不完全でも円

 アッシュが偶然にも席を外していた事は、とても幸運な事だったとルークは思う。
 中庭の日向で変形弓の整備をしているガルバンゾ王国騎士団隊長主席の隣に、ルークは座っていた。
 恩師であり神託の盾騎士団首席総長のヴァン・グランツの命で、ルークとアッシュはガルバンゾ国の騎士団へ出向という名の留学をする事となった。ヴァンはガルバンゾ国への親書に、それぞれ師事するべき人物を指定していた。ルークは厳格なる騎士の鑑たる団長アレクセイを、アッシュには人魔戦争の英雄シュヴァーンに師事し学べと書かれていた。
 親書を読み上げ聞いた一同は、互いに怪訝な顔をしたのをルークは覚えている。誰一人ヴァン・グランツの意図は理解できていなかったが、友好関係の維持には必要な措置であると騎士団長アレクセイ・ディノイアは要望を額面通りに受理した。かくして、何かの間違いではないかと思うような師弟関係が二組出来上がったのであった。
「具合は悪くないか?」
 唐突な声にルークが首を傾げた。
 シュヴァーンは非常に口数が少ない。発言の少なさと表現の少なさが相まって、ルークはシュヴァーンが何を言っているのか分からない事が多かった。
 あまりの言葉数の少なさに、アッシュが不満を漏らす程だった。師事をしろと言われたが、何も教えられもしない。酒場に連れて行かれたり、部下達の雑談に混ざったり、遊んでいるようにしか見えないと逆に師匠であるシュヴァーンを罵った。当のシュヴァーンは大人しくアッシュの説教を聞いてはいたが、当然立場的には上なので従う素振りは欠片も見せない。アドリビトムで賑やかを通り過ぎて煩いレイヴンがマシだとは口が裂けても言えなかったようだが、評判の英傑に見え隠れする仮の姿の影は我慢ならなかったようだ。アッシュは苛立ちが限界を越えそうな様子だったが、ルークには楽で良いとしか思えない。
「救護室に担ぎ込まれたと聞いた」
 あぁ。ルークはようやく理解する。先日、アレクセイの修錬に連行され気絶されそうな程に扱かれた事を言っているのだ、と。
「心配してくれるんなら、止めてくれよ! ヴァン師匠とは違って、アレクセイの修錬はイジメだよ!」
 唇を尖らせ赤い髪を乱しながら訴えるルークに、シュヴァーンは曖昧な笑みを浮かべた。
 アレクセイと対等に渡り合える人物は、ガルバンゾ国にはシュヴァーンしか居ない。ガルバンゾ国には、アドリビトムで出会った仲間が居た。フレン、アスベル、エステル、その誰に訴えても『アレクセイをどうにかしてくれ』というルークの願いを叶えてくれる人物は居なかった。逃げられてしまうか、励ましの言葉を掛けてくるかのどちらか。極稀にシュヴァーンだけが、助け舟を出してくれていたのだった。
 故郷とは違い、ルークの言葉は絶対ではなかった。
 笑うだけしかしないシュヴァーンに、ルークは苛立ちを隠さない。そんなルークを労る声は眠そうな程に穏やかだった。
「アレクセイは手加減をしない。同情するよ」
 シュヴァーンは俯き、長い前髪に表情は隠れてルークには表情が分かり難くなった。シュヴァーンは変形弓の整備をする手を休める事は無く、ルークの訴えは右に左にと受け流すばかりだ。ルークは必死に訴えて不満を言う事に夢中なあまり、シュヴァーンが相槌を打って聞いている振りをしているのには気が付けずに居た。
 色々吐き出してすっきりしたのだろう。日差しがルークの身体を温め、芝生の柔らかさに欠伸を漏らす。
「シュヴァーンはさ、アレクセイの部下してて大変だな」
「あぁ、それはもう大変だな」
 シュヴァーンは手元から視線をあげて、工具箱を漁りだす。
 騎士の鑑と呼ばれるアレクセイ・ディノイアを知る者は、ルークやシュヴァーンが言った『大変』さが良く分かった事だろう。アレクセイは完璧主義者ともいえる。自分に厳しく、他人にも妥協する事を許さない。それ故にガルバンゾ国の騎士団の存在感は王宮を凌駕しており、不正を許さぬ公平性は他国も信を置くほどである。アレクセイの抱える仕事の量は一人の人間にはあまりある量で、無理難題と言える仕事を任される部下は得難いほどに有能だ。だが、有能だから大変ではないという訳ではない。
 ルークはアレクセイに師事する事となり、その頑なな部分を押し付けられていた。従わなければ修錬という名の罰が下される。アレクセイはアッシュに似ていると、ルークは思う。ルークは、アッシュが嫌いだった。
 もしかしたら、シュヴァーンはアレクセイが嫌いなんじゃないだろうか? ルークは浮かんだ疑問を何の考えも無しに訊ねた。
「嫌いにならねーの?」
「そうだな。好きではない」
 シュヴァーンの即答に近い応えに、ルークは目を丸くした。
 ガルバンゾ国の騎士団は世界的に一目を置かれ、その運営を任された団長と隊長主席は生きた伝説と言って過言ではなかった。人魔戦争で傾いた騎士団を立て直し、貴族主義を撤廃し、王国の歴史でも類を見ない大胆な改革を行った。その経緯は輝かしい英雄譚よりも素晴らしい物語となるだろう。
 そんな物語の主役達が、不仲とは信じられない。何よりもアレクセイを敬称なしで呼び捨てられるのは、この国の王族以外なら団長の懐刀とすら揶揄されるシュヴァーンしかいないからだ。
 シュヴァーンは弦の調子を見ながら言った。
「それくらいが丁度良いのだ」
 ルークが反応に困って黙り込んだ為に、ようやくシュヴァーンはルークの方に視線を向けた。そしてやや油っぽい手で、ルークの赤い髪を撫でた。
「な、なにするんだよ!」
「ヴァン殿が期待するだけあって、ルークは優しいな」
 ルークは撫でられて乱れた髪を手櫛で直しながら、不貞腐れた様子でこう言うしかなかった。
「シュヴァーン。言ってる意味がわかんねーよ」
「そうだな…」
 シュヴァーンは作業の手を止めて、顎を手で擦りながら宙を見上げた。呆れたルークが関心を失ってしまう程の長い間、シュヴァーンは考え込んでいた。ふと顎から手を離して、考えつつなのだろう訥々と喋りだした。
「アレクセイは完璧で特に気遣ってやるべき事が無いから、周囲の誰もがアレクセイを頼る。アレクセイは期待に完璧に応える。あの性格だから敬遠はされてしまうし、苦手な者も多かろう。君は俺がアレクセイとは親しい存在だと思っているのだから、嫌いにならないか訊ねたのだろう? アレクセイの孤独を、ルークは可哀想だと思ったのだ。俺は凄く優しい者にしか出来ぬ事だと思うぞ」
「ほう?」
 シュヴァーンが身体を強張らせ、ルークが震え上がった。
 二人の背後にアレクセイ・ディノイアが書類を片手に立っていたのだ。付き従うように隣に立つアッシュが居なければ、剣を引き抜いていそうな表情でシュヴァーンの後頭部を見下ろしている。
 調節が丁度終わったらしく、一度剣と弓の形に変形する動作を確かめて呑気な口調でシュヴァーンは言う。
「あぁ、アレクセイ。会議が随分と早く終わったのだな」
「シュヴァーン、君の態度に怒りを覚える回数を指折り数えてみるとしよう。一時間位で拳が出来るので、その都度殴りたくなる」
 アレクセイはシュヴァーンのマントの首根っこを掴むと、ぐっと力を込めて持ち上げる。首元が開いている服だから苦しさはないが、シュヴァーンは呻きながら工具を道具箱に放り込む。
「今のは一度に拳ができる程度の苛立ちを覚えた」
「まだ調節後の試し撃ちをしていない」
「私の相手をしながらしろ」
 シュヴァーンが小さく溜息を吐いて立ち上がった。
 立ち上がったオレンジの胸元に、一抱えはあるだろう書類を押し付ける。
「これが、お前の分だ」
 言いながらアッシュに持たせている書類の束を無造作に掴み、シュヴァーンの書類に乱暴に重ねる。それを、苦虫を潰したような顔でシュヴァーンは見ているだけだ。
「増やさないで下さい」
 そう言いながら、シュヴァーンは雑誌を捲るように書類の束を見遣る。碧の瞳に理解の光が灯るのを見て、ルークはアッシュがシュヴァーンが優秀だと褒めていたのを思い出した。シュヴァーンは小さく頷いてアレクセイを見上げた。
「…分かりました。処理しておきます」
 シュヴァーンはアッシュに書類を預けると、アレクセイに引き摺られるように中庭に立たされる。ここでやるんですかと呆れた声でシュヴァーンが言うと、問答無用とアレクセイが剣を抜いた。
 その様子をアッシュと並んで見ているのに気がつくと、ルークは徐に訊ねた。
「アッシュは俺の事嫌い?」
「嫌いに決まっているだろう」
 吐き捨てるように言ったアッシュに、ルークは笑った。
「何故、笑う?」
 嫌いなら答えなければ良いのに。
 鳴り止まない剣撃の応酬の音楽を、双子は並んで聞いている。なんとなく楽しそうだと内心思いながら、師事すべき騎士達の戯れ合いを眺めていた。