並び歩く荒野

 帝都ザーフィアスの下町の片隅にある飲食店は、草木も眠る頃合いにも淡い明かりを灯している。客達も想い想いの時間を過ごしており、忘れた頃に本の頁を繰る者、氷の溶けた琥珀色を眺めて物思いに耽る者、店の片隅のソファーに身を投げ出して眠っている者と様々だ。川の流れる音が忍び込んでは子守唄を歌うのか、店主ですらも眠っているかも知れない。
 そんな店内に来店のベルが鳴り響いた。
 顔を上げて来店した者を見遣ったのは、数人程度しかいなかった。その中で最も入り口に近い者が、顔を上げて眠たい目を少しだけ見開いた。新たなる客人は目が合った人物に会釈をして、この時刻には似つかわしくない冴え冴えとした青を瞬かせた。
「夜分遅くに失礼します、シュヴァーン隊長」
 好青年らしからぬ小声は周囲に配慮したもの。シュヴァーンと声を掛けられた相手もまた、声を潜めて応じた。
「フレン団長。こんな時間にどうしたんだ?」
 とりあえず、掛けなさい。そう、目の前の席を勧める。現在、団長代理として騎士団を率いる青年は、甲冑を着ていないが、甲冑の打ち合う音すら聞こえそうな美しい敬礼をして着席した。
 こうして対面する事になった、騎士団の団長と隊長主席。大事な話に決まっている。シュヴァーンはテーブルの上に広がった書類と手紙を片付けようと手を動かし始めた。それを止めたのは他ならぬフレンである。
「あの。シュヴァーン隊長の手を止めてまで聞いて頂く内容ではないので、そのままで結構です」
 小声でも歯切れの良い快活な語り口である。かつての上司であったアレクセイを彷彿とさせる、騎士達の鑑として申し分ない声と口調だ。シュヴァーンはフレンの声に自分の時間として弛緩していた意識が、背筋と共に伸びるのを自覚した。
 もし、騎士団としての緊急の報告や呼び出しがあった場合、ここにフレンが直に現れる事はあり得ない。シュヴァーンが王宮の自室、自宅である屋敷にいなければ、この店にて書き物をしているのは誰もが知る所である。むしろ、そのような緊急事態の場合は団長であるフレンには王宮に直行してもらう必要があるし、シュヴァーンは部下が呼びに来るのが筋だ。
 だが、シュヴァーンが手を止める必要がない程度の他愛ない話であるのか? フレンは部下であるシュヴァーンを尊敬している。そんなフレンがシュヴァーンの私的な時間を潰すような真似をする訳がないし、翌日王宮で話す方が双方にとって都合が良い事だろう。
 やはり、フレンはシュヴァーンに話がある。そしてその話は片手間で聞いて良い内容ではないだろう。
 シュヴァーンはそう結論づけ、テーブルの隅に追いやられたメニュー表をフレンへ差し出した。
「好きなものを頼みなさい」
 そう言いながら、手際良く書類を片付ける。その様子に止めようと手が泳ぐ団長代行だが、何の書類か理解する前に瞬く間に片付いていくのを目の当たりにして諦めがついてしまったらしい。シュヴァーンは新しい上官がグラタンを頼むのを聞いた。
「分かった。少し待っていてくれ」
 シュヴァーンがゆらりと立ち上がり、奥の厨房まで入っていってしまうのをフレンはただ見送るしかなかった。しばらくしてシュヴァーンは、チーズが沸騰するグラタンを手に戻ってくる。濃厚なチーズの香り、上に塗された粉チーズがカリカリと音を立てそうな狐色に焼き上がっている。
「あの…何をしてこられたんですか?」
「何って、グラタンを作ってきた」
 そういう約束なのだ。シュヴァーンは悪びれもなく言う。
 この店の常連は、深夜帯に限り料理を自分で拵えて良い事になっている。むしろ店主は体を休めたいし、材料費を払うなら好きに作って食ってくれと推奨されているくらいだ。シュヴァーンはこうして訪ねてきた相手の注文を、手ずから受けているのである。
 冷めぬ内にどうぞ。そうフレンの前に置かれたグラタンは、見た目の通り猫舌を殺す熱さである。一口大に切られた鶏肉はホワイトソースの衣を纏って熱を籠らせ、マカロニの伏兵はするりと口腔内に滑り込む。玉葱の甘みがソースに溶け込み、茸の香りがチーズと相まって豊かに鼻腔に抜けていく。夜気の冷え込みの中を歩いてきたフレンの体を内から温める熱は、出来立ての味わいの幸せと共に満ちていく。フレンの金髪が黄金色に輝くようだ。はふはふと湯気と吐息を混ぜながら美味しそうに食べるなぁと、シュヴァーンは重く垂れた黒髪から覗く碧眼を和ます。
 ごちそうさまでした。そう満足げに言ったフレンに、シュヴァーンは食後の珈琲を置いてやりながら話題を切り出した。
「それで、わざわざ何用なんだ?」
 すると、フレンはいつもの快活さを足元にでも落としてしまったのか、恥ずかしげに口籠った。シュヴァーンが急かさず待っていると、フレンは漸く口の中で転がしていた言葉を声にし始めた。
「実は、ヨーデル様から大層な頂き物をしてしまって…」
 シュヴァーンは既視感を感じ、その正体を直ぐに察した。
「大層な頂き物とは…屋敷か?」
「そ、そうなんです! 団長代行という立場になったとは言え、剣や鎧や馬ならまだしも、や、屋敷だなんて…! しかも、屋敷を管理する為の執事や家政婦までいるんです! ヨーデル様のご厚意を無下にする訳にもいかず…」
 かつての自分もこんな様子でアレクセイの前に居たのかと思うと、やや恥ずかしく思うほどである。水を得た魚のように途端に饒舌になったフレンに、シュヴァーンはやんわりと話しかけた。
「君は団長になる。そんな君へ、ヨーデル陛下からのご祝儀と思えば良い」
「屋敷と人なんて、大げさすぎます」
 フレンの気持ちをシュヴァーンは自分の事のように理解している。
 平民出身の隊長主席。かつての自分が、団長であるアレクセイから屋敷を貰い受けた時の気持ちは鮮明に残っている。巨大過ぎる物を受け取る事の恐怖。人を物のように与えられる後ろめたさ。それらが不相応過ぎる自分への情けなさ。今でさえそれはシュヴァーンの心の中に棘のように刺さって残り続けている。
 シュヴァーンは聞いていると眠くなるような穏やかさで、フレンに語りかけた。
「平民出身の我々には不相応な財産、そう感じている事だろう。だが君は騎士団に属する数多の貴族の上に立ち、帝国に存在する数多の貴族を相手にしなくてはならなくなった。そんな君に、陛下は装備を与えてくださったのだ」
「装備?」
 目を瞬くフレンに、シュヴァーンは頷いた。
「騎士団団長である君が、相変わらず下町で寝泊まりしている。それだけで貴族は、君の実力を軽んじる。屋敷は鎧だ。君を必ず守ってくれるだろう」
 フレンは反論しようとした言葉を喉に詰まらせた。互いに平民出身。平民だからと貴族に軽んじられる場面は、互いの想像以上に多いと察するに余り有る。
 フレンがヨーデルから屋敷を賜った。その事実だけで相当な守護となる。
 かつてのシュヴァーンがアレクセイから屋敷を賜ったという事実が、シュヴァーンの後ろ盾をアレクセイ・ディノイアが担うと宣言したと同意義であったからだ。フレンにも、同じことが言えるに違いない。
 そして助言者である屋敷と共に配置される人員。これもヨーデルによって細心の注意と審査の結果選りすぐられた存在であろう。彼らはヨーデル、帝国、そして平民初の団長であるフレンのために尽くしてくれる。
「社交界の渡り方の助言は誰がする? エステリーゼ様やヨーデル様に、毎回伺いを立てる訳には行くまい? 屋敷の管理という名目ではあるが、君の元にやってきた人々はヨーデル様が信頼を寄せるその道を良く知る人材なのだ。君の知らぬ世界を教える師と仰ぎ、しっかりと耳を傾けると良い」
 実際にアレクセイの元からやって来たノージアは優秀だった。シュヴァーンが社交界で分からぬ事を、的確に指導してくれた。シュヴァーン隊の運営はヴィアやルブランが支えてくれたが、社交界までは彼らの加護は受けられぬ。ノージアの指導や助言は、今まで戦いしか知らなかったシュヴァーンにとっては基礎訓練と同じかそれ以上に大事な事となっていた。
 そして、シュヴァーンは小さく微笑んで、不安げなフレンを見た。
「屋敷を貰ったからといって、君は何も変わらない。君の不安は君の元に来る人達が全て片付けてくれる」
 いずれ分かる。そう言ってシュヴァーンは珈琲を啜った。
 隊長主席になっても、騎士としてやるべきことは変わらなかった。恐ろしいと思った世界は、周囲の守護を感じて暖かさすら感じた。実際にレイヴンとして活動することは行き過ぎだったとしても、平民暮らしは望めば如何様にもできた。
 そう、口で今言ったとしても、フレンの不安を拭う事はできないだろう。百聞は一見に如かずである。
「強いて言えば、注意すべきことが一つ」
 フレンの青い瞳をひたと見つめ、シュヴァーンは生真面目な口調で言った。
「縁談を断る手紙は、屋敷では書かぬ事だ」
 首を傾げるフレンに、シュヴァーンは『いずれ分かる』と言った。