耳傾ける言葉

 シュヴァーンは鶏肉の皮が焼けて弾ける音を、小気味良いと思いながら聞いていた。焚き火が爆ぜる音に似ていて、心が落ち着いた。店主が配合したスパイスのなんとも言えぬ香ばしさは、深夜帯は食べ物を口にしない体の空腹を呼び覚ます。香りは寝静まった店内に満ちて、寝息のコーラスは乱れ始めていた。
「良い匂いだな」
 厨房というには手狭な台所の入り口に、のそりと男が顔を出した。職人気質が顔に滲みてた常連客だ。短く切りそろえた髪には白いものが混じり、日に焼けた顔には経験と年輪が刻まれている。台所の明かりに照らされて、彼の瞳の色が茶色である事を、シュヴァーンは初めて知った。
「起こしてしまって、すまない」
「謝るなら俺の分も作ってくれ。お前と、お前のとこの若い衆の珈琲を奢ってやろう」
 叱ったならば身が竦みそうなガラガラ声である。だが、気っ風の良さや心根の優しさが、少し持ち上げた口元に現れている。常連客だけあって互いに勝手知ったる台所。大の男が2人も立てば肩も当たる狭さを、初めてとは思えぬ滑らかな動きで立ち回る。互いに夜の静かな時、同じ空間で過ごすだけあって息が合うのかもしれない。
「若い衆に頼りにされて大変だな、伊達男」
 手慣れた様子で珈琲豆を炒る男はポツリと言った。
 この店の常連の誰もが、入り口に最も近いテーブル席の上を見たことがあるだろう。紙に留まった麗しい女性達は幾人もいて毎回違う。手紙を書いている男もそこそこに顔がいいのだ、伊達男と揶揄されるのは妥当だと思えた。そして、会話から誰もが帝国騎士団隊長主席であるシュヴァーン・オルトレインであると知れるのに、そう呼ばないのは優しさと感じた。
「いや、それほどでもない」
「どうだか」
 男がからりとした笑い声をあげ、カップを温め出す。
「今回は随分と顔色が悪いぜ。若い衆は年寄りを困らすのが仕事だが、それを差し引いても同情するよ」
 良い珈琲の香りが立ち上る。先に出来上がったタンドリーチキンとパンを盛った皿を持って、男は颯爽と台所から出て行く。見送ったと思ったシュヴァーンの視線の先で、男は顔だけ台所に戻してきた。
「可愛い子には旅をさせろと無責任に突き放すのは、年寄りの特権だぜ」
 じゃあな、と振られた手を見送る。残された珈琲を二つ見下ろして、シュヴァーンは小さく息を吐いた。

 ぱりぱりの皮に齧り付き、溢れ出る肉汁を惜しげにパンで拭い取る。騎士団団長フレン・シーフォは年齢相応の食欲を惜しげも無く披露し、満面の笑みで美味しいですと賛辞を寄越す。平民出身の騎士でありながら、これほど真っ直ぐで眩しい逸材であり続けられるのは彼の実力もさる事ながら気質がそうさせるのだろう。フレンを妬ましく思う者は居れど、非難する者は少ない。
「ご馳走様でした。とても美味しかったです」
「それは良かった」
 満腹で幸せ。そんな思いを吐息に乗せて、フレンは微笑んだ。こちらも作った甲斐が報われる気がして、気持ちが満ちるのを感じる。互いに食後の珈琲に舌鼓を打ちつつ流れた穏やかな時間は、そう長く続かなかった。
「実は見合いの話が来たんです」
 フレンの言葉はシュヴァーンの想像通りの内容だった。来るべき話題が来たとも言えるし、その来るべき話題の相談相手にシュヴァーンが選ばれたことは謎としか言いようがない。いや、同じ平民出身だ。騎士団の役職の中ではフレンが団長になる前では、平民で最も高い位置にいた。さらにレイヴンとして共に過ごしたからこそ、気心が知れている。様々な点を考慮しても、シュヴァーンが最も相談しやすいと白羽の矢が立つ事は仕方がない事であろう。
 まるで歩いてきた道をなぞるように、フレンの話は進んでいく。見合いは後見人であるヨーデルから直ではなく、仲人を介して持ちかけられた。白い大きな便箋には、見慣れた書式に肖像画が入っている。フレンには天地が引っ繰り返る程の衝撃だったことが、わずかに波立った声色で分かる。この時点で親友であろう男に相談すれば、ひたすら笑われて夜が明けるに違いない。
 フレンが差し出した封筒の中身を検めて、シュヴァーンは確信する。この見合いはヨーデル陛下の意向で設定されている。フレンの同年代であることを前提にすれば、相手の女性の家柄、性格、容姿など全てを比べれば、この帝都で一番とも言える存在だからだ。高嶺の花を差し出されては。流石のフレンの動揺しよう。
「会ってみれば良い。互いに話して相性が合わないという事はよくあるし、その上で断る事は決して失礼ではない」
 生まれて直ぐ許嫁を決められる存在であっても、破談はある。死別であったり、病気であったり、家の不祥事で名誉が傷付いてしまったり、稀に駆け落ちされてしまう話もあるという。互いに接点がないが結婚適齢期で見合いを設定されて、上手くいかない事など山のようにある。そのための仲人なのである。
 その事を伝えて、当然フレンが安心する訳がない。
「いえ…しかし…」
 快活明瞭が人の形をしているフレンでさえ、動揺することもあるのか。珍しい表情を珈琲を飲む振りをして盗み見たシュヴァーンは、団長とは大変なものだと同情した。
「当然、見合いの場で断る必要はない。俺のように手紙で断りの返事を書けば良い」
「そう…ですよね…」
 歯切れの悪いフレンの言葉に、シュヴァーンはようやく気がついた。フレンの相談の内容が、縁談の断り方ではないことに。全ての考えを改め本当の相談の答えを探さなくてはと、顔を上げたシュヴァーンは驚きに息を呑んだ。フレンの青空のような真っ青な瞳と目が合った。
「シュヴァーン隊長…お願いがあります」
 決意を述べる男の顔である。
 シュヴァーンが、ごくりと唾を飲み込む間に様々な事を思った。青年はフレンに想い人は居ないと言ったが、実は居るのではないか? それならば、縁談を持ちかけられても困る。例え今回の縁談に関わる全ての人の顔を立てて見合いをし、後日断りの手紙を送り何事もなく終わったとしてもフレンの心中は穏やかではないだろう。これほど真っ直ぐな青年だ。想い人以外と結婚を視野に入れた話をした、それだけで自身を苛んでしまうやも知れぬ。
 誰。とは流石に思わなかった。むしろ、女性に好意を寄せる男らしさがフレンにあったことに感動すらした。
 これは全力で対応しなくてはならぬだろう。団長に想い人あり。その事実が知れ渡っただけで、女性の騎士達が暴走しかねない。色恋沙汰だけはヴィアも制御できぬと手綱を手放すのだ。己がしっかりせねば騎士団の機能が失われてしまう。
 肩が力んで姿勢が少し前に出る。フレンの言葉は待たずして来た。
「貴方に、お見合いに同席していただいたいのです」
「ん?」
 背後で盛大に吹き出す音が聞こえた。店内の静寂にタンドリーチキンの香りが、無遠慮に鼻先を掠めて過ぎ去る。スパイスの香りが呆然としているなと意識を叩くが、真っ白い脳裏に浮かぶだろう言葉を受け入れるには時間が欲しいと思う。
 無責任に突き放すのは、年寄りの特権だぜ。そう言った男の言葉が眩しく溶けた。