笑いながら重ねる杯

 街灯の明かりも随分と暗く感じる程に夜が深くなる頃合い。道には巡回の騎士が時折見える程度で、猫の影すら見かけなくなって来る。あれほど賑やかだった酒場の喧噪も、今や酔い潰れた者達の寝息に取って代わってしまった。夜行性の獣の鳴き声が、分厚く広がる人の領域の外から響いて来る。それすらも甘い細波の様に薄らいで溶ける。
 シュヴァーン・オルトレインはその暗く沈んだ沈黙を、黒髪の奥で光る碧の瞳で見つめていた。執務の為に黄金色の篭手を外していた素手は、この目の前の風景に溶けるように冷えきっていた。篭手はマントの影に隠れ、歩行にも戦いにも邪魔にならない位置に鞄に入れて固定されている。剣の柄はもっと冷えているだろう。そんな彼に与えられた屋敷は常日頃に温かいのだろうとも考えている。
 彼の屋敷は彼の関係者の溜り場になりつつあった。
 シュヴァーン隊は遠征のストレス回避の為に、若干の嗜好品の携帯を認めた珍しい隊でもある。その嗜好品の置き場として屋敷を提供し始めた事に始まり、首都を離れている時間の長さに屋敷の維持を使用者に命じた事に続く。今では隊長主席の屋敷の合鍵は詰め所に引っ掛けられている。城に近い屋敷は貴族ですら羨望の眼差しを向ける立地条件にあったが、与えられた本人にはあまり顧みられなかった。だからこそ執事を雇うのも気が退けた為に一石二鳥であった。しかし帰ろうと思う場所に、誰かが居て明かりが灯っているという事は有り難かった。
 城門を抜けて街灯が薄く灯す石畳を進むと、間もなくシュヴァーンの屋敷が見えて来た。近隣に建つ貴族の屋敷に自然に溶け込む程に、外壁も庭も整えられている。樹は大きく茂っているが隣家の敷地に入らない様に刈り込まれ、門に手を掛けても錆びついた音が響かない。少し異なる点を指摘するならば、道から直接見えない位置に立派な畑があったり、植えられた花々は薬草に転じられる物が多い。
 煌々と黄金色の光が漏れる窓の横にある玄関を一つノックし、少し間を開けて開く。
 こんな深夜にまで滞在する者は殆どが酒を傾けつつ談笑する者か、ソファーの上で鼾をかく酔っ払いが殆どだった。勿論、今回も玄関から入って直ぐの巨大なテーブルを設えた広間にも、酒瓶を持った男がいるのだった。
 酔いの気配も感じない男に、シュヴァーンは背筋を伸ばし一礼した。
「こんばんわ、シザース教官」
「邪魔してるぞ」
 言葉の割にすっかり寛いだ様子で片手を上げた男は、シュヴァーンに笑いかけた。マリク・シザースはガルバンゾ国に属する騎士学校の教官であり、優秀な戦士でもある。世界各国の情勢に詳しく、冷静な分析の下で行われる判断は適切だ。彼の教え子達は皆優秀で、故に騎士団の隊長クラスの人間からは一目置かれている。シュヴァーンの屋敷に出入りする数少ない隊員以外の人間でもあり、平民出身の騎士であるシュヴァーンとは仲が良かった。
 しかしそんなマリクに対し、シュヴァーンは僅かに眉根を寄せた。シュヴァーンがそんな顔をするのは、酒気と混ざっているが香水のせいである事をマリクは心得ている。騎士団隊長主席の地位に有りながら、どの隊の隊長よりも前線に立つ事の多い隊長は香水の匂いを好ましく思ってはいないのだ。嗅覚の鋭い魔物に己の位置を教えるようなものだが、死化粧だとか戦士の嗜みという理由でない限り他人の趣味に口は出さない。互いに互いの立場を理解しているからこそ、その無言の中に潜む思いを知って黙っているのだった。
 大きめのテーブルに多数が掛ける事のできるソファーの真ん中に、体格の良い偉丈夫のマリクは腰を下ろしている。テーブルには酒に合う肴が一人分にしては多過ぎる量が用意されていた。スモークサーモンとチーズのサンド、ナッツを盛った器に、一夜干しにした魚介類が炙られている皿、トマトスライスやサラミが几帳面に並んでいる。既に瓶は数本空になっていたが、マリクは頬すら赤く無い。シュヴァーンは向かい合う位置にある椅子に腰掛けると、マリクは用意していたのだろう酒瓶を差し出した。夜気にすっかり冷えたていたが、蓋を開けると噎せ返る程に濃厚なアルコールが立ち昇った。
「アスベルは良くやっているか?」
「シザーズ教官の教え子は皆、優秀な人材ばかりですよ」
 マリクの問いにシュヴァーンは即答した。
 ガルバンゾ国の騎士団に入団する方法は概ね2種類とされている。一つはシュヴァーンやフレン等の平民が多く通る道である、騎士団の門を直に叩く方法。もう一つがアレクセイやアスベルといった貴族が多く通る道である、騎士を養成する学校を経ての入団である。
 騎士学校はここ十年の間にマリクのような熟練の教師の参入により、実名共に優秀な騎士候補生としての名誉を得ている。多くの騎士候補生の中で、このマリクの目に適う逸材は隊長候補といって差し支えない実力者ぞろいだった。シュヴァーンの言葉は事実である。元々、お世辞も得意ではないのから尚更だ。
「貴方が自信を持って送り出した教え子を心配されるとは意外ですね」
 シュヴァーンは瓶の中身を少量口に含む。見渡すばかりの雪原に吹き渡る鋭い風を思わせる風味が直ぐさまに広がり、その後を追う様に甘さすら感じる淡雪の様な味わいが口腔内に落ち着いた。仄かにぴりりと辛味があり、僅かに唐辛子が漬かっていたのだろうと分かる。
 マリクはシュヴァーンと同じ酒が入っている瓶を弄びながら笑う。
「アスベルが騎士団に正式配属されてから、飲む機会が減っていたからな」
 その言葉にシュヴァーンは一つ間を置いて、静かに同意した。
 シュヴァーンとマリクが互いに知人から飲み友達にまで発展したのも、元を正せば現在話題に上っているアスベル・ラントが原因である。
 ガルバンゾ国は王国制ではあるが、地方領主の民兵が許され自治権が強い為に緊急事態に対し騎士団が即応出来ない事態が生じる可能性がある。その為の様々な事態を想定して、各地方の任務を担うシュヴァーンは各領地に出向いていたのだ。それは7年前、シュヴァーンはガルバンゾ国と隣国の国境境にある領地に足を運んだ時だった。
 各地を納める領主達の人徳と裁量に感服するシュヴァーンだったが、その中で最も印象に残ったのがその地を治めるアストン・ラントであった。
 息子が騎士になりたいと、王都へ行ってしまったのです。
 力強く皆から頼りにされる領主としての仮面の隙間から漏れた男の言葉は、当時11歳の息子を案ずる父親であった。シュヴァーンはその後アスベル・ラントの事を調べ、同じくしてマリク・シザースと知り合ったのであった。それからマリクとシュヴァーンは時折この様に酒を酌み交わしては、他愛無い会話を交わしたりガルバンゾ国や世界の事を語り合ったりするのだった。それでも自慢の教え子の話が取り分け多かったと、シュヴァーンは記憶している。
「シザース教官の耳に入れる必要の無い程、アスベルは問題無く騎士として国に仕えているという事です。それに、アスベルが問題を起こすような青年では無い事は、シザース教官の方が知っておられる事でしょう」
 マリクはふっと口元を緩めた。
「貴方と飲みたいという理由にアスベルを引き出したりはしないさ。ただ、奴は俺の教え子だからな。気にはなるさ」
「アスベルは真面目で優秀、騎士の鑑たるアレクセイ隊に相応しい若者です」
 シュヴァーンは真面目に目を細めて酒を口にした。
「ただその真面目さ故に、いずれ領主の地位に就く為に騎士団を離れる時が心配です」
 マリクも神妙な顔つきで整えた顎髭を擦り、そうだなと相槌を打った。
 騎士学校から騎士団に入団した貴族の中には、当主を相続の為に脱隊する者も少なく無い。特に民兵を率いる立場になる地方領主の跡取りとなると、実戦や戦略を経験させる為に敢えて入団させる者もいる。アスベルはヒューバートという弟がいるが、7年前に養子として出され今では隣国の軍の少佐の地位にいる。アスベルが仮に死んでしまったとしても、弟が領主として後を継ぐ事も難しくなるだろう。アスベルが領主の地位を継ぐ為に騎士団を脱隊する事は、避けられない未来でもあった。
 現在では当のアスベルにその自覚が無い。これからも騎士として民を守る事に燃えている。
 アストンと時折手紙を交わすシュヴァーンは、父が息子に向ける期待を息子以上に知っていた。教官から聞き齧った病気もせず元気である事、剣の技量に秀で勉学にも励んでいる事、将来騎士としてとても期待しているという程度の事を手紙に認めた。流石にサイコロで成績を決められてしまうといった真実等は告げなかったが、アストンの返事は感謝の言葉で満ち、将来自分の後を継ぐ事を楽しみにしている様子が感じられた。
 シュヴァーン個人も地方領主に実力に秀でた者が就く事を喜ばしく感じている。しかし将来が見えていないアスベルが突然運命に翻弄されないか、それが心配でもあった。運命が如何に無慈悲であるか、シュヴァーンは身に沁みていた。
 当然マリクも同じ思いを感じていたが、笑って瓶を傾けた。
「アスベルなら大丈夫ですよ。彼奴の真っ直ぐで素直な感性は、俺ですら眩しく感じますからね」
 笑顔で肴を摘んでは頬張るマリクを見て、シュヴァーンは苦笑する。
「あのシザース教官が入れ込む理由が少し分かります。貴方も若い時に成し遂げられなかった事に、今から挑戦しても遅くは無いと思いますよ?」
 マリクは一瞬驚いた顔をしたが、相手は世界中を渡る遠征の大半を担う隊の隊長である。しかも団長は切れ者で名高いアレクセイ・ディノイア。騎士学校の教官に就任してから、下手をすれば入国時点で身元が知られている可能性も否定出来なかった。
 しかし、マリクはシュヴァーンの僅かに明るくなった口調を聞き逃してはいなかった。フォークにサーモンをチーズでサンドした肴を突き、不敵な笑みを浮かべる。
「おっと、俺はまだ教官を辞任するつもりはないぞ。貴方が俺の後任を狙っているのは知っているんだからな」
 シュヴァーンは僅かに目を見開くと、無言で瓶の中身を一気に飲み下して呟いた。
「誰にも言った記憶が無いのだが…」
「団長が話してくれた」
 大きく溜息を吐くと、シュヴァーンはマリクにもう一本酒瓶を要求した。