曇りを拭う

 下町は帝都で最も雑然とした区域だ。その雑然さを例えるなら、積み木で遊んでいた幼子が突き崩して散らかしたようだ。一軒の家には複数の家族が暮らす事も珍しくは無く、窓の前に木箱を階段のように積み重ねて出入り口にしている者も居る。裏路地に一歩入れば猫しか通れないような道成らざる道も、迷路よりも入り組んで方向感覚が失せる場所もある。
 夕方を過ぎれば何も無いような暗闇に沈んでいる。精霊化の関係で魔導器が失われた今、貴族街も下町も夜はそう変わらぬ暗さの中に居る。巡回の騎士達が掲げるランプが、蛍の様に儚い光を放ち動いているのが見える程度。人々は深夜の外出は控える様になったし、失われた直後は小火も多かった。幾多の戦線を潜り抜けたユーリ・ローウェルでさえ外出する気分は削がれる。
 細く欠けた月明かりを見上げながら、ユーリは寝苦しそうに何度目かの寝返りを打った。耳を澄ませば下階の帚星も営業時間を終えて、明日の仕込みも終えてしまっているようで物音一つしない。日にちを跨ぎ、深夜から朝方に向かう時刻だろうと察した。
 身体を起こして水を飲みに行けば確実に目が冴えてしまう。しかし一向に眠気は彼を誘ってはくれない。ユーリは大きく溜息を吐いて、起き上がった。足下に眠っていたラピードが薄く目を開けたが、ユーリは『ちょっと出掛けて来る』と撫でると再び目を閉じた。
 淡い月明かりでも何処に何があるか知り尽くした自分の部屋。そこから扉一枚隔てたザーフィアスは、とても静かでとても暗い。海の似合う少女の言葉を借りるなら、まるで深海の底の様じゃ。冷えきった空気がユーリの白い頬を撫でた。
「こりゃあ、眠れそうに無いな」
 ユーリは苦笑する。こんな時間に暇を潰せるような所を知らないが、素振りをして適度に身体を疲れさせる気にもならない。仕方なく、ユーリは虫も眠るような時刻に散歩でもしようと足を踏み出した。
 頼りない月明かりの下でも、自分の部屋の延長の様に知り尽くした下町である。どんなに道の角を曲がり、階段を上り下りしても自分が誰の家の前にいるのかまではっきりと理解していた。足の向くまま気の向くままに進むと、やがて仄かな明かりが見えてきた。
 明かりはカーテンを淡い暖色系の色に染め上げ、時折人が行き来する影が映り込んだ。気配を探れば数人だが談話する声と、食器が奏でる食事中の音楽が聞こえて来る。黒い影に沈み込んだ扉には何かしら札が掛かっていたが、ユーリはどんなに目を凝らしてもそれが『OPEN』なのか『CLOSE』なのか読めない。ここは居酒屋だったな、という記憶を頼りにユーリは扉を開けた。
 来店を告げるベルが小さく鳴ると、カウンター席で座っていた店長らしき男が顔を上げた。壮年に差し掛かり白髪も混ざる年齢の男だ。ユーリも顔に見覚えはあるが、名前までは生憎覚えていなかった。いらっしゃいとバリトンを思わせる声が気持ちよく響いた。
「店、やってるのか?」
「うちは朝方までやってるよ」
 へぇ、と感心した様にユーリは微笑んだ。下町でこんな遅くまで開店している居酒屋があるなんて、あまり知らなかったのだ。
 店内を見回すと時間が時間なのか、客も少ない。既に泥酔して店の椅子を並べたものをベッド代わりにして高鼾の男と、店長の息子らしいシャツにソムリエエプロンの青年が奥にいる。手前の窓際にも客がいるのを気配で察していたが、どのような人間なのか何気なく確認しようとユーリは首を巡らす。すると、その客から声を掛けられた。
「おやおや、ローウェル君じゃないか」
 窓際の席に居た2人組を見て、ユーリはあまりの意外さに硬直した。
 下町では滅多にお目に掛かる事は出来ないだろう評議会議員の服を着た男と、オレンジと金色の鎧を着た男がテーブル席に座っていたからだ。それぞれに液体の注がれたグラスが置かれ、テーブル中央には胡桃が籠に盛られている。
 ダミュロン・アトマイスはその場にいるのが不釣り合いなのも分からないのか、まるで何十年もそこに居た様に笑いながらユーリに尚も声を掛けた。ダミュロンの赤い顔を乗せた頭がグラグラと揺れている。
「駄目だよ。飲酒していい年齢になったからと言って、こんな遅くまで梯子なんて感心しないな」
 ユーリが思わずダミュロンの向かいに座っていたシュヴァーン・オルトレインを見遣る。シュヴァーンは呆れた様に目の前の酔っ払いを嗜めた。
「ダミュロン。青年は君よりも酔ってないぞ」
 シュヴァーンは空になって隅に押しやられていたコップに水を注いで、ダミュロンに差し出した。酔っ払いも素面の忠告に従う程には回っていないらしく、その無言の言葉を聞き入れて一気に水を飲み干した。息を吐くのとそのまま頭はテーブルに勢い良く墜落した。
「おい、大丈夫なのかよ」
 ぴくりとも動かなくなったダミュロンに対して、全く動じないシュヴァーンである。ユーリの心配の声も届いていないのか、シュヴァーンは別のテーブルから椅子を引っ張ってきて『どうぞ』と勧めた。ユーリが腰を掛ける合間も、シュヴァーンが先程のコップに水を継ぎ足してダミュロンの頭の前に置いた。
 シュヴァーンはダミュロンを注意深く観察していたようだったが、暫くしてようやくユーリに視線を向けた。
「青年も一杯奢ろうか。好きな物を注文するといい」
「じゃあ甘いもん食おうかな」
 そんなユーリの前には希望を告げて割と早くに、ワッフルが置かれた。固めに焼かれたワッフルの上には、キラキラと輝く瑞々しいベリー達が乗っている。ストロベリーにラズベリー、そしてブルーベリーの彩りと生クリームのバランスが絶妙である。ベリーの上には更に粉砂糖が塗してあり、ユーリはここの店主は良く分かってると内心深く頷いた。シュヴァーンは何か言いたげに見つめていたが結局無言のままだ。
 一口頬張って広がるハーモニーを吟味して、ユーリは改めてシュヴァーンを見た。
「おっさんは飲まないのか?」
 テーブルの上を良く観察すると、グラスは殆どダミュロンの方に寄っている。シュヴァーンの手元にあるのは水の入ったグラス一つだけである。肴としておいてある胡桃は双方が食しているようだが、様子からしてシュヴァーンは酒を飲んでいないと思ったのだ。
「シュヴァーンは飲まないよ。明日は朝一でルブラン小隊への任務言い渡しがあるからな」
 その問いに答えたのはダミュロンだった。いつの間にか飲み干して空になったグラスに水を注ぐ手元は、先程までの様子を微塵も感じさせない。
 ユーリはラズベリーに生クリームを絡ませながら首を傾げた。
 騎士団を離れたとしても隊長主席としてのシュヴァーンが、任務に忠実でむしろ働き過ぎなくらいだというのは知っている。ユーリの幼馴染みは憧れの対象からか脚色が過ぎるとは思う事はあるが、それを差し引いてもシュヴァーンは多忙だとは思う。そんなシュヴァーンが率いる隊もまた、遠征を中心とした騎士団では忙しく動き回っている隊である。
 ルブラン小隊はユーリがシュヴァーン隊で最も良く知っている隊である。目の前の隊長の部隊の中では最も古株に属する小隊と知るのは、割と最近だ。崇拝するまでにシュヴァーンを慕う小隊長で、ユーリには声のでかい色々おっかない騎士である。
 ダミュロンの言葉を聞くと、どうにも『ルブランが理由でシュヴァーンが飲まない』と聞こえるのである。難しい任務でも言い渡すのだろうか。実直なシュヴァーンなら有り得そうだと、ユーリはラズベリーを一口放り込んだ。
 弾ける甘酸っぱさを味わいながら、ユーリの目の前でダミュロンはシュヴァーンに話しかけた。
「いい加減慣れろって。ルブランだってお前を認めてきてるじゃないか」
「縁談の世話まで焼かれてもか? その内、縁談を断ったと始末書を書かされそうじゃないか」
 困り果てた顔でシュヴァーンは無精髭が生える顎を擦った。
 レイヴンでも女の影は沢山あっても、それは遊び程度の関係以上にはならない。それはシュヴァーンであってもダミュロンであっても、変わらない姿勢なのだろう。ユーリは納得しながらワッフルを一口大に切り分けて口に運んだ。カリッとした表面の焼き具合が心地よい歯触りを伝えてとろける。
「恋とか愛とかの分野ではお前は未熟だって思われてんだろ。私はルブラン小隊長の行動に対し、全面的に意義を認めます」
 評議員の勿体振った口調に『酷いなぁ…』とシュヴァーンは唇を動かした。
「おっさん、ルブランが苦手なのか?」
 ワッフルを飲み込んだユーリの言葉に、シュヴァーンとダミュロンは同時に振り向いた。まるで似てない双子の様だ。
 シュヴァーンはどう返答して良いものかと思い倦ねた様子だったが、ダミュロンはにやにやと頬杖を付いて言うのだった。
「意外に知られてないよな。発足時のシュヴァーン隊がどんなだったか」
 ダミュロンにそう言われて、ユーリも確かにそうだと肯定した。
 ユーリが騎士団の門を叩いた時には、人魔戦争の英傑と評される隊長は殆ど帝都には居なかった。最初っから帝都に留まらない印象があったが、発足当初から不在ばかりではないだろう。人魔戦争直後の騎士団は壊滅的打撃を受けており、混乱した当時の記録や騎士達の記憶も曖昧だったりするのだ。
 酒を注ごうとして横からシュヴァーンに水を注がれ、ダミュロンは渋い顔でグラスを空けた。1つ咳払いをすると、ユーリに身体を向けた。そして役者が舞台の上で朗読する様に、仰々しい身振りを交えて語り出した。
「シュヴァーン・オルトレインは帝国騎士団初の平民出身の隊長で、しかも初の隊長主席になりました。そんな当時の騎士団は、今とは比べ物にならないくらい貴族主義が濃厚。そんな敵陣ど真中の平民の新米隊長主席の脇を固める騎士の一人が…ルブランだったのさ」
「俺達が入団した時には、既にルブランはドレイク隊の小隊長だった」
 シュヴァーンが補足する様に静かに言った。
 短時間とはいえ騎士団に所属した事があるユーリは、貴族出身の騎士の胸糞悪くなるエピソードをいくつも知っている。しかし、ダミュロンの言葉通り今と比べ物にならないなら、シュヴァーンが貴族からされた事はユーリの想像を遥かに超える事だろう。隊長主席と立場が上になれば、現在の地位から引き摺り降ろそうと画策し実行された事も一度二度ではない筈だ。騎士としての実力は問題無しでも、揚げ足取りや陰謀からはシュヴァーンは無防備だったに違いない。
 ユーリは改めてシュヴァーンが相当に苦労したのだろうと思った。
 同時に現在団長を務める幼馴染みが、彼が切り開いた道を歩める事に感謝した。勿論、口にはしない。苺で口が忙しい。
 シュヴァーンと格闘しながらようやくグラスに酒を注いだダミュロンは、美味そうに琥珀色の液体を飲んで言った。
「ルブランは本当に優秀だぞ。何たって平民出身のぼさっとした男を、憧れの隊長主席に育て上げちまうんだからな。ルブランの奴、お前の子供を見るまで死ねないぞ」
 だから結婚は…と言いかけたシュヴァーンの口に、ダミュロンは素早く胡桃を放り込んだ。仕方なく咀嚼して飲み込んだシュヴァーンは、諦めた様に腕を組んで背もたれに身を預けた。
 昔を懐かしんでいるのか、少し間を置いてぽつりと呟く。
「厳しさで言うなら、隊長に次ぐ位だ」
「いや、次はドンじゃないか?」
「ドンは結構甘い」
 短くきっぱり言い放つと、シュヴァーンは反論しようとするダミュロンの口に胡桃を放り込むのだった。そんな年上の大人げなさを見ながら、ユーリは呆れて言う。
「なんか隊長主席だろうと評議会議員でも、おっさんはただのおっさんだな」
 シュヴァーンとダミュロンは互いの手を止めて、顔を見合わせた。そして一人は拗ねた時の、もう一人は笑い飛ばした時のレイヴンの顔でこう言うのだった。
『あたりまえじゃないの』 
 ユーリのフォークから、器用に乗せたブルーベリーがころりと落ちた。