涙に揺らぐ幻影

「レイヴンさんひどいですーーっ!!」
「どどどどうしたの!?チェルシーちゃん!」
 ぼろぼろと大粒の涙をまき散らしながら、猫パンチよりも可愛らしい握り拳でぽかぽかと叩かれる。普段リタ・モルディオの厚い本の角で耐性のあるレイヴンでも、叩くごとに揺れるツインテールっぽいピンクの髪の方が心理的に大ダメージだ。小さいレディが泣いている。一体どうしたんだと、思わず声が上擦るのであった。
 叩く手の勢いが弱まり吃逆を上げるチェルシーの前に、レイヴンは胡座をかいて座った。胡散臭い中年の印象が吹き飛ぶ程に、優しく微笑みながらハンカチを渡す。小さい花の刺繍を散りばめた桜色のハンカチだ。
「ほいほい。可愛い顔が涙で台無しよ」
 そう言ってチェルシーにハンカチを握らせて、真っ赤に腫らした目元を拭わせる。吃逆が落ち着くのを待って、レイヴンは柔らかい声で問いかけた。
「どうしたのよ。おっさん、何かチェルシーちゃんに悪い事しちゃったかしら?」
 年齢不相応に可愛らしく首を傾げる男と、まだまだ幼さの残る少女には全く接点がない訳ではない。彼等を含むアドリビトムの弓使いは共に修錬する事があるのだ。これだけ腕に覚えのある人間が揃う事は珍しく、互いの技量の向上にとお誘いもしばしば。とは言えチェルシーはウッドロウの隣が指定席のような感じである。それにチェルシーの祖父は国外にも名が知れた弓の名手であり、チェルシーは幼くともアドリビトムでも一目置かれる腕前である。レイヴンが彼女に声を掛ける機会はそう無い。
 問いかけはしたが、レイヴンには心当たりが無いのだ。
「ウ…ウッドロウ様が……」
「うんうん。王子様が?」
 頷きながら、あの女子にモテモテの美男子王子様を思い出す。滲み出るロイヤルなオーラがそうさせるのか、まるで深夜に焚火の傍に吸い寄せられる虫達のように麗しい女性陣がホイホイと…。焚火を挟んで座るウッドロウの回りには、レイヴン好みの可愛い子達が…!あぁ、おっさんだってモテたいなぁ!
 レイヴンの頭の中では頭を振って幻影を吹き飛ばそうとしているが、無駄な努力である。フェミニスト故に女性の幻影が払えぬとは、自業自得と笑うには哀愁漂うものがある。
「今度の弓の修錬、レイヴンさんとやるって……」
「うんうん。おっさんと……ぉ?」
 ぽぽぽぽんと小気味良い音を立てて女性の幻影が消えて行く。目が覚めたのか、レイヴンは目を赤く腫らすチェルシーをしげしげと見てしまった。
 チェルシーの祖父、アルバ・トーンは弓術の神様と一部では呼ばれるお人である。弓に触れ、その技量を伸ばす人間ならば誰もが耳にするだろう名前だ。そんな神様の住む王国の王子ウッドロウは、幼少の頃からアルバ師直々に弓術の指南を受けている。チェルシーの技量も素晴らしいが、ウッドロウも引けを取る事は無いだろう。更に王子であるからか、剣の腕もピカイチだ。ぽんと音を立ててウッドロウの腕に美女が縋り寄る様を思い描き、レイヴンは嫉妬の嵐に散々と内心を掻き回されるのである。
 そうじゃない。そうじゃないだろう、レイヴン。そう自分に突っ込んで美女の幻影に退場して頂き、冴え無い中年男を据え置く。
 レイヴンの弓は他の弓術を扱う仲間の弓は逸脱している。レイヴンの弓は世界的に見ても扱う人間の少ない変形弓と言う、弓と剣に変形する特徴を備えた物だ。接近戦も行えるという利点はあるが、ちょっとでも扱いを間違えると支障を来す。実戦に不向きな繊細過ぎる武器と言われてすらいる。その為にレイヴンの一般的な弓の扱いは、この船に乗る一流の弓術の使い手よりか劣っているだろう。
 ウッドロウが希望しても、おっさんが教える事なんて無いんじゃない? 恨みがましく銀髪美形で完璧な王子様を見上げるレイヴンである。
 ぺたりと床に押し付けた腿の裏側に、重い振動が伝わって来る。チェルシーから視線を上げると、こちらに向かって噂の王子様が小走りでやってきた。よっこいしょどっこらしょと調子を付けて腰を持ち上げ立ち上がると、チェルシーを羽織の影に隠す。好きな男の前では泣き腫らした顔は見せたく無い乙女心を、レイヴンはちゃんと分かっているのだ。
 チェルシーがウッドロウに好意を寄せているのに気が付かない鈍感は、スタンかアスベルくらいである。
「やはり貴方の所にいましたか」
 雪のように柔らかい銀髪の長髪に、雪の照り返しで色の黒くなった肌。コントラストの差の合間にある、整った顔立ちや気品漂う口元、知性溢れる瞳と言う事無しの要望である。実際に真面目で温厚、王たる心構えも出来た将来に光を感じられる青年である。これで女性がとろんと瞳を潤わせて見つめなければ、おっさんはこんなにも嫉妬しないのに! と歯噛みする。
 それでもウッドロウの口調から、チェルシーが涙を振り撒きながら走って行った事は知っているようだ。背後で嗚咽を噛み殺しているチェルシーだが、彼女が未だに泣いているかまでは分からないようだ。また涙があふれそうなレディには触れないよう、レイヴンは少し不機嫌そうな顔でウッドロウに言った。
「なんだか、王子様はおっさんと弓の手練したいって言ってるらしいじゃない。でもさ、おっさんは王子様に教える事無いと思うわよ」
「そんな事はありませんよ」
 ウッドロウは微笑しながら穏やかに否定した。
 全く、女心ってやつ分かってないんじゃないの? チェルシーちゃんは愛しの王子様と過ごせる神聖な時間に、おっさんが入り込むの嫌がってるのに。冷静な分析の余りの冷酷さに、レイヴンは内心でハンカチが手放せない。それでも可愛いチェルシーちゃんの為と涙を呑むレイヴンであった。
「私が長剣も扱う事は、貴方もご存知ですね?」
 レイヴンはそうね、と相槌を打つ。ウッドロウは故郷の王国で代々継承される立派な長剣を下げている。スタンやルーティ、リオンやフィリアの持っている剣とどことなく雰囲気が似ているが、どれもが現代の鍛冶技術で作れるかと言うと難しい一品だろう。魂の鎚の首領が模倣品を作ったとしても、再現しきれない何かを帯びている。しかも儀礼用ではなく、実戦に用いている長剣だ。
「貴方の弓を用いる所作を真似ると、長剣を用いた動作にスムーズに移行出来る事が分かったのです」
 ウッドロウの言葉にレイヴンは顔には出さなくても、血の気が引いて行くのを感じた。確かに『レイヴン』は変形弓と短刀を用いて、様々な間合いに対応してみせている。しかし、レイヴンの根底には変形弓と長剣を用いた戦闘を行う人物が存在するのだ。
 弓と長剣の組み合わせで戦闘を行う人間は、とても稀だ。だがゼロではない。レイヴンは自らの迂闊さを悔いた。
「それに、貴方はガルバンゾ国の出身でらっしゃるとか…」
「それがどうかしたの?」
 背中に冷や汗が伝うのをレイヴンは感じた。
 そんなレイヴンに気が付かず、ウッドロウは穏やかに続けた。
「私の先生が仰るには、ガルバンゾ国には剣と弓の双方に秀でた騎士がおられるそうですね。先生は私に伝える事はもう殆ど無いだろうと語られましたが、その騎士ならば私に更なる指導を与えてくれるだろうと言われたのです」
 自らの実力不足を感じているのか、ウッドロウの言葉の端々から騎士に対する期待を感じた。
「未だにその騎士にお会いする機会が得られません。いつか…とは思っています。しかし、熾烈な戦いは強くなるのを待ってはくれません」
「おっさんが教えられる事なんて、なーんもないって」
 ウッドロウの言葉を遮る様に、レイヴンは語気を強めて言った。言葉の暢気さとは裏腹に拒絶に近いものを感じさせる。
「しかし…」
 食い下がろうとするウッドロウに、レイヴンは思わず笑ってしまう。彼の行動の対象が冴えないおっさんで、世界中の美女達はさぞや怒り心頭だろうなぁ…と。それでも王族の恋愛や友人関係は政治が絡むものである。そういったものが一切排除されたこの空間は、彼等王族にとって奇跡に近い存在だろう。
 悪気がある訳ではないし、面倒に発展する事もきっとない。断る理由がレイヴンにあるならば、美形に塩は送らないって奴だ。
「王族たる者、強くなろうって心意気は凄く良いと思うわ。世界中戦争だらけだし、腕っ節もあるに越した事無いしね。でもね、今の王子様は一番大事な事を忘れちゃってるんじゃない?」
 腑に落ちないウッドロウの様子に、レイヴンは頭の後ろに手を組んですっと横に身を引いた。
 背後で涙を拭いていたチェルシーが、いきなり紫のカーテンが取り払われて憧れの君がいる様子に目を真ん丸くする。ウッドロウもチェルシーの目元が桜色のハンカチで拭い過ぎて赤くなっている様に驚いた。両者の反応を楽しむ様に、間に居るレイヴンはウインク1つ。
「国民泣かしちゃ、駄目よ」
 ウッドロウは目を大きく見開き、暫く開いた口が塞がらなかった。滅多に見れない顔を拝見し、レイヴンはそろりそろりとその場を後にした。
 その後、上手く逃げられたのよとルーティに笑われるのは別の話である。