守護者の視線

 噎せ返る湿気の中に泳ぐように森林の匂いが満ちている。高々と葉を茂らす森に棚引く霧は、鳥の影をまるで水中を悠々と泳ぐ魚の様に見せた。魔物の影が草むらの影に隠れる様に動き、狩り狩られる者の死闘の咆哮が澄ます耳に向かってあちこちから響いた。
 ケーブ・モック大森林はその広大で深い森故に、測量ギルド『天地の窖』の最新地図でさえ輪郭しか記入されない場所である。凶暴な魔物は勿論、毒を持った蛇や虫、自生する植物も未解明の品種が多い。入り組んで視界の悪い森は訪れる人間に、道を見失うか魔物に不意打ちされるかを選ばせる。自然の力を見せつける様に、人間が幾度挑もうと何度も拒み続けていた。
 そんな森に挑んだ数名の若者に同行する事になったレイヴンは、彼等から少し離れた木の上で寛いでいた。足をぶらぶら、丸い背中を殊更丸くしている胡散臭い男を、若者達は警戒して近づく事すらしないだろう。時々場所を変える忙しない男を、リタ・モルディオは目障りそうに見ている。
 どんな風に思われるか、レイヴンは良く心得ていた。
 レイヴンは足の動きに紛れさせ、せっせと矢を作っている。ベルトに留めていた短刀で、枝を払っては細く真っ直ぐに削いでいる。納得の出来になった枝は、小袋から取り出した矢尻をくっ付けて即席の矢の完成である。表情は真面目そのものだ。
 想像以上に魔物の数も多いが、レイヴンの思った以上に若者達は効率の良い戦闘が出来ていなかった。予め用意した矢の減る速度は早く、現地で補充する事を選択する必要性が生まれていた。胡散臭い男は戦闘に対してある程度迂闊でいい加減である必要がある。今後の事を考えて矢を補充する程、レイヴンは利口ではない。しかしそんなレイヴンが実際やっているこの姿を見て何を思うか…。当然、若者達は警戒を強め、下手をすれば姿を眩まそうとするかもしれない。レイヴンとしてはこれ以上警戒されて距離を保たれるのは困るのだ。
 大量の魔物が現れる場では、討伐の優先順位というものが存在する。一番厄介なのは増援を呼ぶ魔物、次いで遠距離攻撃やブレスや魔法の類いを使うもの。目的地への到着や帰還予定が未定の旅は、とにかく消耗を可能な限り抑えなくてはならない。休憩は無論必要だが、短時間での戦闘修了や被ダメージの減少は鉄則だ。最も魔物の知識があるだろうカロルは、重い武器故に対応がどうしても後手に回ってしまう。魔術を得意とするリタも、視界が悪く狙いを定め難い環境に力が発揮しきれていない。そうなると、遠距離攻撃を持っていて優先順位を考慮出来るのはレイヴンくらいになってしまうのだった。
 若者の前ではへらへらと笑って戯けてはいるが、森を一人見つめている顔に余裕は一切無い。
 レイヴンが足の動きに紛れて大きく息を吐く。
 その時、軽やかな振動が枝を揺らした。
「おや、わんこ」
 森の青みを帯びた碧と良く似た色彩が、青い体毛に覆われた軍用犬を見つめた。立ち上がれば成人男性の胸くらいに前足を掛けるだろう大柄な犬だが、その筋肉は引き締まり機敏さはレイヴンでさえ目を見張る。火の入っていない煙管を銜え、軍用犬専用のジャケットには彼のお洒落が光っている。
 ラピードと呼ばれる彼もまた、その機動力を持って優先順位を考慮出来る存在だった。レイヴンが仕留める敵を覚えているのだろう。例え他の敵が味方の傍に居ようと、少しでも長期戦になると厄介な敵に真っ直ぐ向かって行ってくれていた。
 そんなラピードの働きを見ているレイヴンは、笑って労った。
「わんこは賢いわね。わんこみたいに物覚えの良い子は、人間だって多く無いわよ」
 撫でてやりたいものだが、何せ知性があり主人自身が敵意に似た感情を向けられているレイヴンである。重要な戦力であると知性高き犬が理解している故に指を噛み切られるなんて事は無いのは分かっていたが、レイヴンは決してラピードに手を伸ばしたりはしない。軍用犬は戦闘に秀でているし賢いが、人間並みに自尊心もある。愛玩動物の様に扱うのではなく、同列の戦士として尊ばなくてはならない事をレイヴンは知っていた。
 すっと視線を森に戻すと、レイヴンは草影に潜む一つの影を見つけた。
 ラピードも飛びかかろうと姿勢を低くする。
 レイヴンは舌打ちに似た音を立てた。それは騎士団に所属する軍用犬の命令に用いる音だ。攻撃、後退、待機等の簡単な命令を音にする事で沢山の犬達を指揮する。大規模な戦闘では犬笛が役に立つが、隠密行動を必要とする場面ではこのような形態が重宝する。
 ラピードはその音に耳をピンと立てると、臨戦態勢を解いて座った。レイヴンの発した音は『待機』の意味合いを含んでいたが、軍用犬の訓練もそこそこの彼が理解している事に驚いた。知性を秘めた瞳がじっとレイヴンを見ている。レイヴンはラピードに小さくウインクしてから変形弓を引き絞り、草影で息を潜めて窺っていた魔物を射抜く。悲鳴一つ上げる事無く即死した敵に、休憩中の仲間が気が付く事は無い。
 そのラピードの視線に秘められた意味を前々から察していても、改めて感心せざる得ない。
「君はもう俺の正体に気が付いているのか、流石だな」
 名前まで分かっているとは思えないが、それでもどんな職業なのかは理解しているだろう。
 レイヴンはこの声で話したのは久々だと実感した。胡散臭い男が威厳ある落ち着いた声色で話すなんて、想像でも辿り着くのは難しい冗談のようだ。対極に位置するだろう2人が混ざっていて、喋っている自分自身が不思議に感じてしまう。
「しかし君は主人に伝える手段はない。残念…でもないか」
 例え正体がバレたからと言って、大した損害は無いだろうと考える。そこまで考えて、正体が明るみに出るなんて事を考える事も久々だと気が付いた。10年近い年月を掛けて得たレイヴンの信頼を考えると、正体がバレても嘘だ法螺だと笑い飛ばされてしまいそうだと結論に至った。
 レイヴンは内心で複雑な想いを噛み殺すと、目の前の戦士に語り掛けた。
「俺は君等の敵じゃない事さえ分かってくれれば良い。まぁ、寝首を掻こうと正々堂々殺しに掛かって来ても、俺はそう簡単に殺されやしないぞ」
 にやりとレイヴンの笑みでラピードを見下ろす。
 ラピードも侮り難い好敵手でも認めた様に見上げた。
「暫く、宜しく頼むよ」
 大きくも小さくも無く、しかし短く響く声でラピードは応えた。
 その声に見上げたユーリ・ローウェルは思う。おっさんとラピードが木の上で何をしているんだろう。そうして、胡散臭い油断ならないおっさんに、背を向けて休んでいた事に気が付いてふっと笑みを浮かべた。