影だった人

 ダングレストに設営されたシュヴァーン隊の仮詰め所は、ハリーが想像していた騎士団とは印象が違っていた。ハリーを含めたダングレスト出身者の子供達は、祖父であるドン・ホワイトホースがこの地から騎士を追い出した武勇伝を聞いて育つものである。ダングレストの子供達にとって、騎士団は悪の代名詞だった。
 しかし、ハリーは祖父の亡き後を継ぎ『天を射る矢』の首領になった男である。子供じみた印象を未だに引き摺る事は無い。それでも貴族主義の強い帝国の空気は堅苦しく、細かい堅い融通利かないと三拍子揃った組織である事は分かっていた。ユーリ・ローウェルが騎士団団長であるフレン・シーフォに抱く苦手意識を、ハリーもなんとなく理解出来た。騎士団に属する個人ではなく、騎士団という組織が苦手なのだ。
 それらを踏まえたった今、ハリーが扉を開けて中に入った詰め所はどうだ。
 仮詰め所は潰れた居酒屋兼風俗店を改装したものであるが、内装はあまり弄られていなかった。砂でじゃりじゃりと擦れるフローリング、喧嘩しても簡単には壊されない頑丈なテーブルと椅子、依頼と報酬の駆け引き、どれをとってもダングレストでは有り触れた風景だ。あちらではオレンジ色の隊服の騎士とギルドの人間がテーブルを挟んで何かを相談し、こちらではオレンジの腕章を付けた給仕が『本日の日替わり定食は終了しました』と泣き崩れる客に対応している。
 なんなんだ。ハリーの頭の中はこの言葉でいっぱいになった。
 オルニオンならともかく、ここはギルドの巣窟ダングレストである。ギルドと騎士団が敵でなくなったとはいえ、肩を並べるなど考えられない空気が最も強い地域だ。確かにギルド内でも騎士団のシュヴァーン隊の評判は上々である事は把握しているが、これ程までに馴染んでいるとはハリーも想像していなかった。
「ハリー殿。こっちこっち」
 ボーっと入り口で立ち尽くしていたのだろう、ハリーは声に袖を引かれるように足を向けた。茶と持ち合った菓子と資料や地図が広がり相談が交わされるテーブルを過ぎて壁際まで進むと、にこにことハリーを手招く声の主を見つけた。先程ユニオン本部で合ったばかりの帝国評議会議員、ダミュロン・アトマイスだった。黒い議員の服は騎士団の詰め所であっても浮き立つ。
 テーブルの上には書きかけの書類をいくつも重ね、サンドイッチと紅茶の軽食が隅に追いやられている。同席する事を一瞬躊躇ったハリーだったが、ダミュロンは愛想の良い笑みを浮かべて促すばかり。渋々座ったハリーに、給仕の当番らしき騎士が飲み物を伺いに来た。ハリーは水で良いと答えると、カフェオレが出て来た。白い陶磁にオレンジのラインが一つ走るシンプルなカップに、良い香りの立ち上るカフェオレが注がれている。
「何か書類に不備でもありました?」
 カフェオレに砂糖2杯入れた所で、ダミュロンは訊ねた。口調は事務的な事を話す時は冷徹とすら感じる印象なのに、今は世間話でもする程に穏やかだ。
 ハリーは明るさすら滲む口調に戸惑いながらも、小さく首を振った。
「書類は非の打ち所がなかった」
「だよね。俺の書類に不備なんて有り得ないし」
 ダミュロンは口を開けて快活に笑う。その様子をまるでレイヴンのようだと、ハリーは思わず凝視してしまっていた。ダミュロンはハリーの自覚していないだろう仕草から、内心を手に取るように察した。職業病だと僅かに苦笑いしながら。
「ではハリー殿は鴉の影を探しに来られたんですね」
「な、なんでそうなるんだよ」
 動揺するハリーだが、指摘に否定は出来なかった。
 レイヴンが帝国騎士団隊長主席シュヴァーン・オルトレインと、帝国評議会議員ダミュロン・アトマイスが演じていた架空の人物である事実。レイヴンがレイヴンという一人の人間として存在しなかった事。それらは祖父を失ったハリーには青天の霹靂と言うべき予想外の事実だった。今まで隣で笑っていた男が、今まで悪態付きながら共に歩んで来た男が存在していないなんて、ハリーは同情なのか憤怒なのか分からない感情を抱いていた。
 その演じていた男が、レイヴンのように笑い軽口を叩くと連想してしまう。それはいけない事なのか? ハリーは怒りに似た感情でダミュロンを睨んでいた。
 ダミュロンは一枚書類に目を通し、美しいサインを走らせながら答えた。
「人の影は鴉の形をしてはいません。無い物を探すのは不毛な事だと思いませんか?」
「不毛な…事…だと?」
 衝撃的な言葉にハリーの声は掠れた。
 レイヴンの正体が知れて、初めて訪れた二人。彼等を見るダングレストの住民達の視線に込められた意味を、ハリーは痛切なまでに理解していた。皆同じ気持ちなのだ。レイヴンが好きだった。レイヴンが居なくなるなんて嘘だ。でも本当に彼等がレイヴンを演じていて、レイヴンは本当は存在しなかったのか…。今の自分のようにぐちゃぐちゃに違いない。
 それを…不毛だなんて言いやがって。
 ハリーの中で何かが切れた。
「あんた達が勝手にレイヴンを演じて、勝手に俺や爺さんやギルド皆の傍に居て、挙げ句の果てに勝手に消えちまって無責任だと思わねぇのか?」
 低く怒気を含んで放たれた言葉に、ダミュロンは顔を上げた。緑の瞳がハリーを真っ直ぐ見つめる。
「俺達はレイヴンは野垂れ死にしても、誰も意に留めないって思ってたんだけどねぇ…」
 その為のレイヴンの性格だった。いい加減で胡散臭くて、人の気持ちを常に逆撫でする男を演じて来た。そうすれば何時居なくなっても誰も傷つかない、直ぐさま人々の記憶から消え去るだろうと思っていた。それが互いの為と思っていた。
 ハリーが怒りに身を乗り出しそうになるのを、ダミュロンは手で制した。
 怒鳴りつけてやろうと思って思い留まらせたのは、緑の瞳に浮かんだ真剣な光。ハリーはダミュロンもシュヴァーンも、ダングレストの民が投げかける視線の意味を理解しているんだと直感的に察したのだ。そしてこのまま感情に流されれば、レイヴンがいつも都合が悪くなるとはぐらかすように自分の問いも有耶無耶にされてしまうと思った。
 ダミュロンは弱々しく笑った。
「俺達の時代は人が死に過ぎたし、生きてる人間も色んな意味で軽んじられるのが当たり前。だから時代が変わるってのに、お前も殿下もフレン団長も古い世代の俺達を重用しやがる。古い考えなんて新しい時代の妨害にしかならねぇって、ぶっちゃけ馬鹿にしてたんだけどさ。そうかぁ、無責任かぁ…」
 しみじみと呟いて一つ瞬きをすると、そこには穏やかな議員の顔があった。
「やはりハリー殿はドンの孫でおられますな。ちょっくら苛めちゃえって思ったのですが、返り討ちにされてしまいましたね」
 そしてダミュロンは椅子を僅かに引いて、身体を横に向けた。ランプの明かりで照らされた壁に両手を掲げると、手を組み合わせる。壁に映り込んだ影をダミュロンが念入りに確認して、得意げな顔でハリーを見た。
「なんだよ?」
「この影絵、鴉っぽいでしょう?」
 壁の影絵は確かに鳥のようだとはハリーも思う。
「それ鳩じゃねぇの?」
「うっそ、そう見えちゃうの?」
 ダミュロンは目を真ん丸くして壁に映る影を見た。その様子をハリーは議員のくせに馬鹿馬鹿しいなと笑った。
 やはり、彼等はレイヴンを殺しはしないだろう。そう思う。