応戦挑戦

 シュヴァーン・オルトレインの経過は良好だ。アレクセイ・ディノイアは血圧や心拍数を定時ごとに記録して纏めた一覧表の数値を見て、安心した様子でそう思った。人魔戦争が終わって間も無く、騎士団長を任されたばかり、見渡すばかり敵ばかりの環境でこれ程ホッとした息を付いたのは何時振りだろうと振り返る。アレクセイの片腕になるだろう青年が、騎士生命のかかった大病…いや、今後の生命を脅かす病を克服した事を無言で心から喜んだ。
 もしこの場にアレクセイ以外の騎士が居たならば、眉間に皺を寄せ過ぎて消える事のない痕になった男が薄らと唇の端を上げて微笑しているのを見れたかもしれない。真新しい深紅の騎士団長の鎧に身を包み、騎士の鑑と呼ばれる存在も何処か弛緩した様子で椅子に凭れている。銀髪は柔らかな日差しに穏やかに輝き、鎧と同じ色の瞳は嬉し気に細られた。
 誰もいない執務室の空気を、軽いノックが二度震わす。アレクセイはその振動に表情を緊張させ、どうぞと扉の向こうに言った。
 扉を開けて現れたのは、オレンジ色の長衣。豊満な体格の女性をなんとも窮屈そうに収めた衣の色を見て、アレクセイは一拍置いてシュヴァーン隊の色だと気が付いた。完璧なる団長がそのような間を置いてしまったのも、女性騎士がかつての上官の奥方であったからだった。アレクセイが入団した頃から知っているだろう女性は、優雅に扉を閉めた。洗練された一礼をした騎士に、アレクセイも席を立って敬礼した。
「御足労痛み入ります、ヴィア夫人」
 ヴィア夫人。本当にそう呼んで良いものか、アレクセイは毎度呼ぶ度に自問する。
 騎士団の誰もが恐れた男の愛妻は、人魔戦争を境に未亡人となった。上流階級の貴族には珍しいざっくばらんな夫人は、その性格の物語る通り一族の衰退には全く感心がなかった。遠縁の者の言葉にも耳を貸さず、当主の妻は財産の名義をオルトレインに変えてしまったと噂もある程だ。
 しかし、彼女は名前で呼ばれる事を大層嫌がった。名前で呼んで良いのは夫だけだと豪語する。そして離婚していないのだから、旧姓で呼ぶのは失礼だ。そうなれば、騎士達はヴィア夫人と呼ぶしか選択肢はなかった。
 貴族の利権が目紛しく絡む世界で、これ程剛胆な主張はなかなかお目に掛かれないだろう。アレクセイは強かさを通り越して、夫人に一種の畏怖を感じていた。
「座ったままでいなさいな。私達の団長は厳格で丁度良いのよ」
 裏表のない屈託ない笑みで答えたヴィアに、アレクセイは失礼と言って椅子に腰掛けた。
 磨かれた執務の机に、真っ白い紙に美しく清書された書類が並べられた。どれもシュヴァーン隊の運営に関係する重要な書類ばかりだろう。アレクセイは白い紙に負けぬ程、色白い剣を握る者の手でそれらを捲り認め印を押して行く。
「ご機嫌ね、ディノイア君」
 団長を君付けで呼べる騎士も彼女くらいだろう。アレクセイは怒りを滲ませる事なく、書類を検分しながら答える。
「そう見えますか?」
「シュヴァーンの体調も随分と安定しているわ」
 人魔戦争の生き残りにして唯一の騎士団在籍者は、戦争帰還後から体調不良を起こしていた。傷が癒えたというのに、血色は良く無く息苦しそうで酷い時には意識すら失った。咳も頻繁にしていたが、発熱等の風邪症状もない。誰もが殆どの人間が帰る事の叶わなかった悲惨な戦場で負った、心の傷が癒えないのだろうと思っているだろう。
 その状態が劇的に回復したのは、ここ数ヶ月の事である。誰もがシュヴァーンが戦争の事を乗り越え、隊長主席の任務に集中している、あるべき姿になったのだと喜んでいるだろう。
「そのようですね」
 ヴィアの何気ない一言に動じる事なく、アレクセイは相槌のように答えた。
 重篤な心臓疾患で、徐々に心機能が低下していると発覚したのは隊長主席に任命した後だった。アレクセイはその事を全く公表していないし、シュヴァーン本人にも堅く口止めしている。それなのにヴィアは『体調が安定している』と言ったのだ。シュヴァーンの不調が心の傷などという根拠のないものではないのだと、分かっているのだ。
 また厄介な事にヴィアは、アレクセイがシュヴァーンの体調が安定した事を喜んでいるのも分かっている。このまま不調が続いて任命したばかりの主席が辞任する事で問責が間逃れない事もそうだが、ヴィアは先代騎士団長と彼女の主人の関係も知っている為にそれ以上も察しているのだった。隊長主席とは団長にとっては公私ともに重要な存在だったのである。
 アレクセイは話題を変えようと、顔を上げてヴィアに言った。
「先日は差し入れをありがとうございます。とても美味しかったです」
 ヴィアは目を丸くしてきょとんとした顔で言葉を受け止めたが、少し間を置いて思い当たったのか声を上げた。あぁ、と声を上げると、彼女の健康そうな白い歯が覗いた。
「あのアップルパイは私が作ったんじゃないのよ、ディノイア君。シュヴァーンが作ったのよ」
「シュヴァーンが? 彼は甘い物が苦手ではありませんでしたか?」
 アレクセイは驚きを隠さず聞き返した。
 シュヴァーンの甘味嫌いは騎士団ではそれなりに有名であった。当直の長い時間では当然、飲み物を飲んで一息つく時間がある。気の利いた騎士なら、当直を担う他の騎士の飲み物を用意するだろうし菓子まで用意する周到な者もいるだろう。その中で、シュヴァーンは甘い物に一切口を付けなかった。飲み物は何時も砂糖無しだ。そんな彼が進んでアップルパイを作るとは到底信じられなかったのだ。
 ヴィアは珍しいアレクセイの驚きを、楽しむ訳でもなく納得した様に答えた。
「そうね。シュヴァーンが甘い味を味見する時は、毒でも舐めるみたいだもんねぇ」
 アレクセイは1つ唸るとヴィアを見上げた。
「体調が安定して間も無い時に、そのように苦手な味の調理は本人の負担になりませんか?」
 その言葉を聞いてヴィアが驚いた様な表情になった。アレクセイはヴィアの表情の意味が分からず、怪訝そうに見上げるばかりだ。
 両者がそのように見つめ合って、先に動いたのはヴィアだった。彼女は笑いを堪えられず、口元を歪めアレクセイに背を向けて背中を震わせた。アレクセイも年下の騎士ならば、女であっても彼女程年齢を重ねていなければ、恐らく不快を露にした事だろう。しかし親衛隊すら勤めた事のある騎士の態度は、アレクセイを困惑させるには十分だった。
 一頻り笑ったヴィアは、よろよろと姿勢を正して再びアレクセイに向かい合った。
「ディノイア君。主席になったのがシュヴァーンであって、本当に幸運だったわね。他の子じゃ、到底勤まらないかもしれないわよ」
「どういう意味です?」
 おやおや、ディノイア君でも分からない事があるのねぇ。そんな事が書いてありそうな顔で、ヴィアはアレクセイを見つめた。アレクセイはイライラしながらもヴィアの解答を待った。ヴィアは勿体振った口調でこう答えた。
「毒を以て毒を制す…ってところかしら」
 アレクセイが腑に落ちない表情でヴィアを見つめていたが、ヴィアは微笑みながら敬礼して退室して行った。留める理由も見つからず、アレクセイも見送るばかりである。団長たる者が私的な会話を長々と執務室でするべきではないという思いも、少なからずあっただろう。
 もし、アレクセイが問いつめていれば、ヴィアはこう答えただろう。
 君はアップルパイを温かいうちに召し上がったかしら?
 当然アレクセイはそれでも分からなかったろう。だが賢明なる読者諸君、食べている間のアレクセイの様子を想像して欲しい。果たして口が利けるだろうか? 礼儀がなっていない人間は、口に物を入れながらにして喋るかもしれないが貴族は先ずそんな事はしない。また、美味しい物を食べているなら意識も食べ物に集中する事だろう。
 効果がない時もあるだろう。繰り返し出来る戦法でもないだろう。だが、成功した時の事を考えれば、シュヴァーンでなくとも試したくなるかもしれない。
 シュヴァーンが好意で作ったのよ。しかも、男にね。そこまで言ったら、アレクセイも理解したかもしれない。