微睡みに囁く謎

 バンエルティア号の甲板には緩くアーチを描きながら、温かく熱された極上の昼寝スポットが在る。手摺の外側な為に決して安全と言う場所ではなかったが、熟練の戦士には危険と言う程の場所でもない。レイヴンも常連と呼ばれる程に昼寝に通っている。
 潮風を受けながら高く上がった太陽の光の下でうたた寝していたレイヴンは、新たにそこにやって来た男を察して珍しいと口を動かした。黒髪にロングコートと油断なく研ぎ澄まされた男を包む空気に、レイヴンは姿を見ずして気が付いたのだ。
 傭兵とギルドは体系や行動が似た組織だ。ユニオンを運営する5大ギルドには、紅の絆傭兵団という巨大な傭兵組織が存在する程だ。実際に仕事が傭兵と復重する場面は少なくない。しかしギルドと傭兵の区別がつかない事を快く思わぬ者は多い。ギルドに属する者にはギルドとして、傭兵を生業とする者は傭兵としての誇りをそれぞれに持っている。一卵性の双子が名前を間違えられるような憤りがあるのだろう。
 様々な事情を抱える実力者が在籍するギルド『アドリビトム』でも傭兵は複数居る。その誰もが幾多の戦線を潜り抜け軍人以上の修羅場を経験した猛者だろう。その中でも最も自尊心が強そうな傭兵が、リカルドという名前だった。ひっつめた黒髪の長髪と暗い色彩のコートには無駄が一切なく、背に括り付けられたライフルは長身に負けない長さで超遠距離狙撃用だと分かる。リカルドは戦場から遠く離れた空気を持つ飛行船であり拠点であるバンエルティア号の中で、随分と浮いた存在だった。野郎の名前を覚えるのを億劫がるレイヴンも覚えられたのだから相当だ。
 徹底したリアリスト。情や善意が戦場では無用のもだというのを知っていて、他人からの愛情や好意が重荷になる事を知っている。死線を潜り抜けた者がいずれ知ってしまう事でも、彼程徹底的に排除する事は難しいだろう。趣味かと思う程に武器の整備をしている姿しか見ない。それが組織に属さない傭兵だから出来る事なのかと思うと、レイヴンは一つ納得して距離を取ったものだ。リカルドと『レイヴン』はきっと相性が悪いのだろうと、思ったからだ。
 レイヴンがごろりと鉄板の上で寝返ると、ごごんと派手に音が上がった。変形弓が鉄板を叩いたのだ。
「中で子供達が煩いの?」
 その問いかけに色白い肌に浮かんだのが、面倒くさそうな感情である事はレイヴンには手に取る様に理解出来た。訳すなら『ここにも面倒な奴が居たか…』だろう。義理立てて視線を向ければ、リカルドは視線を外して青空を見上げている。吸い込まれそうな高さに雲が棚引いて、気持ちのいい風が吹き抜けるのにくしゃみを堪えているような顔だ。
「お前には関係のない事だ」
 ふぅむ。レイヴンは溜息に似た唸り声を口から零した。甲板は風が強く武器の整備に時間を割く事も出来ないだろう。彼は賑やかな空気から逃げて来たが、ここで暫くは彼にとって無駄な時間を過ごさなくてはならない。戦場に子供が立ち入る事も嫌うのだから、何でも腹立たしく感じるんでしょうねぇ、と心の中で呟いた。
「まぁ、ゆっくりして行ったら? おっさんも野郎と話すのは嫌だけど、お話に付き合ってあげたって良いのよ?」
「要らぬ節介だ」
 つーれないわねー。レイヴンは不貞腐れた様に温かく熱された鉄板の上でごろごろと寝返る。他人なら暑いくらいだが冷え性のレイヴンには適温。満足そうな碧の瞳が澄んだ海の色のように空色を映し込んだ。
「人生何時終わっちゃうか解んないんだから、少しは楽しく生きなきゃ駄目じゃない。来世なんてあるかどうかすら解んないんだからさぁ」
 レイヴンの大きな独り言に、リカルドは少し眉根を寄せた。
 独り言を言い続ける本人は空を見上げてしまって、リカルドの表情に気が付く事はない。レイヴンでも本来の彼でも思う事は同じだったろう。一度死を垣間見たからこそ生命は尊く、そして儚く手の平を擦り抜けて救えない。死んだらそれっきりで、転生なんてお伽噺や空想と同じ意味合いでしかない。ましてや、傭兵という他人の生命を奪う場面が多く在る人種が、来世や転生を信じるとは到底思えないという先入観がレイヴンにはあった。
 温かさに二度寝に誘う気配がレイヴンの瞼を撫でたとき、言葉が響いた。
「来世はある」
「そうそう、来世は……うそぉ!?」
 レイヴンが大袈裟ではない驚きに身を起こすと、ずるりと鉄板の上で手を滑らしバランスを崩す。体勢を整える機会を逸して落下すれば、一寸した怪我では済まされない。そう判断したレイヴンは、完全に体勢が崩れる前に強引に跳躍した。
 目映い日の光の中、翼を拡げた鴉の影が甲板の上に降り立つとレイヴンは大きく息を吐いた。はぁー。焦った焦った。そう態とらしく笑ってみせる。
 リカルドはその身のこなしを始終じっと見ていたが、徐にレイヴンの腰回りを指差した。
「レイヴン。お前は大剣も獲物だな?」
 その指摘にレイヴンは真ん丸く瞳を見開いた。
 胡散臭さが服着て歩いていると言われる風来坊という指摘は概ね合っているのだ。レイヴンは構成する全てが嘘なのである。レイヴンの正体はその塗り固められた嘘の外側に出る事は滅多にもないつもりだが、長期間を共に過ごし戦闘も共同で行うような状況で隠し通すのは至難の業である。それを誤摩化す為にレイヴンの胡散臭さがあるのだ。
 しかし、目の前の傭兵に誤摩化しは効かないだろう。長年長剣を下げて戦場を駆け抜けていれば、レイヴンの時だけ長剣がないように振る舞うのも難しい。わざと軽業師のような動きをするのはそれを隠す為だったが、咄嗟の跳躍は嘘を演じる暇も無かった。完全にレイヴンの失態であり、それを彼は素直に認めた。
「うわ、そこまで分かっちゃうの? 流石プロ。お願いだから黙っててね」
 おねがいしまーすと頭を下げるも、リカルドは一つ溜息を付いてそれっきりだ。リカルドが他人の隠し事を吹聴して回る人種ではなく、問われれば答えるかもしれないがレイヴンが剣を使えるか問う者等いないだろう。問うたとしてもレイヴンの武器は弓と剣に変形する変形弓。言い逃れる事は難しく無い。レイヴンはこの事が知れ渡る事もないだろうと、少しだけ安堵していた。
 そこで話が横にずれていた事に気が付いたのだろう。レイヴンがリカルドに向き合って大袈裟に言ってみせた。
「おっさん本気で死にかけた事があるけど、三途の川すら見えなかったわよ」
 ま、その時は三途の川を見る暇も無かったけどねー、とけらけら笑う。
 道化のように囃し立てるレイヴンに向かって、リカルドは酷く落ち着いた口調で訊ねた。
「死神は来なかったのか?」
 突然の質問にレイヴンの頭は真っ白になる。戦場では死神と揶揄される実力者が参戦する事も多いが、その事を訊ねている訳ではないのは分かる。しかし仮に他人が死神を見たと言えば、それは幻だろうと笑う程度に懐疑的なのだ。
「へ? さ、さぁ…?」
 ようやく吐き出したレイヴンの返答に、リカルドはこれまた真面目に返答した。
「では、お前はその時に死ぬ定めではなかったのだ」
 レイヴンは真面目な言葉故に驚きすら飲み込んで棒立ちになった。
 基本的に胡散臭く口から出る言葉に信憑性がないというキャラクターのレイヴンである。そんなレイヴンが『死にかけた』と口にした時点で、嘘だと疑われるか本当かよと茶化されるかのどちらかであるのが普通なのだ。あの魔導少女なら死んでしまえば良かったのに、と平然と言ってくれるだろう。
 あまりにも予想外な為に、逆にリカルドの真面目さを疑いたくなるレイヴンである。
 真面目に見えて、実は天然なのかしらん。元々ガチガチの堅物と言う印象のリカルドだからこそ、レイヴンはそう思ってしまうのだ。すすっと裾の中に手を隠し、身長の高い相手故に見上げる姿勢で訊いた。
「リカルド君、死神とお友達なの?」
 全く年上の威厳のない中年に問われ、リカルドは静かに答えた。
「…お前が死ぬ時にきっと分かるさ」
 その言葉と雰囲気が全く噛み合ない。レイヴンは昔を懐かしむような想いを滲ませながら、リカルドの唇は少しだけ口角を上げたのを見た。そんな顔が見えるのも一瞬で、黒髪の長髪と暗い色のコートの後ろ姿が見え、あっという間に機内の闇に溶けて行ってしまった。
 一人取り残されたレイヴンは、もう二度寝という気分にはなれない。
 自分が死ぬ運命でなかったとしたら、あの時、あの場所に居た沢山の騎士は死ぬ事が運命付けられていたのか。胸から響く鼓動が乱れ息苦しい。十年昔の事なのに沸き上がる怒りは常に新鮮。今更どうしようもない過去だったと、気持ちが沈むのと混ざり合い言葉に表し難いものになりつつあった。
「へんなのー」
 『レイヴン』は後頭部に指を組んで脳天気に呟いた。