天才外科医の休日

 アレクセイ・ディノイアは神の手と呼ばれる天才外科医だ。
 主に心臓を専門としていて、彼の予定にはぎっしりと手術予定があり、それ以外にも救急外来の患者も執刀する事は多い。優秀な看護師のクロームが秘書紛いの事をして手に入れた休日は、アレクセイにとって数年振りの休暇になる。普段なら分刻みに書き込まれたスケジュール帳が、その一日分は真っ白である。
 この先この様な形で休暇等得られる訳ではないので、アレクセイはこの休暇を有意義に使いたかった。
 突然であれ手に入れた数時間にもなるだろう自由、その間にしようと思う事は多かった。しかし毎日を三ツ星レストランで食事を摂るアレクセイには、食べてみたい料理というものはない。部屋の片付けなど、寝に帰る程度でいつも書き貯めた手記の本が増えた程度で暇つぶしにもならないだろう。ルームクリーニングは信頼の置ける者が携わってくれていた。
 多くの者が思い浮かべる娯楽の数々も、アレクセイには魅力的には映らなかった。
 数多くの選択を選んでは消して、熟考しては否定して、結局彼が選んだのは旧友に会う事だった。
 アレクセイは電話をするだけの携帯電話を取り出し、少ない知人のカテゴリーを検索すれば直ぐに見つかった。
 天才外科医にしては少し古めかしい携帯から呼び出し音が聞こえ、アレクセイはその音に耳を傾けた。彼にしては珍しく呼び出し音を聞き続けたが、ついに『お掛けになった電話番号は…』と電子音声が告げるや否や乱暴に切った。
 医者を長くしているとどうにも自分中心になってしまうもので、アレクセイも漏れず相手が出ない事に憤りを隠さなかった。沸き上がる怒りの感情に、少し離れた棚でカルテの整理をしていたクロームが顔を上げた。
 目の前で逆光に顔が見えずとも鬼の形相だろう者を前にしても、クローム美貌は涼しげなままだ。クロームの目の前で、アレクセイはスーツのジャケットを羽織りネクタイを締める。その合間も怒気が鎮まらぬも、それに全く臆さぬ様子でクロームは訊ねた。
「お出かけですか?」
「あぁ、友人の所へ行って来る」
 アレクセイの交友関係は非常に狭い。普段も多くの人間に囲まれ、毎日食事に誘われ、後輩からも尊敬の眼差しを受け、娘はどうかと縁談を持ちかけられるアレクセイだったが、アレクセイが『友人』と呼ぶのは片手に足る人数程度である。クロームから見れば、尊敬はされど非常に個性的なアレクセイには珍しい気心知れた人物が居るというのは奇跡にすら思える。
 クロームがその少ない友人の誰かと問わないのは、優秀な彼女がその友人の中で本日中にアレクセイと会う事が可能なのが一人である事を知っていたからだった。心当たりの知人達の予定も、優秀なクロームは調査済みである。海外に出張に出かけている者、日帰りの往復が叶わぬ程の遠方で暮らしている者も多かった。その中で殆ど住居を変えず、比較的近場にすんでいる者は唯一人だった。
 クロームが捧げ持っていた手提げ鞄を受け取ると、アレクセイは行って来ると短く告げて出掛けた。
 まだまだ冬の気配が濃厚で、梅が咲いたなど名ばかりの強い寒気が空を覆い尽くしていた。天気は良いが風は非常に冷たく、先日残った雪は凍り付いて日差しでも融ける兆しを見せなかった。勤務先が病院の関係で、ロータリーにはタクシーが常に待機している。アレクセイは寒さを感じても、痛い程に凍える間もなく暖かくされたタクシーに乗り込んだ。
 自動扉に騒音まで締め出された静かな車内で、アレクセイが凛とした声で行き先を告げた。
「どれくらいで着くかね?」
「道が空いていれば、30分くらいです」
 運転手の愛想の良さそうな返事を聞いて、アレクセイはタクシーのシートに背を預けた。行き先は、とある高等学校だ。学校と言うものは敷地の確保の理由などから、基本的に郊外に多く存在する。アレクセイの目的地も、都会とは程遠い田舎の臭いすらするベッドタウンを見下ろす丘に建っていたと記憶していた。
 アレクセイが無言で窓の外を流れる景色を眺めていた。
 運転手は無用に話しかける事は無く、心地よいエンジンの振動とクラシック系のラジオ番組が流れている。低いバスの声色の司会者の声が、エンジンの低音の響きと重なってアレクセイの耳には届かなかった。空は青く、アスファルトは雪解けの水で輝き、残った雪が日差しに黄金色に光っている。梅の花だろう蕾が、木々に霞のように纏い付いて不満そうに蟠っている。
 静かだった。
 それでも、何処かで心拍のリズムを刻む音が聞こえる気がする。硝子に映り込む電光掲示板に数字が一つでも混ざっていれば、直ぐさま目で追ってしまう。それらは幻聴で、職業病という病だ。アレクセイは冷静に自己診断するのだった。
「もうそろそろ、到着しますよ」
 運転手の白い手袋が滑らかにハンドルを切る動作をしながら、器用にもそう言った。遠心力を感じながら、アレクセイは視線の先に小高い丘があるのを見る事が出来た。極有り触れた桜並木と自転車が沢山駐輪された一角、高等学校の名前が書かれたバス停には誰も並んではいない。正門の前に寸分の狂い無く止まると、アレクセイは勘定を終えて寒空の下に立った。
 学び舎など、何年振りだろう。
 高等学校の白い佇まいを見上げるアレクセイに、守衛らしき紺色の制服の男がゆったりと歩み寄って来た。用件の質問と目的の解答をお互い丁寧に交わし、アレクセイは守衛の男の案内で学校内に通された。学生達は授業中らしく、彼等が歩く廊下には整然と窓枠に切り取られた日差しが並んでいるばかりだった。
「うっわ! 本当に来たし!」
 階段の上を見上げた守衛は、露骨に顔を顰めた。
「レイヴン先生。お客様にそのような口の利き方は、いけないと思いますよ。…では、私はこれで」
「ありがとうございます。助かりました」
 アレクセイの礼に、守衛は『いえいえ、とんでもない』と笑って去って行った。そんな背中を見送ってアレクセイが振り返ると、階段の上に彼が会うべき知人が立っていた。
 よれよれの白衣に、派手なピンクのアロハシャツが見え、深い紫のジャージの横を金のラインが走っている。ボサボサの髪の毛は緩く結われ、片方だけ多く落ちた前髪が片方の碧眼を隠していた。逆光で細部まで分からないが、教師とは思えぬだらしなさは十分に伝わった。
「久しぶりだな。調子はどうだ?」
「御陰様で上々ですよ」
 困ったようにレイヴンは微笑むと、アレクセイを促すように歩き出した。白衣の裾からクロックスがぺたぺたと、タイルの床を叩いている。猫背のように丸められた背中を追いながら、アレクセイは目の前の旧友の事を思い出していた。
 かつては物理学者として不動に近い地位を確立していたが、大病を患ってからは何もかもを変えてしまった。アレクセイが執刀し命を長らえてからは、地位とキャリアと繋がりを棄て、その為に名前も棄てた。彼に残された物理学の知識と、物理学に留まらない豊富な発想と倫理が講師としてここに居る理由なのだろう。人とは、生きていく為に金銭を獲得しなければならないからだ。
 理科準備室の札の掛かった扉を開けると、そこはやや私物化された空間があった。実験器具が所狭しと置かれた棚に混じって、珈琲豆や粉砕器、ちょとしたお茶菓子や付箋が束になっている『いぬのきもち』『ねこのきもち』が混ざっている。窓際にあるスチール製の机には、2脚のスツールが寄せられていた。
 ふわりと風に乗って珈琲の良い香りが漂った。
「生徒に隠れて持ち込むのが大変だったです。犬の並に甘い物に目敏い子がいるんでね」
 レイヴンがノートパソコンを畳んで、その上に白い箱を乗せた。開けば今が旬だろう苺のタルトやクリームチーズと苺の二段仕立てのムース、ショートケーキが入っている。もう一つ袋に入った箱をちらりと開くと、大量のクッキーとシュークリームが入っている。『こっちは職場の皆さんで食べてくださいよ』とレイヴンは笑った。
「昨日、クロームから貴方が来るって電話があったんですよ。全く、昔の上司の奥さんが手伝ってくれなかったら、俺は甘い匂いで死んでましたね」
 そう言いながらレイヴンは珈琲を寄越し、アレクセイの前に角砂糖を山盛りに入れたビーカーを寄せた。顔を顰めるアレクセイの携帯が鳴ると、ついいつもの癖でガンマンよりも早く取り出して通話ボタンを押した。
『鞄の中に白い布の包みを確認してください』
 名前を確認せず出た電話口からは、平坦なクロームの声が飛び出した。急患ではない事に安堵しつつ、アレクセイは布を見つけ中身を机の上に広げた。そこには、銀のフォークとナイフのセットが慎ましやかに納められていた。
 目を僅かに見開くアレクセイに、電話口の声は柔らかく告げた。
『では、アレクセイ。良い休日を…』
 電話が切れる音が響くと、アレクセイは電話から耳を離す。視線をあげたアレクセイの前には昔のように微笑むレイヴンの姿があった。
「愛されてますね。先生」
 そして『さぁ、どうそ』と言いたげに、レイヴンは自分の為に用意した無糖の珈琲を啜りだした。
 アレクセイがケーキを口に運び出すと、レイヴンが他愛も無い話をしだした。手の掛かる生徒の話や、昔から付き合いのある知人の近況などを面白可笑しく語ってみせる。アレクセイはあまり聞いている素振りは見せず、一方的にレイヴンが話をするばかりだった。授業で席を外した時には、レイヴンの机の上にある論文に目を通して赤いペンで訂正を入れた。
 友人がレイヴンになってでも、手にいれたかった幸せ。アレクセイはそれを心の何処かで、ちょっと馬鹿にしていた。地位も名誉も、邪魔にはならないし あった方が有利になる。それらを棄てて1から出直すなんて、理想論ばかりで現実が伴わないではないか…と。
 暖かい日差しに包まれ、青い空をアレクセイは見上げる。賑やかな教室のざわめきと、レイヴンの授業が聞こえてきた。
 アレクセイはそっと息を吐き、携帯の電源を切った。