君の手紙は届かない

 リタ・モルディオの自宅の汚さを見た者は、帝都で彼女に与えられた屋敷の状況に驚く事はないだろう。使われない為に綺麗な廊下や共用スペースと、彼女の研究室の差は衝撃でもその乱雑な佇まいが彼女の住まいだと思わせる。汚いのも散らかっているのも、彼女の居心地の良さに必要で、その地域は彼女の城でもあるのだ。
 本棚の本も何度も捲られて膨張し、背表紙も痛んでいるものばかり。
 床の紙の洪水は、来訪者の尽くの足下を掬って沈めてしまう。
 彼女愛用の椅子と机は、リタ・モルディオの姿勢すら想像出来る程だ。クッションは彼女のまだ小さいお尻の形に凹んで固定され、彼女が肘を付く場所だけ綺麗に紙が退けられている。
 庭は庭師が精魂込めて手入れしているというのに、分厚い遮光カーテンで彼女の視界にも入らない。
 一般市民が見たら宝の持ち腐れだと憤る所だが、シュヴァーンは特に言及しなかった。なにせ彼の立派過ぎる屋敷はシュヴァーン隊の為に解放し、挙げ句の果てに庭に菜園やら薬草畑やら作っている始末なのだ。彼女の方がまだ、与えた者や維持する者に優しい。シュヴァーンが他人の事等、言えやしない。
 リタはシュヴァーンが持って来た書類を、紙の洪水に突き落としてからやけに静かだと思った。レイヴンに比べれば無口な程の男だが、無言で同室に居られて心地よく感じる程に仲良くはない。リタはまだ、バクティオンの一件を根に持っているのだ。あの冷たく苦しい思いは、シュヴァーンの顔を見ただけで鮮やかに蘇ってしまう。
 礼儀を重んじる騎士であるなら、退室の一声を欠かす事はしないだろう。それに、シュヴァーンの気配はまだ室内にあった。
 一体、何をしているんだろう。
 リタは珍しく考え事を断ち切って、横目でシュヴァーンを盗み見た。
 シュヴァーンは部屋の隅に備え付けられた巨大な本棚の前で、なにやら紙の束を捲っていた。レイヴンでは想像もつかない背筋が伸びた騎士が、この時は珍しく頭が痛そうに項垂れている。
 あそこの本棚には何があったかしら?
 リタは先程まで打ち込んでいた公式等すっぱり忘れて、本棚に置いてあっただろう物を思い出すのに必死になった。しかし、紙の束等この部屋には掃いて捨てるほどにある。棄てられちゃ困るわ。そう付け加えて、リタはシュヴァーンの持っている紙の束が床から拾われた物という可能性も拾い上げた。もはや目視で確認しないと分からないわ。リタはイライラしながら結論付けた。
 苛立つリタの目の前で、シュヴァーンは紙の束の最後の頁に視線を落とした。
 じっくりと見ていたのだろう。
 そして、ぽつりと呟いた。
「あぁ、リタだったのか…」
「なにがよ」
 その呟きに即座に反応した事に驚いた様で、シュヴァーンは緩慢な動きでも表情に驚きを露にしてリタを見た。シュヴァーンは驚きの顔を直ぐさま穏やかに崩して、首を振った。
「いや…特別な事ではない」
「気になるじゃない」
 疑問に思った事は明らかにしないと気が済まない性分は、学者でなくとも持ち合わせている。特に自分に関係する事柄に言及されて、無関心でいろと言われて『はい、そうですか』と従う人間がいるだろうか。それでも、シュヴァーンは微笑みなのか分からない程度に唇を歪めて言った。
「そうだな、相思相愛である事に安堵したのだな。やはり片思いでは辛いだろう?」
 リタは『はぁ!?』と声を荒げて席を立った。リタが巧みに書類の洪水を踏み分けて進む足取りにシュヴァーンが感動している目の前で、彼が持っている書類を引ったくる。書類は書類と呼ぶには厚過ぎて、リタは慌てて両手で持ち直した。
 リタが視線を落として書類を見る。
 それは幼い頃から一年に一度届けられる、リタの論文への評価を書き連ねたものだった。発表されたどんな些細な論文の全てに、その評価は下されていた。今、彼女が手にしているのは数年前に届けられたものだ。
 丁寧に評価が書き連ねられていた美しい字の連なり。評価は適切で公正、時には書き手の推論が未来の予言書にすら思えた。書き手はアスピオの学者達の足下に及ばない程、博識な人間だったんだろう。リタは尊敬と共に先生と呼べるに値する存在だった。
 そして…。
 その評価の束には必ず最後に一言が添えられていた。
 自らの署名をするだろう場所に一言。
 『賢い子。誕生日おめでとう』
 誕生日等、リタにとって大きな意味もないだろう日だった。だが、リタの誕生日を特別にしていたのは、その名を知らぬ賢者からの手紙があったからだ。手紙と呼ぶには分厚過ぎる内容でも、リタには胸を躍らせ待焦がれる程の存在だった。
 そういえば、最近手紙が来ない。
 友人に囲まれて祝われ、世界中を駆け巡り目紛しい日々を過ごしていたから忘れていたのかも知れない。しかし、思い出せば手紙が来ない事は寂しい事だった。
 リタは賢かった。シュヴァーンが知っている人物で、魔導器にこれ程詳しい人物が数える程度しか居ない事を直ぐさま察した。そして今年の誕生日に手紙が届かない事が、その人物である事を鮮明に理解させるのだ。
 リタは、自分が賢い事をこれ程まで憎らしいと思った事はきっとなかっただろう。胸が苦しく、視界がぐらりと傾ぐ。
「なんで、あんたは平気なのよ?」
 少女の喘ぐような声に、騎士は申し訳ないように目を伏せた。
 床に向けられた視界の隅で、黄金色に見えるブーツの金具が澄んだ音を立てて揃えられた。きっと敬礼したのだろうと、リタは漠然と思った。答えもなしで出て行くのか。そう詰るように言おうとした言葉を遮るように、シュヴァーンが言った。
「モルディオ殿は賢く、真実も現実も乗り越えるから…かな」
 では失礼。
 言葉は扉の開く音のように、硬質に無感情に響いた。