振りから十分に動けると判断した。
 ジュディスとカロル、そしてラピードを順に見てアスベルは言う。
「とりあえず、彼を連れてダングレストから出よう。シュヴァーン隊長が何百人ものギルドの戦士と戦っているんだ。僕も早く援護に戻りたい」
「シュヴァーンが来ているのか!?」
 評議員の偽レイヴンが身を隠している事を台無しにするような大声を上げた。そのままアスベルの胸ぐらを掴んで、揺さぶる様に言う。
「何でレイヴンじゃないんだ!?」
 混乱しているのだろう男を、アスベルは少々強引に壁に叩き付けた。息を詰まらすが受け身をとったのを見ると、評議員でも武術の心得があるのかもしれない。アスベルは素人よりも分かるだろうと思い、強く男に言い放った。
「貴方が何を知っているか、それを問うたりはしない! しかし、貴方がここに居ては混乱が増すばかりだ! 貴方が自分の立場を、招いた混乱の大きさを分かっているなら指示に従ってくれ!」
 これ程強く、それこそ怒鳴りつける様に言う事はアスベルにとって珍しい事だろう。気圧された様に男がずるずると壁に背を擦りながら尻餅をつき、完全に大人しくなった。その横でカロルがバンと胸を叩いた。
「大丈夫! 空に輝く凛々の明星に賭けて、僕らが彼を安全な所に連れて行くよ。…って言っても、安全な所って王国だよね? とりあず出来る限りこの場から早く立ち去って、状況を見て王国まで送ってくから!」
「ありがとう。カロル」
 この小さき首領の頼もしさに、アスベルは心から感謝を述べた。
 ラピードが先導し、カロルと男は足早にダングレストの漆黒の滑るような闇に溶けて行った。彼等に追っ手が無い事を確認しアスベルは道案内に残ったジュディスに言った。
「急ごう!」
 隊長であってもドン・ホワイトホースに勝れるとは思えない。それがアスベルの不安を助長させていた。

 ダングレストに敷き詰められた幾億という石畳。砂漠の隣接するこの地にどんな強い砂嵐があっても、広場でそれらが見えなくなる事は未だかつて無かった。しかし、今、石畳は夥しい戦闘不能者が折り重なり一片も見える事は無い。その戦闘不能者は気絶している者、獲物を持つ手を斬られた者、倒れた者の下敷きになった者と様々だが、誰一人死んではいなかった。
 湯気の様に立ち上る呻き声、人の山の上にシュヴァーンが立っていた。
 人魔戦争の帰還者で唯一騎士団に留まった者。英傑であり平民達の希望の星である者。騎士団の全ての武器を扱う手練であり、隊長主席の地位を持ち奢らぬ者。彼は黄昏の中で夕冷徹なまでに感情の動かぬ瞳で、その下に敷く者達と白い巨漢を見ていた。
「強いじゃねぇか」
 とりあえず足下にいる何人かを放り投げると、ドン・ホワイトホースは不敵な笑みを浮かべてシュヴァーンを見た。ドンの足下にもまた多くの仲間が転がっていた。重量のある巨体が戦闘の為に踏み込めば、その下にあった骨が無惨に折れる腑が潰れる事だろう。ドンは仲間を殺さずに居るならば完全に動きを封じられたと言って良かった。
 シュヴァーンは男の中では小柄に属していたし、手に持った変形弓と長剣等、様々な間合いを持っていた。足下の人間の山が障害にはならない。彼が今までのギルドの人間に対し不殺を貫いたとしても、これから先もそうしてくれる保証は無かった。
「貴方は俺よりも強いだろう」
 言葉は風の様に軽く、直ぐにシュヴァーンの動きに掻き消された。疾風が黄金色の光を線の様に空中に描き、ドンに肉薄する。ドンの長刀が奮われると、その線は軽石の様に跳ね上がり宙で一回円を描く。がちゃりと音がすると思った瞬間には矢が巨漢目指して何本も放たれた。鎧を着ているとは思えない程の身軽さだ。
 ドンは長刀の動きを制限されながらも、足下の動けぬ者達を放り投げ、動ける者達を叱咤して堅牢な石畳を掘り起こして行く。熾烈な攻撃を尽く防ぎながら広げた空間はやがて、広間くらいの大きさにまで広かった。攻撃はドンが転がった部下を持ち上げ投げる間は行われなかったし、ドンが絶対に防げるタイミングを計られていた。多くの者は流石我らのドン・ホワイトホースと褒め称えたが、真実は攻撃するシュヴァーンと攻撃を受けるドンにしか分からなかっただろう。
 ついにドンを封じる者は何も無い十分な広さを確保した。剣捌きに速度が乗り、振り下ろす度に強い風が走る。見守る多くの戦士がその動きを捉えられない程に達していた。ドンの不敵な笑みで刻まれる顔の皺は、より深く濃く影を落とした。
 シュヴァーンもまた、無言で長剣と変形弓を翳し突撃する。
 その攻防は戦場であれば決して近づきたく無い危険さを匂わせながら、目にしたら離せない程の美しさを持っていた。互いに触れただけで腱を絶ち肉を折る刃と力が、踊る際のドレスの裾の様に軽やかに複雑に交わされる。放たれる矢と同じ速度で繰り出される拳の鋭さが、ダングレストの黄昏をも歪ませた。ドンとシュヴァーンは全く違う戦い方で拮抗した。戦いが長引いたと誰もが思いながらも、気絶した半分以上がまだ意識を取り戻さない程度に短い時間。その間、両者の戦いの行方を見守っていた者達は、頭を煮え上がらせていた熱さが魅了されて熱くなっていると理解し始めていた。
 武術に心得がある者は、口々に戦いを賞賛する言葉を呟いた。騎士だからと考え無しに見下していた者は考えを改めた。
 その中の一人がぽつりと言った。
「レイヴン…?」
 その呟きを偶然拾う事が出来た隣人は、その言葉に何故か凄く納得してしまった。
 騎士はギルドでも指折り数える程度しかいない変形弓の使い手だった。レイヴンもまた変形弓の名手である。同じ獲物の達人となればその動きは洗練され似た様になるかもしれない。長剣と変形弓を剣に変形させた時の動き、変形弓で矢を放つ時の癖、バックステップやその手の位置、身のこなし、見れば見る程に騎士の朱色の衣に紫の裾が重なって見えるのだ。
 あのドンが嬉しそうに戦っている。俺達じゃとてもじゃないけど相手なんか勤まらないのに、レイヴンと来たら嫌だ疲れた言いながら何時も良い線行きやがる。良く見たらあの騎士野郎、無愛想な顔してるけどなんだかんだで楽しそうじゃねぇか。
 その思いは水面に石を投げ込んだ様に、静かに幾重にも重なって遠く遠く広がった。
 アスベルがジュディスの案内で広場に駆け込んだ時、勢いよくシュヴァーンの剣が跳ね上がった。国王から賜る騎士の剣は、その重量が全く感じられない程に軽々と黄昏れ色の空に舞い上がった。剣は遠くに飛ばされる前に矢で垂直に打ち上げられ、大きく下がったシュヴァーンの真横に落下した。
 シュヴァーンは真横の剣を手にしない。降参のつもりなのだろう。
 その様子を満足そうに見たドンは、シュヴァーンに言った。
「レイヴンに伝えろ。ダングレストに顔を見せろと、ドン・ホワイトホースが言っていたとな。奴は尻に火でも付ける勢いで来るだろうよ」
 シュヴァーンは控えめに微笑んで、敬礼した。
「必ず、伝えましょう」
 アスベルは転がった人々を踏まない様に歩き、踏んだ傍から謝りながらシュヴァーンの横に辿り着いた。シュヴァーンはアスベルの後ろから、ヒールに踏まれ甘い苦悶を漏らす床の上を歩くジュディスを見て言う。
「アスベル。約束は果たせたようだな」
 麗しい女性の約束を違える等、騎士以前に男としてやってはいけない事だからな。そう囁く様に言うと、シュヴァーンはダングレストと王国への街道を繋ぐ橋に向かって歩き出していた。牢屋に投獄された貴族の事には全く触れないという事は、シュヴァーンは牢獄に貴族が居ない事を知っているのだろうとアスベルは察した。極秘任務を漏らした事、ギルドの人間と共謀した事も何もかも…
 全て見通されていたのだ。アスベルは顔が真っ赤になるのを感じていた。
 恐らく、黄昏も隠してはくれまい。