天地を量る

 ユーリ・ローウェルの所属する凛々の明星は少数精鋭のギルド。若い首領や女性に代わり、ユーリが深夜の見張りに立つ機会は比較的多い。その為にユーリは深夜から朝方にかけて非常に眠りが浅くなる事が多かった。明日の事を考えて身体を無理にでも横たえ休めるが、それでも起きて明日を向かえても問題なかったりする。特に故郷である帝都ザーフィアスでは疲れる事も無いので、身体が睡眠を欲しない事が多かった。
 そんなユーリが朝方まで営業している店を発見したのは、とても幸運な事だった。
 後から知った話では、あの店はただの飲食店。他と異なるのはその営業時間が夜間だという事だ。始まる時間も人々が寝入る頃に開店するので、下町育ちのユーリも知らなかったのだろう。深夜まで営業する酒場の従業員等の希望で、営業時間が延びに延びて朝方になってしまったと言う経歴を持っている。看板の無い店だが、客層の関係もあって知る人ぞ知る隠れた名店なのである。
 前回訪れた時間とそう変わらない頃合いに店の扉を開けたユーリに、店長は静寂を壊さない声でいらっしゃいと声を掛けた。外の暗闇に慣れた目に優しい暖色系の照明、薄暗い店内に沈む黄昏の様に沈む光と闇、家庭的な下町にある調度品の数々、そして仕事を終えてホッとしたような客達の寛いだ雰囲気をユーリはとても気に入っていた。
 くるりと店内を見回すと、丁度空いている時間なのか客は片手で足りる人数しか居ない。そしてそのまま真鍮製のノブに手を掛けたまま窓際の席を見ると、碧の瞳がユーリを見つめていた。嬉しそうにユーリは紫色の瞳を細め、先客の向かいにどかりと腰を下ろした。
「よう」
 ユーリの挨拶に先客も『あぁ…』と返した。
 先客ことシュヴァーン・オルトレインは、先日ユーリと会った時と変わらない席に座っていた。隊長主席が纏う黄金色の甲冑は外され、オレンジ色の長衣を羽織り黒いゆったりとした服を着ている。深紅の剣は彼が座る隣の席に立てかけられていた。テーブルには珈琲とハードビスケットが数枚乗った皿が隅に追いやられている。中央を占拠するのは多数の書類。遠目からは何の書類か不明だったが、真横に立つ程度まで近づくと女性の肖像画が描かれていると分かるだろう。それも一枚二枚ではない。ユーリはその内の一枚を手に取ると、しげしげと見つめた。
 年齢的にはシュヴァーンよりも年下だろうが、ユーリより年上だろう。整った顔立ちは美人に属するだろうが、決して華美ではない。質素なくらいのエプロンドレスに、セミロングがよく似合っている。
「何だこれ?」
 シュヴァーンは疲れた吐息を漏らすと、ぼそりと答えた。
「縁談相手の肖像画だ。君が手にしている女性は、エステリーゼ様の侍女だ」
 ユーリは生返事をしながら、他の肖像画も手に取って眺めた。貴族の令嬢らしき肖像画もあれば、騎士団で見かけた事のある女性、果ては所属するギルドの名前が記された肖像画もある。階級もタイプも様々だが、シュヴァーンの歳に近い女性が多い印象を受ける。
 興味も無いのに物色するユーリの目の前で、シュヴァーンは只管ペンを走らせている。とても整った美しい筆跡で、踊る様に軽やかに白い便船に文字が綴られている。伸ばされた背筋に軽く引いた顎、伏せた碧色の瞳はなんだか憂いを帯びている。色黒い肌の指先が握るペンは黒檀のように黒い面に、鮮やかなオレンジの花の彫刻を散らした美しい一品だ。ユーリは内容に全く触れる事なく、シュヴァーンの書く姿を暫く見つめていた。
 耐えきれなくなった様に、シュヴァーンが書面に向かいながら言う。
「青年、何か奢ろう。好きなものを頼むと良い」
「そうこなくっちゃ」
 にやりと笑って注文したユーリだったが、言い終わって立ち上がったのはシュヴァーンだった。ふらふらとカウンターの店主の隣に立って一言二言言葉を交わすと、奥の暖簾を潜って消えてしまった。
 なんだぁ、便所か? そう首を傾げるユーリだったが、待っている間は暇を弄ぶしかない。
 仕方なくシュヴァーンの書き綴っていた書面に目を落とすと、どうやら全てが縁談に対しての断りの内容のようである。非常に丁寧でありながら、相手を傷つけないよう細心の注意を払っているのを感じてしまう文面である。レイヴンは基本的に女性に優しいが、シュヴァーンの場合はそれ以上に女性を丁寧に接する事を心がけているのだろう。きっと手紙を渡した後、一度はお詫びにお茶でも…とフォローも忘れない事だろう。
 シュヴァーンは尽く己の深い所に踏み込む者を拒絶している事だろう。
 そう考えると凛々の明星は振られたのかもしれない。
「どうかしたのか?」
 いつの間にか真横に立っていたシュヴァーンが声を掛けて来た。内容の割には淡々としていて、心配して訊ねているのかすら疑問に思う。声に反応して見上げれば、シュヴァーンはユーリの前に1つ器を置いた。ことんと木製のテーブルが小気味よい音をたてる。
 深めの白い器には、白玉とバニラアイス、四角くカットされたシフォンケーキに白桃や蜜柑が添えられている。全体的に白いイメージを引き締めるのは、甘く煮て赤黒く光る小粒の小豆と黒蜜の描く線である。嬉しさに思わず口角を上げるユーリだが、匙を手に取る前に目の前に腰掛けたシュヴァーンをまじまじと見つめた。
「おっさんが作ったのか?」
「そうだ」
 シュヴァーンはさらりと答えると、再び縁談相手に送るお断りの手紙を綴り始めた。
 白玉にバニラアイスを絡めて頬張ると、アイスでは決して感じられない滑らかな弾力を感じる。甘く滑る舌触りを楽しみながら、ユーリはシュヴァーンが書き綴る様を黙って見つめていた。
 とても詰め所や城にあるだろう隊長主席の私室で書く事が出来ない内容だろう。ここに来ているのはシュヴァーン・オルトレインという一個人であり、完全なプライベートの時間なのであろう。彼の部下、上司だろうフレン、レイヴンを知るギルドさえ知らない。ユーリは黒蜜とバニラの奏でる風味を心ゆくまで堪能しながら、安堵に似た気持ちで身体の余計な力が抜けるのを感じた。
「大変そうだな」
「そうだな」
 シュヴァーンの返答は簡潔で、とても大変そうに聞こえない程淡白だった。
 だがユーリやシュヴァーン隊も与り知らぬ事ではあるが、この断りの手紙を書く作業は非常に大変な事であった。大変な事を繰り返すうちに慣れてしまってはいるが、シュヴァーンが手に出来る数少ない休息の時間を確実に削ぎ落としている事は確かである。だが、恩恵というのが何一つ無い訳ではない。断り続けた故に、シュヴァーンの女性に対する交友関係の広さは帝国1に達しているのだった。城の廊下で、階段や掃除をしている部屋で、彼は多くの麗しい知人と再会しては他愛無い話を交わすのだ。女性にとっては失恋はほろ苦くも甘い過去となり、憧れと慕う気持ちを募らすのだった。
「おっさん」
 白桃を飲み込んだユーリの声掛けに、シュヴァーンは顔を上げた。真面目な眼差しを向ける端麗な顔立ちが、黒蜜を滴らすスプーンを持っている事で台無しだとシュヴァーンは思った。
「騎士辞めて、凛々の明星に来いよ」
「嫌だ」
 シュヴァーンはきっぱりと言うと、ペン先でユーリの抱える器を指した。
「青年の事だ。きっと毎日の様に甘味を作らされる」
 何という酷い断りであろうか。神はこの世界には居ない。
 ユーリの奥歯に転がり込んだ小豆が弾けた。