願うばかりの嘘

 ガルバンゾ国騎士団 隊長主席シュヴァーン・オルトレインが、同国最大勢力のギルド天を射る矢の首領の右腕 レイヴンだったという噂は瞬く間に広がって行った。噂には背びれ尾びれが付く物だが、何故かこの噂に限るとその傾向は何時になっても見られない。時が経れば経る程に信憑性が失われ、詳しく知れば知る程に信じられないと噂を否定する者が後を絶たなかった。
 関係者に聞いてもその反応は様々だった。そうらしいと曖昧な返事をする者が殆どで、真顔で肯定されても信頼させるに至る現実はなかった。団長アレクセイの正式な声明が無かった事が悪化に拍車を掛けたのだが、例え公認があろうと疑いが拭われるとは誰も思わなかった。
 そんな中、カノンノが依頼を終えてアドリビトムに帰還する事となった。カノンノの描いた肖像画は正式に王城に飾られるという。そんなカノンノがガルバンゾ国からの引率してくれるのは、王国とギルドの調停を任された噂ド真中に立つレイヴンである。彼等は久方ぶりにバンエルティア号に立ち、アドリビトムのメンバー達に迎えられた。
 無論、アドリビトムのメンバー達は任務で長く戻らなかったカノンノを迎える為に集まっていた。レイヴンの正体に興味津々なのが隠せないが、頭の先から足の先まで胡散臭さ満載の中年を一目見ると興味は急速に萎えてしまうのだった。誰かが『レイヴンの正体はシュヴァーンなの?』と質問して肯定されたとしても、レイヴンにはとても申し訳ないのだが嘘臭くて信じられなかったのだ。
 そんな一同の心情を代表して、アンジュ・セレーナが2人の前に立った。まるで教会のステンドグラスから女神を引き抜いて立体化させた様な、美しい聖職者は邪心が全く無いような笑顔で微笑みかけた。
「おかえりなさい、カノンノ」
「ただいま」
 アンジュの言葉にカノンノもホッとした様に笑みを零した。
 桃色の髪がふわりと落ちる頬の丸みが、出発前より薄くなった気がする。腕が細くなったのは、戦闘で武器を使う機会が少なかったからだろう。それでもお嬢様の体格にピッタリ添う洋服が、少し持て余されてはいませんか? 騎士団とはいえ、やはりお嬢様にはこのロックスが付いていなくてはいけませんな! そんなギラギラと燃える瞳には幸い誰も気が付かない。彼は彼の主人の為に、忙しなく翅を羽ばたかせ調理場へ向かってしまった。
「レイヴンもご苦労様。わざわざ送ってくれたのね」
 女神の笑みそのままに、アンジュはレイヴンに労いの言葉をかけた。その場に終結した野次馬共は好奇心を削がれはしても、固唾を呑んでレイヴンの一挙一動に注目した。
 噂が正しければ、レイヴンは今回のカノンノの依頼に関係するシュヴァーンその人であるのだ。噂が広まり方々から集めたシュヴァーンの情報は、アドリビトムのメンバー全てが共有するものとなっていた。平民出身でありながら騎士団の鑑足り得る人物、戦争の英傑、多忙なる騎士団主席。今まではただの胡散臭くてどうしようもないおっさんだったが、注視すればその片鱗でも見えるかもしれない。
 カノンノの荷物を入り口の横に降ろしたレイヴンは、その丸まった猫背を覆う紫の羽織とボサボサの頭の下で一瞬きょとんとした顔になった。そしてにかりと歯を見せて笑ったのだった。
「やぁねぇ、別にお礼言われる程の事じゃないわよ。それに王国とギルドと接触する場合、俺様達ユニオンの調停を介する方が色々面倒じゃないのよ。アンジュちゃん、おっさんの事見直してくれちゃった? これからはおっさんに頼み事するときは、どーんと大船に乗ったつもりで言ってちょーだい!」
 大きく胸を張り、自身がどーんと言うのに合わせて胸を叩く。しかしどうにも、ピンク色のヨレヨレのシャツのだらし無さが勝ってしまう。
 あぁ、こいつやっぱりレイヴンだ。人垣からボソボソと、随分と失望したような声色が漏れる。ぞろぞろと散って行く人々の背に、レイヴンは必死に言い放った。
「あーーーーっ! ちょっと! おっさん、これでも優秀なのよ! ユニオンの幹部で、調停の仕事だってちゃんとしてるんだからぁ!!」
 信じてぇ! 何とも嘘くさい悲痛な声を張り上げても聞き届けられず、よよよと泣き崩れた様子で座り込んでも誰も声を掛けてはくれない。これぞレイヴンと最後の方まで残っていた何人かが思い、やはり噂は噂でしかないと納得するのだった。
 カノンノもアンジュも形ばかりに慰めて、行ってしまうのだった。アドリビトムのメンバー達はレイヴンの扱い方を心得ていた。少し厳しいくらいが丁度いいのだ、と。
 天は彼を見放したと思われるが、残念ながらレイヴンが泣き崩れてはいるが演技も演技、涙一つない声だけの嘘泣きである。それでも止められないで続けているのは、まだ1人レイヴンの傍に居たからであった。
「大丈夫? レイヴン?」
 そんな惨めな男の前に立ち優しい声を掛ける小柄な影に、レイヴンはがばっと抱きついた。
「うおーーん! 少年! やっぱり最後までおっさんを信じてくれるのは、若くて純真な魂なのね!…って、まだそんな格好してたの?」
 抱きついたディオを見下ろして、レイヴンは大袈裟に目を見開いてみせた。紫が薄く掛かる銀髪はぼさぼさに乱され、後頭部を箒の様に束ねてある。その身体を包むのは紫の羽織に、完全に同じではないがレイヴンの服に真似て作られたシャツとズボンだ。未だにレイヴンの物真似をしているディオは、嬉しそうに笑った。
 もし、この場に双子の片割れがいたら、レイヴンの言葉からシュヴァーンであると確信したかもしれない。ディオがレイヴンの物真似で服まで真似ていた姿を、実はこの時までレイヴンは一度も見た事が無かったからだ。
「見てよ、レイヴン!」
 ディオは一歩下がると、瞬時に変形弓を剣から変形させて矢をぴたりとレイヴンの鼻先に付けた。
 その早業にレイヴンも鼻先に鋭い切っ先がありながら拍手する。
 変形弓の扱いの難易度は、熟練の戦士であれど主に用いる武器に選ばない程である。遠距離と近距離を担える武器であるとされているが、その構造は複雑で繊細。一瞬でも僅かな角度でも違えれば、武器は瞬く間に使い物にならなくなる。剣から弓に変形させ矢を装填し構える、その一連の動作すら高い技量と深い変形弓の理解が必要になるのだ。レイヴンはディオのこの一瞬の動作で、その鋭く高めた技量を察したのだった。
「凄い凄い。よく頑張ったじゃない。変形弓は難しかったでしょ?」
 レイヴンの心からの賞賛の言葉に、ディオはふるふると首を横に振った。
「レイヴンになりきろうとする方が大変だったよ」
 ディオの言う『レイヴン』はレイヴンでありシュヴァーンである。なりきり師は対象となる人物の技術や知識のみならず、人生や趣向まで自らのものとする程の理解が必要となる。無論、レイヴン本人はディオの言った『レイヴン』の意味を全て理解して頷いた。こんな幼子が真の理解者とは…と内心苦笑しながら。
 レイヴンは居住まいを正しディオの頭をぽふぽふと撫でた。
「約束、良く守ってくれた」
 ディオは驚いた様に目を見開いた。
「喋っちゃったとか、思わないの?」
 レイヴンが首を横に振った。
「全然」
 約束はディオがレイヴンになりきろうと模索している時、シュヴァーンに出会った時に交わした事を指していた。ディオはレイヴンになりきろうとする内に、彼の根底にはレイヴン以外の何かがあると思い始めていた。レイヴンを知れば知る程に、その空白は大きく基盤のを隠す様に存在していた。いったいなんなのか。ディオは悩み悩んでいる時に、シュヴァーンに出会って一瞬にして氷解した。シュヴァーンの武術を基礎にレイヴンがあり、シュヴァーンの考えを根底にしてレイヴンの行動力がある。レイヴンの空白部分にぴたりとシュヴァーンが当てはまった。ディオはレイヴンがシュヴァーンである事を知ったのだ。
 『レイヴンでしょ?』尋ねて来た言葉に、人差し指を口元に押し当て秘密を約束したのは随分と前である。
 約束の理由は正体が知れる事を恐れた訳ではなかった。既にレイヴンの目的は達成目前であったし、今回のジルディアの件は目標到達の大きな後押しになった。もしレイヴンの正体が知れても、ギルドの反発がどんなに強くとも、動き出した世界に抗う事も出来ないだろう。調停によって得て来た結果は、重ねられた歴史の様にギルドに欠かせないものになっていた。
 危惧する必要のある問題は、レイヴンとシュヴァーンの存在の差だった。互いが互いに最も遠い存在である様にしたが為に、今回の噂の様に誰も信じてくれる訳が無かった。実際にレイヴンもシュヴァーンも問われれば認めるが、遠過ぎる相手の存在は決して匂わせない。結果的に質問した当人達が否定してしまうのだ。
 レイヴンでもシュヴァーンでも、そんな反応は寂しくなかった訳ではない。しかしそうなるべくして、なったのだ。自業自得であり、誇るべき達成である。
 だが、少年は違う。なりきり師の少年がどんな大声で正体を叫ぼうと、誰も相手にしない。誰もが少年を嘘つき呼ばわりするだろう。誰かが少年が気でも触れたと哀れむだろう。どんなに事実を叫んでも、認められない限り真実にはなり得ない。少年が傷つく事が、シュヴァーンとレイヴンにとって恐ろしい事だった。
 噂が広まっても少年は約束を守り続けた事だろう。この中年の男は分かっている。
 アドリビトムはギルドとしては、仲間を大事にする傾向が強い。それはレイヴンとして多くのギルドを見て来た故の評価だった。これ程強い仲間意識の中では、どんな疑わしい情報も仲間の発言一つで強力に情報が左右されてしまう。ディオがシュヴァーンの正体について一言でも漏らしていれば、先程のレイヴンの態度での反応は違った事だろう。
 少年がどれほど真実を告げずに居る事が苦しかったか、どれほど真実が否定されるのを聞いて悔しかったか、男は良く分かっていた。少年もまた男の物真似を極めた故に、男が理解して労っていると分かっていた。
「君みたいな男を友人に持てて、誇らしいよ」
 男は笑った。初めてと言っていい、レイヴンとシュヴァーンの、丁度中間の笑みで。
 ディオも笑った。この特別な笑みを向けられて、とても誇らしかった。しかし笑みも、次の瞬間不満げなものに変わる。まだ幼さの残る唇を尖らせてディオは言った。
「皆、変なの。だって、レイヴンがレイヴンで安心してるんだもん」
「何気に皆、俺様の事を愛してくれちゃってんのよねー」
 ディオとレイヴンは互いの顔を見合わせて、けらけらと笑い出した。
 船に響き渡っても、誰も憎らしいと思わない。ただそっと、しょうがないやつだと苦笑いしている。