返事が届く前に

 バンエルティアの食堂はテラスを彷彿とさせる温かで優しい明るさと、美しく整えられたテーブルと季節の花を植えた鉢から漂う優しい香りが満ちている。食事時となれば本日のお勧めランチの匂いで、食堂からどんなに遠くてもふらふらと誘われる魅力を放っている。
 今は昼食の時間を過ぎ、午後のお茶の時間であろう。シェフやウェイター当番の者達は、嵐の如き食事時をやり過ごしてシフォンケーキに生クリームでも乗せている頃である。
 そんな時間に訪れた客人に、食堂を預かるロックスは緊張しきりだった。
「緊張する程の事ではないではないか」
 突けば棒のように倒れてしまいそうなロックスの横で、シュヴァーンは珈琲豆を煎っていた。
 旅の最中とはとても思えない磨かれた黄金色の鎧、叩いても埃すら立たなそうな橙色の隊長服。艶やかな前髪に隠れて1つだけしか見せない碧の瞳は、真剣な眼差しで熱の中で踊る珈琲豆を見ている。顎を僅かに引いて懐中時計をちらりと確認する仕草すら、窓枠を切り取って一服の絵になるほど優美だ。
「部下と共に居ると、何事も出来んでな。あぁ、それは我々がやりますとか、隊長は是非休んでてくださいとか、当番制の仕事を得るのは魔物を狩るよりも難しい」
 こんなものかな、とシュヴァーンは火から豆を下ろす。珈琲豆の香りが食堂にふんわりと広がった。
 固まったままのロックスの頭を、人差し指でちょんちょんとシュヴァーンは突いた。
「珈琲をいれて良いかな?」
「ははははい! 勿論です!」
 軍人と知ると緊張でガチガチになるロックスだが、それが骨身にまで染み込んだ規則がそうさせるのだと彼自身が良く分かっている。だからこそ、目の前の騎士がロックスにはとても不思議に思えた。
 エステリーゼの返事を待つ間、厨房を借りに来た騎士はとても穏やかにロックスに許可を求めた。拒否する理由はなく、二つ返事で許可したロックスにシュヴァーンはあれこれと訊ねる。ボールはこれを使っていいのか、この果物を使っていいのか、泡立て器はどこだっけ、レイヴンならば自分の台所のように使い勝手を知っているだろうにとロックスは思わず眉間に皺が寄っているのに気が付いた。それでも、訊ねるテンポは心地よく、決して急かさない。僅かな時間を引き延ばすように、ゆっくり時が流れて行く。
 その感覚をロックスは懐かしく感じていた。まるで、カノンノお嬢様とご両親が存命の頃のようだと思う。バンエルティア号の喧噪は、先程いた人々を締め出したように遠退いている。騎士と緊張した時間は、氷が溶けるように弛緩して来るのだった。
 カップを片手に懐中時計を見て、シュヴァーンは厨房の奥の冷蔵魔導器を覗き込む。
「流石モルディオ殿とハロルド殿の調整は素晴らしいな。このままではアイスになってしまう」
 そう言って取り出したのは、厨房で最も大きい大皿一杯に作られたティラミスだ。ひょいひょいと取り出して、1つ2つとテーブルに並べてみせる。最終的には7つにもなった大皿の上に、シュヴァーンは手際良くココアパウダーを振り掛けていく。手際よく最後の仕上げを済ませれば、シュヴァーンはふむと小さく頷いた。
「ロックス。覚えていてくれ」
 そう手招きしてくるので、ロックスは羽を羽ばたかせふよふよとシュヴァーンの隣にやってきた。シュヴァーンは隣に縫い包みのように愛らしい姿が椅子の上に乗るのを確認すると、一番手前の大皿を指し示した。
「このミントが乗ってるのが、甘くないティラミスだ。苦めに出したエスプレッソを染み込ませた生地に、さらに振り掛けてあるのも珈琲豆を混ぜたココアパウダーだ。甘くなりすぎないように作ったから、甘党達には出さない方が良いぞ」
 そして奥の方にある蜜柑が乗っている大皿を指差す。隣には苺やバナナが綺麗に並べられた大皿もあった。
「あれはクリームに蜜柑の果肉を混ぜて、エスプレッソを染み込ませた生地にはマーマレードが塗ってある。同じ方法で苺とバナナがある。そっちはジャムではなくスライスした果物が挟んであるから驚かないように」
 さらに隣に置かれた皿を指差す。何も乗っていないティラミスは、真っ白い大皿に縁取られ映えて映る。クリームも全体に均一ではなく大皿での見た目重視とあって、ロックスは仲間達の死闘をぼんやりと予知していた。
「クリームが絞ってある奴は、普通のティラミスだ。普通に甘くて、普通に美味しい………と思う。何も乗ってない皿のが、洋酒を混ぜ込んだティラミスだ。かなりきついから、子供達には絶対に与えるな」
 そこでシュヴァーンがロックスに視線を向けた。
「大丈夫か?」
「は…はい! 大丈夫です!」
 目の前の大皿いっぱいにティラミスと言う大迫力も然る事ながら、それぞれに趣向を凝らしているのだから驚きも仕方が無い。レイヴンも大量に作っては配っていたので真新しい光景ではなかったが、生きる伝説であり名立たる騎士であるシュヴァーンが作っていると思うとあまりの差に夢でも見ているのかと思ってしまうのだ。
 最後の1つはシュヴァーンが布に包んでいる。
「シュヴァーン殿、それは?」
「これは部下の分だ」
 さも同然とシュヴァーンは答えた。一拍置いて、皿はその内返しに来ると付足した。
 ロックスは失礼だと分かっていたが、可笑しくて笑いを堪えるので必死だ。ロックスの知る軍に従事する人間とは、規律を重んじ、任務に厳格で、私情を挟む等言語道断という生物に変えられてしまうのだ。騎士の鑑とすら言われるシュヴァーンは、そのロックスのイメージに全て当てはまらなくなった。規律も適当、任務は臨機応変、私情は挟んじゃいけないの? といった具合だ。なんだが、緊張していた自分が馬鹿馬鹿しい。
 ロックスが必死になっている前で、シュヴァーンは目元を和らげた。
 ナイフで一人前に切り分けると、果物用の小さいフォークとティースプーンを添える。ブルーベリーと生クリームを添えてココアパウダーを一振りすると、ロックスの前に差し出した。
「給仕する者が味が分からんでは困るだろう?」
「い、いただきます」
 シュヴァーンから盛りつけたティラミスを受け取るロックスに、もう緊張はなかった。
 今の静寂も穏やかさも、後僅かだと彼等は知っている。食堂の扉の向こうで、無類の甘味好き達が気配を殺し潜んでいる。一番に食すのは自分だと、お前にはやらんと足先で激しい攻防が繰り広げられている事だろう。ロックスの気持ちは次に向かっている。
 ロックスが一口入れて浮かべた表情に、シュヴァーンは安堵したような笑みを浮かべた。そして1つ呟く。
「…しかし、エステリーゼ様の筆がここまで進みが悪いとはな」
 失敗したなぁと、シュヴァーンは無糖の珈琲を一口啜った。