根底より芽吹く今

 世界的な強大な危機を脱し、世界は平和に向かって駆け足で進み出した。国々は連携を強める為に他国と連絡を交わし、ある国は重税に苦しむ民に同情する文を渡され、ある国はあまりの疲弊した有様に援助を申し出た。国交が復活し知識が流れれば民は冒険譚に耳を傾け、夢と希望は乾燥した荒野のような世界に雑草のようでも確かな色彩の様に広がりつつあった。
 ガルバンゾ国の絢爛豪華な廊下で、ウッドロウは半ば夢の中を歩いている感覚に陥っていた。しかし、王子の内心を誰も察する事は無いだろう。長い銀髪と雪に焼けた色黒い肌とのコントラストは目を引き、整った顔立ちと長身に潜む力強さとロイヤルオーラは隠す手立ても見つからない。女性は溜息を零して見つめ、男性ですら高貴な立場の人間と察して姿勢を正す。その様子を二代に渡り仕えてきたダーゼン・ビーグランは誇らしく思いながら続いていた。
「噂に違わぬ、素晴らしい王城だな」
 手入れの行き届いた庭園を臨み、吹き抜けを駆ける風は南風と思う程に暖かい。飾られた花の香りを纏い風は深紅の絨毯の上を無邪気に跳ね回り、騎士も侍女も穏やかな様子で行き交っている。行き深い北国の王国と比べれば違いすぎるとはいえ、行き届いく調和と人々の穏やかさは国の何もかもを示していると言えるだろう。心地よい空気をウッドロウは感じていた。
 ウッドロウの呟きにダーゼンは深々と頷いた。
「左様でございますが、この国も十年前までは魔物との熾烈な戦いで疲弊しておりました。以前御父上の書状を携え使者として訪れた時、このダーゼンの心にも染み込む悲嘆が包んでいたものです」
 王国の代表として公式な訪問の為に訪れていたウッドロウも、その言葉に小さく頷いた。
 10年前の人魔戦争という人間と魔物の大規模な戦闘が繰り広げられたガルバンゾ国である。騎士団には戦争生存者と言う行きた伝説が現役で所属している。他国の騎士達から羨望の眼差しを受け、如何なる軍隊であれ一目置く国である。
 前を歩く案内の騎士が歩みを止め、道を譲る様に横に下がった。視線の先には深紅の絨毯と白亜の壁、吹き抜けに吊るされたシャンデリアの光りに劣らぬ白銀の鎧を纏った騎士が待っている。アドリビトムで行動を共にしたフレンは、非の打ち所の無い敬礼でウッドロウを迎えた。
「ようこそ、ウッドロウ・ケルヴィン殿下」
「アドリビトムに居る時と同じ様に接して欲しい。フレン君」
 生真面目を絵に描いたようなフレンの敬礼を、ウッドロウは苦笑を浮かべて受け取った。あまり王族として扱われる事を快く思わない気さくな性格である事を知っているからか、フレンも敬礼をしながらも柔らかい笑みを浮かべていた。
 しかし次の瞬間、フレンが申し訳無さそうに表情を曇らせた。
「すみません、ウッドロウさん。本日は僕が貴方の案内をする事になっていたのですが…」
 フレンは短く整えた金髪の下で蒼い瞳を申し訳ない様に細めた。紡がない言葉の先にあるのは、任務であり他国の人間に伝えられない情報であるからだ。
 見目麗しい男達が見つめる間には、無言に労り合う空気が流れた。その様子を熱に浮かされた様に侍女達に見守られていたりするが、本人達は気が付かない。ダーゼンは黙して主の会話に口を挟まない。もしチェルシーが隣にいたならば、ピンクの髪を天井に迸らせて警戒を露にした事だろう。この場にいない彼女の代わりを果たして空気を引き裂いたのは、オレンジと黒という黄昏色の男だった。
「フレン。君はそのまま殿下の案内を続けなさい」
 二人が同時に声の主を見て、同じ様に目を見開いた。
 彼等の目の前には行きた伝説と呼ばれる人魔戦争の生存者にして、騎士団隊長主席シュヴァーン・オルトレインが立っていたからだ。左右比対称のオレンジ色の服と黄金色の甲冑は、剣と変形弓の異色の組み合わせの中でも違和感を感じさせない。フレンにとっては最も尊敬する騎士であるとともに、ウッドロウにとっても剣と弓術に秀でた師事したいと願う対象でもあった。シュヴァーンとレイヴンが同一人物であると知れ渡っている今であっても、実際に目の前にすると同一人物の片割れの印象が掻き消え欠片も見えなかった。
 フレンはおずおずとシュヴァーンに訊ねた。
「団長は了承されて…」
「いない。だから急いでる」
 シュヴァーンは落ち着き払って言う言葉にフレンは目を丸くする。この言葉を聞いている誰もが、あのアレクセイ団長の怒り狂う様を想像して身を震わせた。あの恐ろしい団長に真っ向から反論し実行してしまうのは、騎士団ではシュヴァーン唯一人である。
 そこでシュヴァーンは姿勢を正しウッドロウとダーゼンに敬礼した。その見事な敬礼に、ウッドロウは自らの姿勢が正されてしまう。真っ直ぐ見つめる碧の瞳は、なるほどレイヴンと同じ色だとウッドロウは思った。騎士の声は硬質で力強く響いた。
「初めまして殿下。シュヴァーン・オルトレインと申します」
「イザーク王の息子、ウッドロウ・ケルヴィンです」
 黄昏色の騎士は姿勢を崩さず淡々と言葉を紡いだ。
「私は早急な魔物討伐の任務を遂行せねばならなくなりました。殿下の要望に応えられない事を申し訳なく思いますが、これも民の生命を優先させる私の勝手な判断です。無礼をお許し頂きたい」
 シュヴァーンの言葉を遮る様にフレンが強く訴える。
「お待ち下さい、シュヴァーン隊長。今回の任務は私で十二分に対応出来ます。隊長が私の任務を引き継ぐ理由はありません!」
「同じ事をアレクセイにも言われたな」
 生真面目なフレンの声に叩かれ、シュヴァーンは困った様子で顎を擦った。思わず指先に視線が向くと、レイヴンの時にも生やしていた無精髭が顎にぽつぽつと生えている。ガルバンゾ国は元々貴族中心に構成された騎士団であったので、彼程の地位であれば前代未聞だろう。
 ウッドロウの腰に下げられたイクティノスが、呆れ果てた様に言った。
『驚いたな。彼は逃げ出すつもりのようだぞ』
 その声にウッドロウも頷かねばならなかった。
 フレンの訴えをのらりくらりと避けている様子を見ていると、シュヴァーンであるから留まっているが、レイヴンだったら今頃門の外まで出て行ってしまっているかもしれない。任務に忠実で歴代最高の実現力を持つとされる団長の懐刀だが、公の場には滅多に出て来ない事で有名であった。その為に彼の存在は未だ多くの謎に包まれている。
 ウッドロウは一歩踏み出し、声を掛けた。
「少し良いですか?」
 言い争いになりかけていた両者が、拍子抜けた様にウッドロウを見た。ウッドロウはシュヴァーンに視線を合わせ、静かに言葉を続けた。
「シュヴァーン殿。貴方は以前、私に教える事は何も無いと仰られました」
 先程初対面の挨拶を交わした者達にとっては変な言葉ではあるが、ウッドロウは以前レイヴンにそのように言われた事があった。以後もウッドロウがレイヴンに修錬に付き合う事を願っても、一度も叶った事が無い。このままでは今回もその願いは叶わないだろう。
 だが、ジルディアの件が解決するまでの間、ウッドロウは何もしなかった訳ではない。ウッドロウは依頼でレイヴンと行動を共にする時は、彼の一挙一動を注意深く観察していた。レイヴンの動きはわざと無駄を多くしたものであったが、動きの根底はウッドロウが参考にするには十分過ぎる部分が多かった。不本意ながらレイヴンから技を盗むということで、ウッドロウは剣と弓という二つの武器の連携を確かなものにしていったのだ。
「しかし私は貴方から学ぶ事は多いと感じています。私も魔物討伐の任務に同行させて頂きたい」
 シュヴァーンは驚いた様子で碧の瞳を僅かに開いた。背後に控えるダーゼンからも動揺の気配が感じられた。
「フレン、君の任務はシュヴァーンに引き継いでもらう」
 声は彼等のいる場所から一つ上から、吹き抜けを降りて響いた。
 その場にいる一同が見上げる形で声の主を見ると、そこには白銀色の髪に深紅の鎧を着込んだ偉丈夫が立っている。彼こそが騎士団団長アレクセイ・ディノイアであることは彼等に説明する必要は無かった。アレクセイは深紅の瞳を細め、良く響く低い声で言った。
「ウッドロウ殿下。私的な理由であり恥ずかしい事だが、貴君との交渉を後日に変更させて頂く。貴君がこの国に戻られる頃、再び交渉の場を設けさせて頂こう。今回の件で貴国が不利になる事は無い。約束しよう」
 そして殺意にすら似た怒気を滲ませ言い捨てる。
「シュヴァーン、殿下に無礼が無いようにな」
 隊長格の騎士でさえ震え上がる声色を、一つ肩を竦めシュヴァーンは聞いた。背後ではウッドロウがダーゼンに今後の事を手短に指示を出す声が聞こえ、フレンは見回りに戻りますと去って行く。シュヴァーンは後頭部を軽く掻くと、レイヴンに似た声色で呟く。
「俺が教える事は本当に無いんだけどなぁ…」
『そう思ってるのは、貴殿だけだろうな』
 イクティノスの言葉にウッドロウは小さく微笑む。そして穏やかに頭を下げた。
「御指導の程、宜しくお願い致します。シュヴァーン殿」
 予定以上に長くお付き合いしていただけて、光栄です。とは流石に言わない。