鴉だった人

 偉大なる巨星の跡継ぎハリー・ホワイトホースは、最近ようやく身に付いてきた貫禄を置き忘れていた。呆然とした面持ちで目の前の2人を凝視するばかりだ。同室していたハリー以外のギルドのメンバーも、首領の呆然とした様子を咎める余裕無く来客を見ている。
 凝視された2人もまた、ハリーの様子に困惑していた。
「大丈夫ですか? ハリー殿」
 労るような落ち着いた声色の男は、帝都ザーフィアスから派遣された評議会議員だ。肩口まであるだろう黒髪を全て後ろに撫で付け、首筋辺りで緩く結っている。リボンは緑に赤いラインの入った上物の素材だが、評議会議員の正装も上質な漆黒の布を用いた物なので気にすらならない。小脇に抱えた書類を収めた箱は、服に深々と皺を刻み込む程の重量を物語る。
 ダミュロン・アトマイスと名乗った議員は根気強くハリーの反応を待ち続けたが、一向に埒が開かない。困り顔で隣の騎士を見遣れば、騎士の方はもっと辛抱強く待っているようだった。悪く言えば、騎士は何も考えずぼうっとしている様にすら見えた。
「明日にしましょうか」
 声掛けに彫像の様に動かなかった騎士は、思い出した様に一つ瞬きをした。
「その方が良いだろうな」
 頷いたのは帝国騎士団隊長主席という2番目の地位に上り詰めた平民、シュヴァーン・オルトレインだ。鮮やかなオレンジ色と朱色のマントは、黄金色の甲冑と相まって薄暗い室内で炎の様に目立っていた。片方だけ重く下がっている前髪に隠れていない碧眼は眠そうな形の印象を吹き飛ばす程素早く動き、口数が少ない故にあまり動かない口元が着々と今後の予定を詰める。
 ハリーが我に返って2人を改めて見た時には、明日の今よりも少し遅い時刻にもう一度来る約束が決まっていた。
 見慣れた筈のオレンジ色の、見慣れない隊長が眠気を誘う程に穏やかな声で言った。
「私は所用で本日だけダングレストを離れます」
 隊長の不在時は対応する部下が詰め所に控えていると言いたいのだろう。ハリーは何もしていないのに異様な疲れを感じて、ただ気怠げに首を縦に振った。
 星喰みを退けた後、ギルドと帝国の関係は以前に比べれば飛躍的に良くなったと言える。帝国がダングレストを侵攻した過去からユニオンが調停を行って大きな衝突は無かったが、協力するまでの仲に発展するとは数年前のハリーでさえ考えも付かなかった事だろう。目の前の男の名を冠したシュヴァーン隊は、ギルドにとって最も好意的に受け入れられている隊でダングレストに仮の支部まで作っている。様々な報告で有能な人間が揃っているとは聞いていた。
「何をしに行くんです?」
 感情を押し殺した声でも、若干の驚きを表情に表して評議員の男が尋ねた。無論、騎士に対して。
 騎士は評議員の男以上に感情を表に出さずに、さも当然そうに答える。
「山に花を摘みに行く」
 口を開いていれば間違いなく『はぁ!?』と声を上げていただろう。しかし、この場に居合わせた誰もが口を閉ざしていたが為に、喉まで競り上がった驚きを飲み下した。騎士の自信に満ちた言葉と声に、あまりにも突拍子の無い内容であっても虚言と指摘するのも憚られていた。
 評議員の男は眉間に手を置いて頭痛を堪える様に項垂れる。未だ周囲が対応しきれず呆然とする中、男は項垂れて一拍程度で立ち直ってハリーに礼をした。
「失礼致しました。私は騎士の詰め所に居りますので、御用事の際は対応致します」
 半ば引き摺るように騎士を伴って出た評議員の男の背を、ハリーを含めた天を射る矢のメンバーは見送った。しっかり男が騎士の脇腹に肘鉄を打ったのも、マントの隙間から見えていた。
 ばたんと扉が閉まり、先程よりも息を潜める息遣いすら響き始めた。
 拍子抜けした。それがハリーが力を抜いて背凭れに寄りかかり浮かんだ最初の感想だった。過剰な緊張から解き放たれ、安堵にも疲労感にも似た脱力感を部屋に居た誰もが感じていた。ひとりひとりと部屋から出て行くのを見送ると、いつの間にか部屋に居るのはハリーだけになった。
 風来坊でありながらユニオンの盾として帝国との調停に携わっていたレイヴン。彼が帝国の騎士団主席シュヴァーン・オルトレインと評議会議員ダミュロン・アトマイスが演じていたと明るみに出たのは随分と最近の事だ。未だにギルドの中では嘘くさい噂の域を出ない。
 ハリーは星喰みが世界を脅かす存在として天を覆った頃に、その事実を打ち明けられた。と言っても打ち明けてきたのはレイヴンからであって、世界の存亡を賭けたような事態では構ってられなかった。いや、直視しなかっただけだ。申し訳無さそうで泣きそうなのを無理矢理笑みにしたような顔で言ったレイヴンの言葉から、俺は逃げ出したんだ。ハリーは今になってダングレストの黄昏を見上げて思う。
 今回が初めて、帝国騎士団で最も帝国領外の活動が多いシュヴァーン隊隊長の公式訪問である。ギルドと帝国間の法律視察を目的に、帝都から評議会議員が派遣されたのも初めての事である。先程の顔合わせが、歴史的一場面だったのになんとまぁ間抜けな事か…。だが首領としての面子より、ハリー個人の衝撃が優先された。ハリーは『彼等』に会うのが、初めてだったのだ。
 会った時、ハリーは『彼等』を殴るつもりでいた。
 凛々の明星はシュヴァーンが扮したレイヴンを袋叩きにしたと聞いている。ダミュロンの方は知らないが、かのギルドは『レイヴン』を殴った事で全て許してしまったのだ。そんな事が出来る凛々の明星を、ハリーはとても羨ましく思えた。レイヴンとハリーとの関係は十年近く続いた為に、凛々の明星のような割り切りが出来ず沸騰する煮え湯の様にぐらぐらと浮かんで揺れて混ざっている。
 その沸騰した湯の表面を見つめているような目つきで虚空を見つめていたが、ハリーは1人の空間で頭を掻きむしった。
「だせぇ。ダサ過ぎる」
 細くさらさらとした髪が指先から落ちて元の位置に戻る。頭を抱える様にハリーは、祖父が使っていた机に両肘を付く。磨かれた机はダングレストの赤い空を反射させ、ハリーの色白い輪郭をぼんやりを映している。
 ドンはどうするだろうか、ハリーはきっと『怒鳴っておしまい』にするだろうと思っていた。文句は『紛らわしい事しやがって!』に違いない。もしもレイヴンがギルドに損益を来たしたり、ギルドの情報を帝国に流したりすれば祖父は黙っては居なかったろう。実際、レイヴンが来てからユニオンの組織も充実し、帝国との調停も円滑なものになっている。帝国の人間が演じていたからという理由で疑っても、何一つ証拠も結果も出て来なかった。
 凛々の明星は刃を向けられた事から、殴り返す理由があった。
 祖父と孫、そしてギルドは『レイヴン』に嘘をつかれたかもしれない。だが殴り返す程の理由になり得るだろうか?
 ハリーの頭からは複雑に煮詰まった様々な事が、焦げ付くのが先か煮こぼれるのが先という状態になっている。天を射る矢の首領として、全てのギルドの代表として、自分はレイヴンであった『彼等』をどうすれば良いのだろう。ハリーは目元が熱くなっているに気が付いた。レイヴンであった。過去形だ。レイヴンは存在しないのだ。シュヴァーンという男とダミュロンという男は居ても、レイヴンは居ないのだ。あの胡散臭いへらへらしたおっさんは、この世界の何処を探してもいないのだ。十年近く、一緒にいたのに…。
 こん。
 頭の中を吹き荒れる熱風に、やけに澄んだ音が響いた。ハリーが気が付くと、ここんと続けて響いた。
 部屋の中には誰も居らず、一つ手前の応接間にも人の気配はない。部屋に無造作に置かれたカップや書類一枚、動いた形跡もない。
 こん。
 音が後頭部を叩いた。振り返ると砂埃に磨りガラスの様にくすんだ窓に、大きめの砂利が付着している。ハリーが何気なく開けると、丁度ダングレストの家を構築する赤煉瓦の小さい破片が飛び込んできた。反射的に掴んだハリーは、そのまま下方を見下ろした。
 ごん!
 見下ろす為に顔を窓から出した瞬間、顔並みの大きさのある何かが顔面に勢いよく当たった。ハリーは真一文字の赤い模様より少し下を押さえ、悶絶しながら後ずさる。不運にも先程座っていた椅子に足を取られ、無様に床に転がった。
「すまない。大丈夫か?」
 窓を跨いで形ばかりの誠意の微塵も感じない謝罪をしたのは、男の声だ。3階相当の高さの窓に侵入する行儀の悪さが出来るのはユーリくらいかと思ったが、声はユーリのものではなく先程ハリーが聞いた声だった。ハリーが薄目を開けて見ると、そこには朱色の隊長服の男が手を差し伸べている。
「平気だ」
 差し伸べられた手を払いながら、ハリーは全く痛くありませんと顔に書いて立ち上がった。鼻の下に滑りを感じて拳で拭うと、甲に赤い線が走った。先程の不機嫌さに痛みやら情けなさが混じってどうしようもなくなったハリーは、不機嫌さを通り越して怒りすら滲ませて目の前の隊長を睨みつけた。
 睨みつけられた隊長はと言えば、原因が自分にあって睨まれて申し訳なさそうにする訳でもなく、鼻血が出ている姿を見て笑うでもなく、無表情に近い顔つきでハリーを見つめている。頭突きを喰らって鼻血を出しているのは自分なのに、まるで悪いのが自分ではないかと思ってしまう程だ。居心地の悪さにハリーはじりっと後ずさった。
「な、何だよ…」
 問うと、シュヴァーンは驚いたような反応を見せる。まるで既に説明していたのに、聞き返されたように…。
「君の顔を見てどんな花にしようか決めようと思った。先程、ちゃんと見ておけば良かったのだが…」
 再びハリーの顔を見つめると、シュヴァーンは溜息に擬音語をつけたような声を口の中で転がした。
「やはり参考にならんな」
 その傍若無人な態度に、大音量で先程までの考えが押しつぶされるのを感じた。かちんなんて可愛らしい音どころではない。爆発音さながらの爆音は、ハリーの冷静さをハルルの桜の花弁の如く舞い散らせた。
「一体なんなんだよ! 花なんてダングレストの町に花屋があるだろうが! 山に採りに行くとか、俺の顔を見て決めるとか、意味分かんねーよ!!」
「花屋だと、分かる花の種類が一種類程度しかない」
「いーじゃんかよ! それで!!」
「駄目だ」
 騎士の発した一声は、怒鳴り声でもなく大声ですら無かった。まるで抜き身の剣で弾き飛ばされるような衝撃に、ハリーは驚いて騎士を見た。騎士は感情を窺わせなかった今までとは違って、真剣勝負をしているような張りつめた表情で見ていた。
 ハリーは騎士にとっての逆鱗に触れたと思った。興奮していた勢いをすっかり失って、青ざめた顔の中身は氷の様に冷えきってしまった。
 『彼等』は初めてダングレストにやってきた。そんな『彼等』が花を欲する理由は、冷静に考えれば一つしかない。
 今は亡き祖父、ドン・ホワイトホースの墓前に手向ける花。
 花の種類も碌に知らない野郎が、ハリーの顔を見て決めるという。それも孫の雰囲気から少しでも祖父らしい花を探したい、彼なりの気遣いなのではないか。
 山まで探しに行くという考えはいまいち理解出来ないが、ハリーは自分の身勝手さに膝が砕けそうだった。シュヴァーンもハリーが悟った様子に見た目は変わらずとも、雰囲気を幾分和らげる。そして、ぽんぽんとハリーの柔らかい髪に触れた。
「泣くな」
「泣いてない」
 巨星の孫は泣いていなかった。だが、そう言われるとじわっと潤んで溢れそうになる。祖父が死に、世界が滅びそうになり、息つく間も泣く暇も無く天を射る矢の首領を担った。経験も心構えもないが、あのへらへら笑った中年の大丈夫が心強かった。それでも祖父の傍に居て、これからも自分の傍に居ると思っていた風来坊は本当に風の様に消えてしまった。今まで半年近く居ないのだって当たり前だった男が存在しないと分かると、紫の羽織を僅かに見るまで二度と会えないのだと何度も思った。不安だった。不安で不安で、誰にも言えなくてどうしようもなかった。
 シュヴァーンはハリーの否定に、そうだなと肯定した。
「ハリーはレイヴンが分かるから、泣く必要はないな」
 見上げると昔を懐かしむ様に微笑むシュヴァーンの顔があった。
 窓を背にして真っ黒く陰る顔に光る碧の瞳を、ハリーは酷く懐かしく感じた。