充足不足

 団長執務室は騎士団の再編成に伴う人事異動の書類で溢れかえっている。人魔戦争での戦死者の追悼葬儀は大々的に行っても、書面上での処理は進んでおらず、未だ死亡した多くの騎士が騎士団に在籍したままの状態になっている。その処理は先代団長も手伝ってはいたが、新団長に就任したアレクセイ・ディノイアにはやるべきことが多くあった。
 整理整頓されている印象のあるアレクセイの執務室に、乱雑に書類が積み重なっている様を見れば新団長の多忙ぶりがよくわかる。それでも銀髪は美しく梳き解して香油で整えられ、ハンカチまでシワのない様は流石貴族であると思う。鎧は綺麗に磨かれて、相対するシュヴァーンを鏡のように映すほどだ。流石に目の隈は隠せないようで、白い肌がくすんでいるのが側からでも見えた。
「シュヴァーン、この書面にサインをしろ」
 アレクセイはそう言って執務机の上に真っ白な書類を滑らせた。簡潔な文体が何行か連なり、一番下にはアレクセイ本人のサインが書かれている。その下に自分がサインをすれば良いのだろう、シュヴァーンはそう判断する。
 しかし、一体何の書類だろう? シュヴァーンは重く落ちた前髪側の瞳も凝らして書類を見る。一瞥した限りでは、騎士団に関連する書類ではない。見慣れた武器搬出許可でも物品請求でも、人事異動や報告関連の書類でもない。シュヴァーンは浅黒い手を伸ばし、真っ白い書類を手に取った。見慣れない文字列がなかなか頭の中に入ってこない。
「その書類は、お前に譲渡する屋敷の書類だ」
「屋敷?」
 書面から顔を上げたシュヴァーンは、そのまま首を傾げた。
 シュヴァーン・オルトレインは帝国史上初となる、平民出身の隊長主席となった。
 騎士としての技量は疑いようもなく、人望という点でも人の良さから後からついて来るだろう。さらに人魔戦争の生き残りとして唯一騎士団に残った事実と、英雄として祭り上げる帝国の事情もある。騎士団長のアレクセイ・ディノイアは貴族としても位が相当に高いために、彼の信頼を得たシュヴァーンの揚げ足を取ろうとする貴族はそうはいない。
 シュヴァーン・オルトレイン単体では取り立てて問題はない。
 問題は平民出身故に、貴族出身者に付随する様々がなかった事である。その中で最も問題となったのか、シュヴァーンの家である。
 騎士団では自身の隊を持つ者には、王宮に個室が与えられる。それらは騎士団の詰所とは違ったプライベートな空間という意味での部屋であり、寝食をそこで行うことができる。多忙な隊長を慮った、何代も前の皇帝のご好意である。
 当然、そこは自宅ではない。皇帝からお借りした一室である。
 元々シュヴァーンはザーフィアスの下町に部屋を借り、そこを自宅としていた。本人はそれで良いと言うが、隊長主席にまでなった者が下町に暮らしているなど、貴族主義が濃厚な帝国の自尊心が認めるわけがない。シュヴァーンの自宅問題は可及的速やかに対処すべき問題であった。
「ディノイア家で使わぬ屋敷があるので、それをお前に譲渡する書類だ」
 シュヴァーンは目を剥いた。貴族街の屋敷など、シュヴァーンがこれから隊長主席として与えられるだろう給料を、いくらつぎ込んだとしても購入できる金額ではない。しかも、先立つものがあったとしても、貴族街はほとんど土地を貴族が既に所有しており、新たに購入することはできない。貴族街の屋敷の購入は、不可能と言ってもよかった。
 アレクセイが何気なく渡したどれもが、シュヴァーンに生涯縁のない高級品であった。アレクセイに大したものではないと押し切られ、しぶしぶ受け取ってはきた。だが、屋敷となると安易に受け取ることはできない。
「そんな高価なものを、受け取る事はできません」
「お前に拒否権はない。さっさとサインをしろ」
 シュヴァーンの回答は想定の範囲内だったのか、アレクセイは静かに、しかし神経質に白い書面を指先で叩いた。
「私の右腕が下町の貧相な家に寝泊まりしていると言う事実が、私の地位の存在価値を既に貶めている。お前には私の右腕として相応の財産と地位が与えられなくてはならないのだ」
 えー。シュヴァーンの呻きが聞こえた。平民には理解できない感覚である。
「しかし、屋敷をいただいても、俺にはそれを維持するなんてできません」
 シュヴァーンがトール隊の隊長になった時に、既に自分の身の回りのことは最低限しかできなくなっていた。多くの同僚は結婚し妻を得て生活を支えてもらっていたが、隊長とはいえ平民出身のシュヴァーンに縁談は舞い込んではこない。例え、交際を申し込んできた女子が現れたとしても、当時の自分が彼女の想いを受け止め結婚するに至れるだろうかと思えば、答えは『いいえ』としか言いようがなかった。
 そんなシュヴァーンが屋敷など貰っても、廃屋にしてしまうのが易々と想像できた。
 アレクセイはその回答も想定の範囲内だったらしく、隣の控え室に真紅の双眸を向けた。短く『入れ』と発した声に一拍置かれて開いた扉には、老執事と言うべき男性が控えるように立っていた。恭しく頭を垂れてから、室内に入り扉を閉めるまでの動作はゆっくりと感じたが不快に感じない程度に素早い。
「彼は私の父の代から仕えている、信頼のおける男だ。彼がお前に与えた屋敷の管理を行う」
 シュヴァーンから息が漏れる情けない音が出た。展開についていけず呆然とするシュヴァーンに、背がピンと伸びた老人が穏やかに会釈した。
「お初にお目にかかります、シュヴァーン様。私はノージアと申します」
「は、初めましてノージア殿。シュヴァーンです」
 挨拶だけは脊髄反射。シュヴァーンの差し出した手を、ノージアは品よく握る。白髪で色の白いノージアには年齢相応のシワが刻まれ、微笑む穏やかさ絶妙な手の握り加減から温厚な性分が滲み出るようだった。
「失礼ですが、ノージア殿。貴方は貴族の名門に仕える、非常に有能な存在であるはず。そんな貴方が、俺のような平民出身の若輩者に仕えることが本意とは思えない」
 アレクセイに命じられ、不本意ながらに引き受けたのではないか。そう遠回しに言ったシュヴァーンの言葉に、ノージアは笑みを消すことも深めることもしなかった。
「シュヴァーン様、確かに貴方様は貴族としての歴史が始まったばかりのお方。数ある名門に比べれば、己を卑下してしまうのも仕方のないことでしょう。しかし、アレクセイ様が既に、私が貴方にお仕えする理由をお話になっておいでです」
 眼鏡の奥の青灰色は、まるで無風の空のように凪いでいる。
「貴方様がアレクセイ様の隣に立つに値する存在になること。それは、最終的にアレクセイ様の存在価値に直結するのです。アレクセイ様のお力になる、それが私の存在意義であります」
 揺るぎない忠誠心。この老人は自分に仕える体裁ではあれど、その忠誠心はアレクセイに向けられている。アレクセイを裏切るなど毛頭にも思ってはいないが、悪口一つ零せば翌日はアレクセイ直々に手合わせの命令が飛んでくるのを察し、シュヴァーンは思わず生唾を呑んだ。
「ノージアは優秀な男だ。屋敷の管理は完璧に遂行される。そして貴族の勢力も把握し、御し方、遇らう方法も心得ている。ヴィア夫人がフォローできぬ部分を、的確に支えてくれるだろう」
 ほら、早く。そう言いたげに、背後から白い指が書面を叩く音がする。
 シュヴァーンは今更ながらに、恐ろしい世界に足を踏み入れたと悟った。なぜ、自分に隊長主席という大それた役職が回ってきたのか、いまだに理解できない。しかし、もう後戻りもできない。
 気ままな平民暮らしが、酷く懐かしく感じた。